1月14日夜、星野再審弁護団長の鈴木達夫弁護士が逝去され、東京都町田市の斎場で21日に通夜、22日にお別れの儀が行われました。両日合わせて280人の参列者は、鈴木先生の意思をついで、改憲・戦争阻止、安倍政権打倒、星野国家賠償請求訴訟と第3次再審請求に勝利することを誓いました。
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星野暁子さんは鈴木達夫弁護団長への弔辞で「再審がこれからだという時に、星野文昭に続き、鈴木先生を奪われたことは本当に無念でなりません。残された者が後を引き継いでいく以外ありません」と語りました。
通夜ではNHK長崎時代の先輩の田中勝美さん、革命的共産主義者同盟の秋月丈志さん、弁護士の武内更一さんが、お別れの儀では動労千葉顧問の田中康宏さん、芸人の松元ヒロさん、弁護士の高山俊吉さんが、それぞれ弔辞を述べました。鈴木先生が好きだった歌が流れる中、参列者は霊前に花をたむけて、これからの闘いを誓いました。
弁護士登録時に再審弁護団長に
鈴木弁護団長は1991年の弁護士登録と同時に同期の和久田修弁護士と共に星野再審弁護団を結成し、団長に就任しました。星野さんを無期懲役とした確定判決(東京高裁・草場良八裁判長)をどう打ち破るかの議論を重ね、96年に第1次再審請求書を提出しました。30年間、再審・無罪をかちとり星野さんを取り戻す闘いの先頭に立ち続けてきました。
2017年7月に星野さんが無期懲役開始から30年を迎えて、仮釈放審理を行う四国地方更生保護委員会に対する申し入れ行動を全力で闘ってきました。闘病生活に入ってからも常に委員会との闘いに注目し、星野さんを生きて取り戻せなかったことを心から残念だと語っていました。
改憲・戦争阻止安倍政権打倒へ
鈴木先生は、改憲・戦争絶対反対の闘いや安倍政権打倒の闘いにおいても常に先頭に立っていました。
「司法改革」の名による裁判員裁判導入に反対し、高山弁護士や武内弁護士が立候補した日弁連会長選挙を全力で闘いました。労働組合や学生運動への弾圧とも全力で闘い、法政大学の裁判では全員無罪をかちとりました。
関西生コン支部弾圧に怒りを燃やし、動労千葉を先頭とするJRでの闘いに全力で連帯してきました。
2016年には参議院選挙の東京選挙区に立候補して「労働者の政党をつくり、安倍政権を打倒しよう」と訴えました。
いよいよ星野さん獄死の真相を究明し、責任を追及する国家賠償請求訴訟に踏み出します。獄中44年を不屈に闘った末に星野さんが獄死させられたことに対する怒りと悔しさは増大するばかりです。
徳島刑務所は、巨大な肝臓ガンで食欲不振が続き、体重が減少する星野さんの医療を放棄し、その上、仮釈放審理を不利にするために更生保護委員会に連絡せず、隠ぺいしました。
東日本成人矯正医療センターは、これほど巨大な肝臓ガンの切除手術を行える体制も能力もないのに、手術を強行して星野さんを死に追いやりました。
私たちはこの国家犯罪を絶対に許しません。国賠訴訟に勝利し、さらに第3次再審請求に前進しよう。
鈴木達夫弁護団長の軌跡
1940年東京都中央区生まれ。都立新宿高校卒業後、1959年に東京大学理科Ⅰ 類入学。工学部土木工学科卒業後、1964年にNHK(日本放送協会)の番組制作ディレクターとして入社。長崎局に赴任。その後、日放労(NHK労組)長崎分会委員長に。1968年、原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争に参加。70年安保沖縄闘争時の全国反戦青年委員会代表世話人となる。NHKの東京配転命令に反対し、百日間闘争。15年間の裁判闘争の末、1982年に解雇される。1991年弁護士登録(第二東京弁護士会)と同時に星野文昭さん再審弁護団の団長に就任。以降、弁護団長として活躍。2016年には、参議院東京選挙区から立候補し、1万6981票を獲得した。
星野再審弁護団長として確定判決に取り組み、1996年に第1次再審請求、2009年に第2次再審請求。星野文昭さんが受刑30年となった2017年以降、四国地方更生保護委員会に対する闘いの先頭に立った。毎回全身全霊で更生保護委員会を追及して星野さんの即時解放を求めた。2019年に肺ガンを患い闘病生活に入っていた。享年79。 |
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星野新聞第93号 掲載
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