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星野暁子さんの意見陳述
文昭獄死の真相を追及する


裁判終了後弁護士会館での報告集会(6月22日 東京・霞が関)

 星野文昭が亡くなったのは、昨年5月30日でした。東日本成人矯正医療センターから電話があり、近くのホテルに泊まっていた私がすぐ行ってみると、文昭はすでに棺桶に入っていました。もう一度手を握り別れを告げるつもりでいた私には、ショックでした。
 28日の手術直後に医師は「手術は無事終わり、がんの全部を切除できました。出血はありましたが血止めの処置を行い、本人も病室に戻っています」と言っていましたが、翌朝8時頃電話があり「周術期出血にともなう急性肝不全による全身状態の悪化」で重症だというのです。すぐに医療センターに行きました。文昭は呼吸器を付けられ話はできませんが、私の言葉に懸命にうなずいていました。夕方再びセンターから電話があり「危篤だ」と言われました。急いで駆けつけ、ベットの柵を力一杯握る文昭の手を取り、胸に顔をうずめました。一緒に生きてきた35年で初めてのことでした。
 29日午前中の医師の説明では、「午前5時頃血圧が下がり、ショック状態に陥った。肝臓から出血があり、人口呼吸、輸血、輸液、昇圧剤で容態悪化を防いでいる。出血を止めるには再手術が必要だが、再手術をするだけの本人の体力がない」とのことでした。
 しかし、再手術は再出血後すぐであれば間に合ったのではないのか? という疑問を持ちます。医療センターは、手術後集中治療室(ICU)に入れず、29日未明、午前1時30分から午前5時まで、医師も看護師も巡回していませんでした。医師は当直医以外は全員帰宅していたのです。巡回は28日未明、30日未明は行っているのに、29日未明だけ行っていないのです。なぜ巡回すらしなかったのか、聞きたいと思います。大量出血しショック状態にあった文昭にとって、術後のケアは生命を左右する重要なものでした。決して許されないことです。医療センターが、14×11㌢の肝臓がんの切除を行う病院として、不適切であったこと、手術直前の肝臓の悪化で、手術をするかどうかが検討されなければならなかったことも重要です。
 昨年4月18日に医療センターに移監になるまで32年間、文昭が居た徳島刑務所は、体重が58㌔から50㌔以下に減少する中、家族・弁護団の要望を受け入れず、2018年8月に倒れてから翌年3月になるまで、精密検査を行いませんでした。そして肝臓がんであることがわかってからも、本人にも家族にも、報告の義務がある仮釈放審理中の四国地方更生保護委員会にも報告しませんでした。
 私が文昭と出会ったのは1984年、獄中結婚し、籍を入れたのは2年後でした。拘禁性ノイローゼが治りかけという中で、自分と一緒に生きてくれる女性を求めた前向きさにひかれました。そして公判で語った「すべての人間が人間らしく生きられなければ自分も人間らしく生きることができない。すべての人間が人間らしく生きられるよう、自分の生を貫きたい」との言葉に感銘を受けました。「たとえ無期であっても、この人と一緒に生きたい。愛する文昭を獄中から取り戻したい」そう思い、人生をかけた闘いを二人三脚でやってきました。
 この裁判で、文昭の死の真実を暴き、文昭の死を文昭と私のもと、みんなのもとに取り戻したいと思います。それを通して人権侵害が日常化する獄中医療を変革したいと思います。


星野新聞第102号 掲載