星野暁子さん面会日記
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2014年 8月18日~22日

     星野闘争は広範な人々と結びつく

 8月18日、カンカン照りの徳島の朝だったが、昼過ぎにザァーと雨。面会に行く頃には、すずしくなった。その話を文昭にすると、「暁子のためのシャワーだね。こっちは、ずうっと曇りだよ。今年の夏は、2回の台風のおかげで、いつもの年よりは過ごしやすかった。お盆も15日だけは、3回も着替えをしなければならなかったけど、あとはまあまあだったよ。30度を越える日があまりなかったからね。広島の人たちには悪いけど」と言った。山川洋子さんが写してくれた「かんな、むくげ」などの拡大カラー写真を見せた。
 「安倍倒せ」の8月17日の集会の報告をした。9日の長崎の式典で「集団的自衛権の行使容認は憲法を踏みにじる暴挙」と発言された城臺美弥子さんが、17日の集会に参加され、感動的なスピーチをされたと伝えた。文昭は、「戦争を体験している日本の民衆は、その怒りの深さがちがう。安倍は民衆の怒りを見くびっている」と言った。


 8月16日の星野全国総会の報告もした。「7・1集団的自衛権情勢の中で、戦争に反対してでっち上げられ、40年獄中で戦争反対を貫いていると訴えると、あれこれ説明しなくてもわかってもらえるようになったという意見が何人かから出された。証拠開示を求める100万人署名をどう集めるのか、みんなの知恵をしぼって話し合ったよ」と私は伝えた。「戦前の日本共産党の敗北の歴史を乗り越えて闘ってきて、ようやく「希望」というところまできた。今、星野の闘いは輝きを増すんだ」と文昭。
 19日。20日に訪れる大阪・西郡、八尾北医療センター労組との交流会に届ける文昭のアピールの聞き取りをやった。文昭はその中で、八尾北・西郡の闘いは自分の魂だと語っている。
 20日早朝の面会後、西郡・八尾北労組と交流会をして、翌日の午後徳島に戻った。この日の面会は、その報告が中心になった。西郡は、被差別部落としての解放を長く闘ってきた。自分たちの土地を提供して、解放住宅をつくった。家賃1000円ぐらい。その後八尾市は、応能応益家賃制度を開始。一家族の総収入の割合で家賃を払えと言ってきたため、8家族は供託金を預けて闘ってきた。19日までに立ち退けと、八尾市は通告してきた。そのさなかに医療センターでの文昭の絵画展を開催し、交流会を開いてくれたのだ。



 100万人署名が集まる根拠


 「(文昭と私が)互いを大切にしている」「文昭さんのやさしい人柄、生き方が絵に表れている」「反省させられることばかり。私らの悩みは、まだまだ小さい」「健康問題はどうしているのか?愛と革命は一つであることを気づかされた」などの感想をいただいたことを、文昭に話した。森本さんの家が強制収容された時、文昭が自分の賞与金の中から5000円(一ヶ月分の「賃金」)カンパしたことをきっかけに、佃さんはじめ西郡のみなさんとのつきあいは熱い。文昭は、珍しく「僕もその場にいたかった」と言った。
 末光さん、藤木さんも言われたように、7・1以降、西郡がそうであるように、鋭い攻撃が労働者民衆にかけられてきている。40年無期と闘い日々勝利してきた星野の闘いは、みんなをいっそう勇気づけ、結びついていく。そのことも文昭と話し合った。今までも、個人として、「生きる力をもらった」等の感想は、しばしば寄せられてきていて
、そのひとつひとつに激励されたが、今回は、組合として、組織として、闘いの総体として、星野と結びつき、根底から激励しあえたことの大きさを実感した。100万人署名が集まる根拠もここにあると思った。
 文昭は、「暁子との愛と団結を支えに僕が生き抜いているのを見て、労働者が立ち上がって今の社会を変えることに展望を見いだしている。これから星野闘争は、広範な人々と結びついていくことになる。僕はその場にいないけど、暁子を通して結びついていく」と語った。だからこそ、70歳までに取り戻す、それが私の目標だ。最近、みんなが言ってくれるようになった。
 22 日、5回目の面会。宅下げた今年11番目の作品「母と子―チェルノブイリの願い、フクシマの願い」を見ながら話をした。チェルノブイリの子どもに私が寄り添っている絵だ。「コンクールに出展して戻ってきた絵に手を加えて、納得のいく絵が出来た。今年のカレンダーのメインにしたい」と文昭は言った。
 どんな状況の中でもまっさきに展望を語る、星野文昭は健在だ。