星野暁子さん面会日記
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2015年 3月26日~27日

  獄中40年になる星野文昭との面会


 徳島刑務所の受付に向かう桜並木の花々が、咲き始めた。3月26日快晴。3か月ぶりの面会。にこやかな文昭と対面した。
 「手紙がまた届くようになって、元気な暁子が面会に来てくれた。それに合わせて僕も元気になった。暁子が元気だと僕も元気なんだ」と文昭は言った。「薬を飲まなかったことが、今回の入院の原因だ」話すと、「薬を飲むことを、もっと積極的に位置づけた方がいい」と文昭。「もちろんそうしたい」と私は応えた。
 前日の鈴木達夫弁護人との話では、「開示請求している11人の民間目撃供述を新たに位置づけなおす」ということを中心に議論ができたとのことだった。「鈴木さんと2時間、藤田城治弁護士とは3時間も話しをしたよ。暁子ともそんなふうに話ができるように、早く出なきゃならない」
 







 
宅下げした絵は、只見山の満開の桜の中を只見線の列車が走っている作品だ。「水害で一度廃線になったのが、住民の要望で一部再開になっているんだ。その再開の運動の中で作られた絵はがきを見て描いたんだ。動労千葉、動労水戸、それから福島で闘っている人たちへのエールをこめて描いたものだから、喜んでもらえるんじゃないかな。もちろん暁子の回復への喜びをこめて」と文昭。「桜の描き方がなかなか難しい。日本画などは、一本一本描いている。今回の描き方でいいと思っている」と続けた。
 3月29日の三里塚集会に「行こうと思っている」と伝えると、「みんな暁子の笑顔があるだけで喜ぶんじゃないか」と文昭。「29日に集会をやる栗山公園は、思い出深い公園なんだ。戸村一作さんが、機動隊に頭を割られて、そこから機動隊への認識が変わっていったんだ」昨年12月亡くなった森研一さんのことも話した。「ずっと、カンパを続けてくれた。森さんの部屋を見てきたけど、質素でいかにも森さんらしかった。
 お別れ会、参加出来なかったからまた何らかの形でお別れ会をやりたい」と私は言った。「森君は、1971年仮処分闘争で統一被告団の団長だった。星野への思いをずうっと持ち続けてくれたんだ」と文昭。


  3月27日。この日は、さらに温度があがって、桜も3分の1ぐらいは開花した感じだった。健康のことを聞いた。「今年は湿疹がひどい。眠る時に全身がかゆくなるので、かゆみ止めの薬を飲むようになってよくなっている。昨年から胃腸が悪い。胃もたれして食事が進まない。胃炎の薬をもらってから、食事もおいしく食べられるようになったよ。食物アレルギーと寒冷アレルギーがあって、根本から治すようにすべきだけど薬で対応している」こんな話を文昭は、快活に明るく話すので、まるで何かいい報告を聞いているような錯覚に陥る。
 本の方は、革共同の50年史を中心に、7回大会、戦争問題、貧困問題など読んでいるようだ。読んでみて、いい本があったら入れてほしいと言っていた。 辻川慎一さんからも手紙が来たそうで、「うれしかったよ。めまいがあったけど、おさまった。青年たちが自己開放的に立ち上がるのを、押さえつけては いけないとあった。自分の人生をかけて青年を獲得していることは、見習うべきだ。」と文昭。国鉄・労働運動と並んで、星野の絵画展も次々に全国で開催され、星野闘争がど真ん中に座る、拠点を打ち立てる闘いになっていることを確認しあった。
次回、文昭の誕生日に合わせて面会に行くことも、とても喜んでくれた。