星野暁子さん面会日記
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2013年 11月13日~15日

        無期との闘い語る42年目の11・14
 11月13日、一年ぶりの従兄の誉夫さんといっしょの面会だった。会うなり、「風邪は治ったの?」と聞いた。
 「ようやく完治したよ。今回のは、特別な風邪だった。鼻がやられて、それが元で熱も出る。僕の体温は通常で35・5度ぐらい。36度になると微熱状態なのに、ここの規則では37度にならないと薬がもらえない。朝36度で調子が悪いなあと思って薬を要望しても、もらえなかった。昼になったら一気に38・5度になっていた。体温は個人差があるわけだから、それに応じて対応できるようにしてほしい」と文昭。
 「抗生物質を飲んでようやく治りかけても、薬は5日間しかもらえないから土、日があると、また風邪をぶりかえして、治るのに2週間かかった。症状によって、柔軟に対応できるようにしてほしいよ」。
 久しぶりの誉夫さんとの話で、親戚の亡くなった人の話になった。誉夫さんは「父方の叔父叔母で、生きているのは3人だけ」と伝えた。星野救援運動の作り方での意見の違いについても話された。
 


 福島への思いこめた絵
 14日、2日目の面会。前日の徳島での出版記念会と山川さんからいただいた花束を見せた。枝付きみかんを食べてみせた。
 宅下げした『自然豊かな福島・只見川の秋』と題された絵をいっしょに見ながら、感想を言い合った。「福島の取り戻す会の人たちから手紙が届いている。彼らへの頑張ってほしいという思いをこめて描いたんだ」と文昭。暖かな点描の風景―文昭によって甦った福島がそこにあった。
 「宮城からも、芋ほり大会の絵手紙届いているよ。その中で高崎経済大学時代の僕の友人の2人から来ていてうれしかったよ。A君とは、バリケード封鎖をしている時、体育館にあったピアノで、二人だけの演奏会をしていた。彼がピアノをひいて、僕が聞き役になった。高経時代には、みんなから親しみをこめて『おじいちゃん』と呼ばれていた。老成していたんだ。今の方が、よっぽど若々しく見られる」。今の自分の方が好きだと文昭は言った。
 「検察の意見書に対する僕の反論は既に下書きしている」と文昭。再現実験をしたことに対して、「僕の意見も出せればいい」と文昭が言っていたことに関して、文昭からも積極的に意見を出していくようにした方がいいと私は言った。


 11月15日、「昨日11月14日、42年目の沖縄返還批准阻止闘争の記念日だったのに、話さなかったね」と私が言うと、文昭は、「特別な感慨というのはないよ。無期に対する怒りはあっても、ああしなければよかった、こうしなければよかったという後悔の念はない。今の沖縄の状況を考えたら、もっと闘うべきだったと思うよ」と言った。
 文昭は、常に自分の人生の総括をしているところがある。曖昧さは、許されないのだ。こんなことを言った。
 「獄中に入って病気になったのは、獄壁による分断に対決できる内容を持っていなかったからだ。自分の弱さと無期に向き合って、必要な力を一歩一歩つくってきた。暁子がいっしょに生きてくれるようになって、分断を打ち破れるようになった。暁子がいなかったらということは考えられない。暁子が病気になった時、ショックだったけど、どうすれば暁子の病気を治せる環境に一歩でも近づけるか考えて、僕のやれることをやってきた。いっしょに生きていく中で、暁子のためにやれることで、僕がまだやっていないことはたくさんある。ひとつひとつやっていきたい」。短い面会時間、個人的なことに終始する日があってもいいのだ。文昭と私の思いの中では、全てがみんなへとつながっているのだから。