星野暁子さん面会日記
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2013年 3月26日~28日

獄内外の分断を乗り越えて

 3月26日。曇り。少し肌寒かったが、刑務所の桜は満開だった。北海道の文昭の兄、治男さんといっしょの面会だった。治男さんは、親戚の中でも亡くなっている人が多いことを伝えた。文昭は「特に、救う会を担ってくれた四郎(叔父)さんには、会ってお礼が言いたかった」と言った。そして、北海道救う会の機関紙「北斗星」で、治男さんが「こんな柔らかい絵を描いているのに、文章は硬い」と書いていることに「絵も文章も、本質は同じなんだ。人間が人間らしく生きられることを求めている」「柴田さんもそうなんだ。りっぱな人生だった」。文昭は、しみじみそう言った。
 今年の冬の寒さについて、「いつもは、寝ないで机に向かって座っているけど、今年の冬は、布団をかぶるしかなかった。肩が寒いから、毛布を首筋に回すようにしてかける。そこまでは文句は言われない。横寝をして、外気に触れていた耳だけしもやけになったよ」。
 治男さんは、「71年渋谷のデモで、警察官が死亡したことに責任はあるだろう?」と聞いた。文昭は、手紙でこんなふうに伝えてきた。「やっていない以上、中村巡査死亡には責任はない。沖縄の労働者人民が、返還協定批准が基地強化であることに反対して立ち上がったことに、本土の労働者人民が共に闘うことを佐藤政権が暴力的に踏みにじって批准しようとした。中村巡査の死はその犠牲だ。中村巡査が若くして生命を失ったことに正面から向き合うと、人間が人間らしく生きられる人間本来のあり方を実現することに生命をかけてやりとげることが、最も人間的な応え方、責任の取り方だと思う」。

 2日目の面会。雨。文昭が言っている「人間として生きる最高のものを得ている」というのは、私なりに理解をしてみんなに話しているけど、どういう意味で言っているのか聞いた。「一言で言うと、人間が人間らしく生きられる社会をつくるという中で、暁子と僕が互いに愛し合い、みんなとの団結の中で生きていることだ」と文昭は言った。私が思っていたとおりだった。「一言ではないでしょう」と私は言って笑いあった。

「春を呼ぶシクラメン」の絵
 3・24の三里塚の全国集会は、市東さんの農地取り上げの攻防が激しくなっている中で、実力闘争を訴えるアピールが多かったと話すと、「71年は、僕らも実力闘争を闘った。三里塚の闘いだけで考えるんじゃなくて、外注化阻止の闘いや、反原発の闘いと一体に闘っていくことを考えた方がいい」と言った。
 3月28日、3日目の面会。「満開の桜にヒヨドリが寄ってきている」と文昭は言った。3月に文昭が描いた絵「春を呼ぶシクラメン」の絵を見ながらの面会だ。
 「獄中というのは、外との分断がある。だから、まず、暁子からすべてを学んで、それを通してみんなとも呼吸しあって、外の闘いに身を置くことができている。辻川あつ子さんが、僕の手紙を見て、獄中にいるのにどうして、私たちの気持ちがわかるんだろうと言ったのも、そういうことを僕がいつもしているからなんだ。まず人の気持ちを先に考えるというのは、僕の気質だけどね。辻川さんに言ったことは、僕が暁子の病気をいっしょに治したり、大切な人を亡くしたりした時に、いつも考えてきたことなんだ。
 いっしょに外注化阻止に取り組むと言っても、僕の場合アピールを書くことぐらいしか出来ないけど、そのアピールを、みんなといっしょに闘うという立場で丁寧に書いてる」そう文昭は言って、3月の面会を終えた。