星野暁子さん面会日記
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2012年 5月7日~9日

 まっすぐに向き合って乗り越えた

 5月7日。曇りのち雨。番号が呼ばれて待合室から出ると、外はにわか雨だった。指定された2番の面会室で文昭を待った。出てきた文昭は元気そうだ。
 「つつじは、4分の3ぐらいは、散ってしまったね」「中は気温が少し低いんだろう。今、満開だよ」と文昭。「お母さん、どうだったの?」と聞いてきた。介護施設にいる母を車イスのまま介護タクシーに乗せ、家に連れて帰ったのだ。実家の庭の桜が満開になるのに合わせたのが正解だった。桜をバックに、母と大河内さん、親戚の国男さん、久子さんと私がいっしょに記念写真を撮った。「家で、自分の席に座ったら、死ぬわけにはいかないって母が言ってた」と伝えた。
 「文昭も、再審棄却になった時、はじめはショックだったんじゃない?」と聞いてみた。「ふざけるな!と思ったよ。嘘をどううまく取り繕うかということで書いてあるからね。腹はたったけど、何も手につかないということはない。僕の場合、切り替えが早いからね。いろいろやりながら、まっすぐに向き合って乗り越えたという感じだよ」。運動にも、飛躍が必要で、労働運動を中心にしながら、すべての証拠開示を求める全人民的運動をつくるということが決まり、進めていることを話した。文昭は、「それは、必要なことだ」と言った。
 残り時間がわずかになってから、4月の面会を詩にした「誕生日の面会室」を朗読した。「この前の面会の様子がよくでていて、いいね」と文昭は言って、一日目の面会を終えた。

 友人面会を再開させたい
 5月8日、曇り。「ちょうど、卓球をやっていて、汗をかいているところだった。忘れないうちに言っておくと、絵の宅下げがあるからね。明日、話すけど、チェルノブイリの子どもの絵なんだ。阿佐ヶ谷市民講座の桂木文子さんが差し入れてくれた絵葉書を見て描いたんだ。福田政夫君も、はがきじゃなくて初めて手紙をくれたよ。写真集と記念切手を送ってくれた。この写真集の中から、構図を考えて絵を描きたいと思っている」と文昭は言った。
 処遇の話になった。「僕が監察官への意見書に書いたように、新しい規則を作って、真面目にやっている者までCにして、Cが2つだとDだとか、Dが2つだと進級させない等というやり方をやっていると、更生の意欲を削ぐことになる。新法があるのに、監獄法の時代よりひどいことをやっていた。今度の所長は、まだわからないけど、幾分は、そうしたことが少ないような気はする」と文昭。友人面会も再開させたいねと話しあった。

 5月9日、雨。「文昭の絵、みんなに見せたけど、評判よかったよ。子どもの目がいいって、言っていたよ」と、私は伝えた。「亡くなった子どももいるわけだから、僕が甦らせてあげるという気持ちで描いたんだ。暁子を癒すというのが、一番だけどね」。
 手紙の一部抹消は、その後どうか聞いた。「朝倉さんと伊藤美子さんぐらいだね。禁止は、数日おきに続いている。増上さんかもしれない。三日に一回は、手紙を書くと言っているそうだから。パンフレット、新聞の一部抹消は、続いている」。「健康状態は、どうなの?」と聞くと、「血圧は122-80、二回目が133-75、暁子が差し入れてくれた『試してガッテン』でマッサージと運動をやっている。暖かくなったこともあるけど、思いあたるのはそれぐらい」。「よかったねー」と私。「花粉症も今年は楽で、湿疹も昨年の同じ時期に比べたら、よくなっている」と言った。
 12日から、沖縄に行くことを話した。「非正規や反原発で立ち上がった青年たちが、沖縄闘争を担うことになったら、沖縄の人たちにとってもいいんだ。富田晋君に、頑張ってと伝えてほしい」と文昭は言った。福島の椎名千恵子さんからも手紙が来て、「暁子の発言に、励まされたと書いてあった。うれしかった。再会できたことは、僕にとっても励みになる」と言って3日目の面会を終えた。