星野暁子さん面会日記
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2018年 4月23日~27日

    誕生日に愛の語らい


 4月23日
 誉夫さんといっしょの面会だった。徳島刑務所長が4月から平良敦志所長に変わったことを話した。文昭は「今までの所長は、出来ることはやるという決断ができる人だった。カイロの所持、テレビの視聴枠を広げたこと等、結構変わった」と言った。
 年2回、私を訪れる保護司が、いつもより早く来たことを伝えた。文昭が出所後どうやって生計を立てていくのか聞かれた。傍にいた誉夫さんが「新聞配達をやる」と答え、私が「文昭は、カバンを作っているので、カバンを支援者に買ってもらうことで収入を得る」と答えたと話すと、文昭は「婦人服の縫製を十数年、バイクブーツ・グローブ等の皮工芸を十数年やってきたので、そういう仕事はできる」と言った。
 処遇の話になった。「再審をやっているのだから、反省していないということで明らかに差別がある。2類にはなったけど、電話をかけたり外泊ができる2種にはなれない」と文昭。

 25日
 24日に開いた記者会見をKSB瀬戸内海放送が放映したことを伝えた。さらに更生保護委員会への申し入れについて話した。
 「暁子は最近、明るくなった。こだわっていたことを僕にぶつけ、僕が受け止めて暁子に謝り、二人で再出発できていることが大きい。前号の『星野新聞』の暁子の詩はとてもよかった。『生きてきて良かった』とあって涙がでたよ」と文昭。

 26日

 「ブラインド・タッチがつくられるきっかけは、坂手さんに暁子が手紙を書いたからなんだってね」という文昭の言葉から始まって、「ブラインド・タッチ」の話題に花がさいた。
 27日
 この日は、文昭の誕生日だった。「誕生日、おめでとう!」「ありがとう」「坂手洋二さんと高橋和也さんが、文昭によろしくって」と私が伝えると、文昭は「かえって僕らがお礼を言わなきゃいけないよ」と言った。   
 今回宅下げされた絵について、「自分たちの子どものつもりで描いたんだ。バックなどは時間をかけられなかったけど、少女自体は思うように描けたんだ。暁子の病気のことで、自分を責めるところがあった。今の解放的な暁子を見ることは僕にとっても喜びだ。暁子を大事にして、だからこそみんなも大事にして生きる。暁子が元気でいてくれたら、それだけでいい。これは、暁子に対する僕のラブレターだよ」と文昭は言って、「私も文昭を大事にして生きたい」と私が言った。文昭72歳の誕生日は、愛の語らいで終わった。