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死刑台から生還したケビン・クーパーの手記(抜粋)
残虐な死刑制度を停止させる!




刑務所の面会室で暁子さんとケビン・クーパー(2011年)
 世界中で、死刑を廃止する時が来た。この人為的な異常の生き残りとして、あるいは理由もなしに権力者によって合法的に殺されてきたアフリカ系アメリカ人の子孫として、私は立ち上がって声を上げ、言わねばならない。「死刑を廃止せよ」と。
 サン・クェンティンの死刑監獄で、2003年12月17日から2004年2月9日にかけて、この現代版プランテーションの刑務官と管理者は、私を殺害するために、私を変え、退行させ、抑圧し、うつ状態にし、そして服を脱がせた。
 アメリカの刑務所での懲役が「奴隷労働」といわれるのは、単なる比喩表現ではない。他のOECD諸国と比べてアメリカは、桁違いに受刑者数が多い。他国の刑務制度が、治安目的であるのに対して、アメリカは、奴隷労働が目的になってしまっている。
 彼らは、何らかの禁制品を探すために、懐中電灯で私の腸内を照らすことができるように、私を前かがみにさせた。私を監視し、時間を計り、私を見張り、私がしたこと、しなかったことを書き留めた。私に質問し、私を怒らせ、悲しませ、悩ませ、私を笑い、鋭利な針を刺すのに良い静脈がないか私の腕を探った。
  「彼ら」とは2004年2月10日午前0時1分に私を拷問し、殺害することを志願した刑務官の死刑執行人のことだ。彼らは私にトラウマを植え付け、恐怖を与え、軽蔑し、最後の食事としてツゥームストーン・ピザ(墓石の形をしたピザ) を与えた。氷のように冷たい部屋の氷のように冷たい床の上に裸で立たされ、17、18、19世紀の私の祖先が奴隷の競り市で裸で立たされていたのと全く同じように、21世紀の私の黒い体を隅々まで検査した。
 2人の黒人が私を殺すことを志願しているのを見たとき、少しショックを受けたといわざるをえない。2人の黒人が死刑執行人になっているのを見るのはまだ覚悟ができていなかったのだ。私は心の中で2人に向かって叫んだ。「お前たちは私を殺すために一体何しているんだ? われわれの歴史を知らないのか?」と。私は6人ほどの刑務官に囲まれ、死刑執行室の待合室まで通された。私は午後6時35分ごろ、死刑執行室の待合室に入った。

 
私の死刑は停止された
 電話が鳴った。私の弁護士からだった。裁判所から連絡があり、最高裁は私の死刑執行停止を不服とする州の請願を却下したとのことだった。最高裁は私の死刑執行停止を支持したのだ。私はカリフォルニア州に殺されるところだった。
 私は、人が作り出した死の儀式から立ち直るのに、しばらく時間がかかった。私は、もう二度と元には戻らないであろう。同じことは繰り返さない。私はさらに強くなり、政府の誇りと喜び-死刑制度-を停止させるために自分の役割を果たそうと決意を新たにしている。私の事件は、黒人の歴史で、特に大きな反響を呼んだ。無実の黒人がやってもいない罪で有罪になったのは、今に始まったことではなく、悲しいかな、これが最後でもないからだ。実際、私が有罪判決を受けた事件で、私は無罪だ。あの4人の殺人事件で、唯一の生存者である子どもは、自分の母親、父親、妹、友人を殺したのは「3人の白人だ」と何度も言っている。
 2004年に私の死刑執行が停止され、弁護士が私の無実を証明する新証拠を提出できるようになったとき、検察側はこれに抵抗し、人身保護請求審の裁判官は、無罪放免につながる証拠をほぼすべて否定したのです。私の血液がシャツに〔検察側によって〕意図的に付着させられたことを証明するための検証は拒否された。
 もし私や私と同じような人が黒人歴史月間にカリフォルニア州によって処刑されたと聞いたら、第9巡回区控訴裁判所判事ウィリアム・フレッチャーのこの言葉を思い出してください。
 「彼は、サンバーナーディーノ保安官事務所にハメられたから、死刑監獄にいるのだ」



新聞第136号 掲載