TOPページへ ! 
星野精神拡大し未来を開こう 家族・弁護団とともに
家族 新年アピール  共同代表 新年アピール  弁護団 新年アピール
 家族 新年アピール
     「私が星野文昭になる」と決意し新たな闘い始める
                         
妻 星野暁子
 文昭が亡くなり8カ月が過ぎようとしています。昨年は、様々な方に支えられた一年でした。心から感謝です。今年も、よろしくお願い申し上げます。
 毎年大みそかは、文昭が「紅白」をみるのが許可になるので、話題づくりのため友人といっしょに私も見るのが恒例でした。ところが昨年は「ロシア革命」の本を読んでいて、見なかったというのです。「レーニンの存在は大きいけど、労働者民衆は革命をする力を持っている。それは、日本でも同じだ」と高揚した雰囲気で言っていました。今にして思えば、過ぎ行く限られた時間を惜しんでいたとも言えます。体重は49㌔台になり、それまでやっていた全力疾走もできなくなった中で、文昭の精神活動は充実していました。
 絵も、体に力が入らない中で「今の僕に描ける絵」を描いてくれました。「パレスチナ、笑顔をとり戻した少女」「アフガン、山の学校で学ぶ」。この2つとも少女の表情がいいです。「パレスチナ」の絵は、守ってくれる人と出会い安堵(あんど)した少女の気持ちが本当によく出ているし、「アフガン」の方も、勉強しようという強い意思が表現されています。「勝気な暁子の面影を重ねた」と言っていました。「人類を支える伴走者」の犬の絵は、安心して眠りにつく絵として描いたようです。
 文昭がいない今年、運動をどうするのか、私たちは話しあってきました。「私が星野文昭になる」と決意しています。私と文昭の兄弟が申立人となり、まもなく文昭の死の責任を追及する国家賠償請求訴訟を行います。また、私と兄弟が請求人になり第3次再審請求を提出します。「すべての人間が人間らしく生きられなければ自分も人間らしく生きることはできない。すべての人間が人間らしく生きられるように自分の生を尽くしたい」。この文昭の精神を継承し、改憲と戦争を阻止する行動にうって出ましょう。
  文昭がまいた"種"を花開かせさらに前へ進もう
                        
兄 星野治男
 ご存じのように、昨年は私たちにとってとんでもない年となりました。私たちの運動の中心であった星野文昭を失ってしまったのですから。それで、私たちが危惧したのは、求心力を失ったこの運動は、即刻解体もしくは消滅してしまうのではないかということでし
た。しかし、それが杞憂(きゆう)に終わったのは皆さまもご承知の通りです。それは、私が文昭について、彼がどのように顛末(てんまつ)を迎え、希望を持って前へ進み、そして逝ったことに関して、私の思いを、彼のあまりに穏やかな寝姿の上に描いてみたことと大いなる関係を持つと考えます。
 そして今、それから半年を経て、私が再び思いをはせるのは、彼の希望は決心に等しいものもあったのではないか、というものです。自らのみが知る命の覚悟の秒読みに直面して、彼はその希望の中に捨て身で、その急転直下の状況の中に種をまくのを忘れていなかったのではないのか。あくまでも彼は未来に希望を抱いていた。血の逆流を味わった者が不安な未来を見据え、しかしそこに備えた「種まき」をすることを忘れなかった。彼はあえて飛び込んだのだ。医師の説明を丸ごと飲み込み。
 相手側からすれば、彼の周りに何の証拠を見いだせないから、ただただ証拠無き「証拠」を追うという永久無限運動となっていた。それは、こちら側の幾多の新証拠がことごとく跳ねつけられたのを見てもわかる。そこで文昭は自らを証拠立てとして果てた。それは、文昭の"死"という動かし難い真実を証拠とするものである。司法はそれを証明しなければならない。

   僕の目の前に文昭はいる国賠訴訟にも加わります
                        
弟 星野修三
 12月31日、久しぶりに除夜舞に参加して、20分位の作品をやりました。暁子さんも見に来てくれました。他人から見たら良く分からないかもしれないけれど、僕の作品にはいつも文昭がいて、文昭の気持ちをどう表現するかずっと考えてきました。
 文昭が死んだのは事実ですが、僕の目の前には文昭がいます。これからも文昭の生き方や考えをテーマにしていきます。そういうことで、文昭の心を受け継いでいきたいと思います。
 文昭は、戦争とか、子どもとか、人間のことをいつも考えていました。そうしたことを文昭がどう解釈していたかを考え、自分の作品で表現したいと思っています。
 僕はなかなか徳島刑務所に面会に行けなかったけど、気持ち的にはいつも一緒でした。文昭の方も同じだと思います。会った時はすぐ兄貴になっていました。暁子さんは良く分かると思います。
 父の三郎は「文昭と枕を並べて寝たい」と最後まで言っていました。三郎も母・美智恵もできなかったことを、僕と治男でやりたいと思っていました。
 それだけに、文昭があんなことで死んでしまったのが本当に残念です。どうして文昭が死ななければならなかったのか、国に聞いてみたいです。国賠訴訟にも加わることにしました。
 共同代表 新年アピール
  星野文昭さんの命を引き継ぐ闘いを実現しよう
                                
戸村裕実
 絵画展で、あるいは祈りの場で星野文昭さんを思い起こし語ろうとするといまだに落涙し絶句する。星野文昭さんを生きて取り戻す。四国地方更生保護委員会への申し入れの過程は時を追うごとに誇張ではなく、常に切迫した課題としてあった。仮釈放が実現できなければ法務省保護局長通達により、刑務所長の申し出がない限り、次の審理は年後となる、という危機意識の中で必死であった。仮釈放は命の尊厳である。保護委員に通じる期待を込めて訴えた。しかし、届かなかった。今でも悔しくて残念でならない。
 文昭さんの命は国家によって奪われた。国家というだけでは相手が抽象的で責任があいまいになる。「マル特無期」という通達で仮釈放を閉ざす検察、「法に照らし、改善・更生のため」と称し、友人面会を拒否し、適切な検診と医療措置を取らなかった徳島刑務所。そして「更生」を掲げながら、通り一片の本人面談だけで、暁子さんや弁護団との面談を拒否し、密室のまま仮釈放不許可を通告した四国地方更生保護委員会。いったい何が審理の透明性だ! 彼らすべてが星野さんを死に追いやった「実行犯」である。
 文昭さんは、第二次再審陳述書で「無実であることを百も承知で無期を強いる。こんな理不尽なことが許されるのか。心の底から怒りで一杯だ」と訴えた。自己のみではいかんともし難いこの心情を思うと、耐え難い思いが募る。44年間この苦痛と闘ってきたのか、と。今、理不尽、不条理が大手を振ってまかり通る。許しておけない。
 近々に国家賠償請求訴訟が提訴される。また、大坂正明さんの公判開始の日も近い。さらに第三次再審請求も準備される。理不尽を暴き星野文昭さんの命を継承しよう。
 
   国賠、再審、大坂裁判を闘い、改憲・戦争阻止へ
                              
狩野満男
 2019年5月30日。私たちはこの日を忘れません。無実を百も承知で、肝臓ガン悪化を放置され、拷問で星野さんの命が奪われた日です。この時、私たちの運動は「星野さんを生きて取り戻す」最大の攻防中で、出獄した星野さんと共に新たな闘いに出る意気込みでした。しかし手術失敗で獄死という厳しい現実に、運動はかつてない試練を迎えました。しかし、「泣いてばかりいられない」。法務省弾劾・追悼デモでの暁子さんのこの一言が反撃ののろしでした。
 2020年、闘いは国家賠償請求に始まります。昨年、弁護団の奮闘で昭島医療センターと徳島刑務所の医療記録などの証拠保全を勝ち取りました。明らかになったのは、徳島刑務所が更生保護委員会に「心身の状況」の通知を意図的にしなかったことです。肝臓ガンを秘匿して仮釈放を阻んだのです。刑務所での過酷なカバン作りや懲罰、降級など、全てこの意図に基づいていたのです。この裁判を医療センター、徳島刑務所徹底弾劾の人民裁判にして、傍聴席をあふれさせ、法務省、安倍政権に責任をとらせましょう。
 そして星野第三次再審と対をなす大坂正明さんの裁判を星野闘争として闘いましょう。未決のまま拘禁が続く大坂さんは、接見禁止、差し入れ不許可が続き、すでに3年目になります。東京拘置所への闘いも必要です。大坂さんの健康を守り、処遇を改善させ無罪を勝ち取りましょう。
 今、香港はじめ全世界の青年が「人間らしく生きる自由」を求めて荒々しく闘っています。改めて71年安保・沖縄の実力闘争の正義がよみがえり重なります。新基地建設と闘う沖縄辺野古とも連帯し、絵画展をさらに広げ、それぞれの地域で戦争・改憲阻止の先頭に立ちましょう。
 弁護団 新年アピール 「私も請求者だ」と立とう
  人が人らしく生きられる社会実現へ国賠提訴する
                         
再審弁護団 藤田城治
 星野文昭さんの死亡の責任を追及する国家賠償請求訴訟の提訴に向け、弁護団は昨年、徳島刑務所と手術が行われた東京都昭島市の医療センターに対して証拠保全を行いました。証拠保全で得た資料から、星野さんに対する医療体制がいかにひどかったかが明らかになってきました。
 まずは徳島刑務所。2018年8月に星野さんが倒れる前の6月、定期的な血液検査で、肝臓の健康状態を示すγGTPが以前より高い数値を示していました。飲酒や高脂肪食がない刑務所での高い数値は、肝臓に異常が生じていることを意味します。しかし、徳島刑務所は、体重減少・異常な食欲不振を心配する家族・支援者からの精密検査の要求を無視し続けました。そして2019年3月1日に、ようやくエコー検査を実施、ガンの可能性が高いことに気づきます。しかし、当時、更生保護委員会への申し入れ行動が続いている中、星野さんには、検査の結果を知らせませんでした。1カ月半放置され、「仮釈放しない」との決定を告げられた後で、ガンの疑いと医療センターへの移送が告げられます。このときすでにガンの大きさは11センチ×14センチという「巨大」なものになっていました。
 次に医療センターですが、病床数に対して医師・看護師の数が少なく、一般病院にすら遠く及ばない体制でした。また、手術前日の血液検査の数値は急激に悪化しており、肝不全すら疑われる状態でした。手術を予定通り実施するか慎重な判断が必要でしたが、それをした形跡すらなく、手術が実行されました。しかも危険な状態での手術であったにも関わらず、手術当日の夜には主治医・執刀医は帰ってしまい、当直医しかいない状態に。その夜、11時には本来であれば輸血等の措置を執らなければいけない状態にあったのに29日朝5時まで放置。その時には、すでに重篤な状態に陥っていました。星野さんの急変?死も容認されていたのではないかと言わざるを得ないものでした。
 2019年には刑務所の医療放棄の責任を追及する国家賠償請求訴訟がいくつか提起されました。刑務所の医療放棄の責任を追及する私たちの新たな闘いは、いかなる場所であっても人が人らしく生きられる社会をめざす星野さんの闘いの延長にあるものだと思います。今後ともご支援よろしくお願いいたします。
 
   星野闘争を担う全員が第三次再審の請求者に
                       
主任弁護人 岩井 信
 今年の最大の課題は、国家賠償請求訴訟とともに、第三次再審請求です。
 民事裁判の場合には、当事者が死亡しても、その相続人が裁判を承継することができます。しかし、刑事裁判では、被告人が死亡すると裁判は終わります。それは、刑事法が徹底した「個人主義」を貫いているからです。刑事裁判を相続させて、犯罪行為をしていない相続人に刑罰を科すことはできません。
 再審も、請求人が死亡すると手続は終わります。しかし、再審の場合は、これで終わりません。死亡した請求人の家族が、新たに請求をすることができます。法は、「有罪の言渡を受けた者が死亡し、又は心神喪失の状態に在る場合には、その配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹」にも、再審請求権を認めています。
 このような再審請求は「死後再審」と呼ばれることがあります。しかし、過去の再審請求が「死後」も
引き続き審理されるということではありません。今なお星野文昭さんを覚え、生きている家族が、新たに請求を起こす手続なのです。
 文昭さんによる第一次再審請求は、最重要証言である共犯者供述に誤りがあることを認めさせるところまで追い詰めました。最高裁は、「これらの証拠を総合すると、本件当日の申立人の服装が薄青色の上着であった可能性が高く、この点に関するK供述には誤りがあったと認められる」と判示しました。最高裁が、文字通り「三行半」の決定ではなく、再審請求の中身に入り込んで、自ら判断するのは極めて異例のことです。第二次再審請求は、こうした成果の上で、さらに新証拠を提出していましたが、手続が終了してしまいした。
 今回の再審請求は、文昭さんによる請求を引き継ぐだけではありません。暁子さん、治男さん、修三さんが自ら、新たに請求を提起するものです。それはまた、文昭さんの家族だけの請求ではなく、精神の上では、私たち全ての者も当事者となって、新たに請求をすることなのです。
 「再審請求をしている者は誰か」と問われたら、私たちも、「私が請求者です」「僕が請求者です」と各地で手を挙げ、声をあげましょう。新しい年は、星野文昭さんの冤罪を晴らす闘いに私たち自身が参加し、私たちが自ら当事者となる年です。。
  弁護士生活は星野さんに触発されつつ歩んできた
                    
再審弁護団 和久田修
 私の弁護士生活は文字通り星野再審闘争と共に始まり、共に歩んできたものです。ですから、私の中には星野さんの29年にわたる姿が焼き付いています。
 星野さんは、言葉では言い表せない劣悪な徳島刑務所の環境に加えて、ゴキブリを踏みつけた足を洗ったというだけで懲罰に付されるという過酷な圧力の中で、自らが置かれ続けてきた境遇に泣き言を言ったことはただの1回もありませんでした。星野さんは自分の境遇に不満や恨みを抱くのではなく、他の受刑者のことを思いやり、刑務所当局に待遇改善の要求を続け、厳寒期のカイロ使用の許可など着実にその成果を勝ち取ってきました。
 また、接見の際は、いつも笑みをたたえ、時にはその時々の政治状況を鋭く告発し、ある時には再審の方向性について議論を交わしてきました。その星野さんの姿と言葉に私自身、いつも触発されてきたのです。
 そして、決まって妻の暁子さんの様子を心配し思いやり、「暁子がいることで私も人間として生きていくことができている」と話しておられました。こうした会話の端々に星野さんは、「自分が人間らしく生きるためには全ての人が人間らしく生きることのできる社会にしなければならない」と常に言っていました。
 あの徳島刑務所という過酷な環境の中で、いつも人と接する時には、穏やかな笑みをたたえ、自分の境遇に泣き言も言わず、他の受刑者の方たちのために毅然(きぜん)と待遇改善要求を行い、暁子さんをはじめとする獄外の全ての人々のことを考え続けてきたのが星野さんでした。
 そのような星野さんの姿は、他の受刑者の方の厚い信頼を得ており、私が別事件でたまたま徳島刑務所で受刑していた方に接見した時も、その方は、「星野さんは仏様のような人だ」と語っておられたほどでした。このような星野さんの人間に対する思いとぶれることのなかった生き方は、私たちの中にずっと生き続けていると思います。
 2020年はもっと多くの人達と共に、星野さんの思いと生き方を共有していき、その人々とのつながりの力をもって、星野さんを冤罪に陥れ、獄死させた国家権力を追い詰めていく年にしていきましょう。「人間が人間らしく生きることのできる社会」を創造するために。