文昭が亡くなり1年になります。昨年5月22日は、元気な文昭に会った最後でした。「手術は心配ない」と繰り返し言ったのを思い出します。8日後に生命を奪われるとは思いもよりませんでした。
文昭に私が出会ったのは1984年、獄中結婚したのは86年でした。「会えない時も一緒に生きてる」そう文昭は言っていました。短い面会を補い合う手紙、絵と詩で思いを交わし、濃密な35年を生きました。
獄中結婚した頃、文昭は「暁子がいなかったら、生きられたかどうかわからない」と言っていました。拘禁性ノイローゼ、回復、私との出会いという軌跡をたどった文昭は、人間が一人では生きられないことを身をもって実感し、「人間の共同性」を最重要に位置付けるようになります。
文昭と私は、喧嘩(けんか)するのは稀(まれ)でした。それでも、2回、私が批判したことがありました。文昭はそれを真正面から受け止め、本当に真剣な自己批判を返してくれました。日頃何でも自分の責任と考える人で、その自己批判で私たちはより強く結ばれたように思います。
44年の獄中は、辛いことが多くありました。しかし面会での文昭は、生きる喜びにあふれていました。「もう一度生まれても、僕は暁子と皆との団結を生きる」と言っていました。悔いのない人生だったと、やはりそう思います。
星野文昭の獄中死国賠の第1回口頭弁論は、6月22日です。検査を遅らせ、巨大な肝細胞がんを放置し、更生保護委員会に知らせなかった徳島刑務所の責任を問います。東日本成人矯正医療センターは、巨大な肝臓がん手術の体制も経験もなく、また当日の肝臓の状態が最悪だったのに手術を強行しました。大出血があったのに、術後担当医は全員帰ってしまい、ICUに入れず、午前1時から5時まで当直医も看護師も文昭を見ていませんでした。この医療センターの責任を問います。文昭の生命が、なぜ、どのように奪われたのか、明らかにします。最後の死を考えると、文昭を私のもと、皆のもとに、国賠勝利で取り戻さなければならないと思います。それを通し獄中医療の変革を勝ち取りたいと思います。そして、改憲・戦争を阻止し、安倍政権を倒しましょう。
5月16、17日沖縄に行きました。文昭の遺影を抱き、静かなデモでした。飛び入り参加の人もいました。また絵画展に来たことがあるという女性が「心配だから来てみた。機動隊が守るのは自民党だけ。頑張って」と涙ながらに応援してくれました。
17 日に訪れた佐喜眞美術館では、館長の道夫さんが文昭の絵を「光を描いている絵ですね。光が見える人は少ない。すごい人だ」とほめてくださいました。丸木位里・俊ご夫婦の「沖縄戦の図」もじっくり見ました。地獄図のような人間模様(描かれているのは普通の人間だ!)の中からちょうちょが羽ばたく場面があり、魂の救済ということも描かれている絵だと気づきました。
いつだったか文昭は、「自分は礎(いしずえ)になる」と言ったことがあります。ちょっと寂しく思い、意味を聞きました。「革命を目指して、自分の代でできなければ若い人たちに託す。自分は礎に、という意味だよ」とにこやかに話しました。話は現実となりました。文昭は自分を犠牲にするとは考えなかったと思います。文昭の作ったものを引き継げれば幸せでしょう。「一緒に作ったものを私が引き継ぐよ」と私は言いました。「皆で引き継ぎたい」と、私は思います。「私が星野文昭になる」「みんなで星野文昭になる」を実現しましょう。
|
星野新聞第100号 掲載
|