104人の原告代理人
2月21日、星野文昭さんの獄死が国(徳島刑務所と東日本成人矯正医療センター)の不法・不当な行為に基づくものであることを訴える国家賠償請求訴訟を開始しました。
午前11時、星野暁子さん、岩井信弁護士、和久田修弁護士、藤田城治弁護士、土田元哉弁護士を先頭に東京地方裁判所に向かい、訴状を提出しました。原告は星野暁子さん、星野治男さん(兄)、星野修三さん(弟)の3人、被告は国です。原告訴訟代理人として星野再審弁護団と一体で総勢104人の弁護士が名前を連ねる大弁護団が形成され、東京地裁民事第7部で審理されることになりました。
昼休みには裁判所前で、星野さんと共に11・14渋谷闘争を闘った大坂正明さんの裁判事務局と一体になって宣伝活動を行いました。首都圏の仲間が駆けつけ、総勢30人で訴状提出を報告し、必ず勝利しようと訴えました。
さらに午後には、訴状提出を報告する記者会見を行いました。記者たちは熱心にメモを取りながら、発言に聞き入りました。
昨年5月30日、星野さんは医療センターにおいて73年の生涯を閉じました。肝臓がん切除手術を受けてわずか2日後のことでした。今回提出した訴状を読むと、あの時の怒りと憤りがよみがえって来ます。
刑務所と医療センターは星野さんに何をしたのか、なぜ星野さんは獄死させられたのかを解明するために、昨年7月、9月、10月と3回にわたって証拠保全を行い、大量の資料を確保しました。そして、星野さんの獄死は国家犯罪であることが明確になりました。
一昨年8月に星野さんが倒れ、その後も1カ月に1㌔㌘のペースで体重が減少しているのに、徳島刑務所は、家族や弁護団がくり返し要求した精密検査を行わず、肝臓がんの進行を放置しました。さらに昨年3月1日に腹部エコー検査を行って肝臓に巨大な腫瘤(しゅりゅう)があると知ったのに、星野さん本人や家族、弁護団に伝えませんでした。その上、四国地方更生保護委員会にも連絡しませんでした。重要な段階に差しかかっていた仮釈放審理を妨害するために、あえて知らせなかったのです。
その責任は決定的に重大です。
医療センターは、肝臓右葉に14×11㌢という巨大な腫瘍(しゅよう)があるのに、その術式について慎重な検討を行わず、「切除ありき」で手術を強行しました。星野さんが求めた腫瘍を小さくしてから切除する方法を簡単に否定し、セカンドオピニオンも拒否しました。
手術後は、4300㍉㍑もの出血によってショック状態に陥っていたと考えられる星野さんを置き去りにして、執刀医も助手も麻酔科医も主治医も帰ってしまいました。夜間の23時から翌朝5時までは、何の治療行為もせず、放置されていました。星野さんの死は国家犯罪そのものです。
新たな星野闘争の開始 いよいよ新たな星野闘争の始まりです。星野暁子さんは今年年頭に「私が星野文昭になる」と決意して、「全国に100万人の星野文昭を生み出そう」と訴えました。国家賠償請求訴訟を中軸に改憲・戦争に反対する広範な労働者・民衆と結びつき、これまでの星野闘争を超える大運動をつくり出しましょう。
1971年11月14日、星野文昭さんは、沖縄返還協定の批准に反対して、渋谷闘争を闘いました。当時の佐藤政権が進める沖縄返還とは、沖縄県民の願いを踏みにじって米軍基地を存続させ、自衛隊まで送り込むものであったからです。機動隊員1名が死亡して、星野さんはその「実行犯」にでっち上げられ無期懲役刑とされました。これは、70年安保・沖縄闘争に対する報復弾圧です。
星野さんは獄中で結婚した暁子さんと一体で非転向を貫き、44年間闘って来ました。この闘いは、辺野古新基地建設を許さず、日米安保体制と闘う沖縄の労働者民衆と固く連帯するものとして続けられて来ました。毎年那覇市で開かれる絵画展では、「こんな人が
いたのか」という感動の声が寄せられています。
腐敗をきわめる安倍政権は改憲・戦争への衝動を強め、労働組合の闘いを圧殺しようとJRや関西生コン支部への攻撃を強めています。これに対して、各地で開かれる絵画展は、新自由主義とその破綻がもたらした人間社会の崩壊に対する怒りを語り、広範な労働者・民衆と結びつく場になっています。星野さんの生き方と闘いに感動した人が次々に立ち上がる情勢が生まれています。
国賠訴訟の報告会や学習会を開き、裁判所に提出する要望書を集めよう。星野暁子さんが訴える「100万人の星野文昭」を生み出す大運動をつくろう。
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星野新聞第95号 掲載
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