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8・6ヒロシマ闘争報告
星野暁子さん発言

午後から行われた県立総合体育館での集会には平和記念式典に参加予定だった被爆者遺族の方も参加。
集会後、広島市街を平和記念公園までデモ行進した(8月6日 広島市内)

妨害破りドーム前集会

 被爆75周年を迎えた今年の8・6ヒロシマ大行動には、コロナ危機の中、全国から450人が参集し、例年以上の大成功をおさめることができました。星野文昭さんの遺志を引き継ぐ星野暁子さんをはじめとした全国のみなさんの結集や支援に対して、広島から心よりの感謝を表します。
 今夏8・6は、「拡声器規制条例」を制定し、「慰霊」一色にしようとする松井広島市長との対決として闘われました。この春以来の闘いで私たちは、核開発推進の安倍首相とその手先である松井市長の「反戦反核のヒロシマ」つぶしの策謀を打ち砕きました。2日間の闘いで、「核廃絶の声」を大きく広げることができました。
 8月5日には、産別労働者交流会と「被爆伝承者のお話を聞く会」などの分科会などが行われました。
 6日の朝は、原爆ドーム前での集会が焦点になりました。星野文昭さんの遺影と共に登場した星野暁子さんのアピールは感動的でした。
 「文昭の闘いの原点は、ヒロシマです」という冒頭の一声から、文昭さんの人生をかけた反戦反核、「人間らしく生きられる社会」を訴える内容にすべての人々が心を震わせました。ただ集会を妨害するためにのみ「広島市民」を名乗って「今日だけは静かに」というボードを持って立っていた右翼たちも圧倒され、顔色を失っていました。不屈の闘いは万人を震撼させるものだと、改めて星野文昭さんと共に闘ってきたことを誇りに感じずにはいられませんでした。
 恥知らずにもヒロシマに来た安倍首相を弾劾するデモを行った後、広島県立総合体育館で「8・6ヒロシマ大集会」を開きました。この集会には、韓国テグで星野絵画展と集会を開催したイドクチェさんがメッセージを寄せてくださいました。
 大集会後、広島市の中心部を貫くデモ行進に打って出ました。(広島星野文昭さんを救う会 奥村毅)

文昭は私と皆の中で生きる
 「僕の反戦運動の原点は、ヒロシマの被爆写真を見たことだ」。そう言っていた星野文昭の遺影と共に、被爆75年のヒロシマ闘争に参加しています。
 今年のヒロシマは、拡声器規制条例撤回という重要な勝利を勝ち取ったことに対して、次の攻撃として、コロナを口実に式典の目的から「恒久平和」を外し、式典の縮小・入場規制で一般市民の入場を認めないとしています。安倍を招待し、被爆者遺族を締め出すなど許せないことです。実力でもぎ取った「核なき世界を訴えるヒロシマ」を引き継ぎ、原点に帰り燃え上がらせ、階級的労働運動と新たな反戦反核運動を一つにして創りだしましょう。
 昨年の5月30日夜、文昭は国家権力によって殺されました。6月22日の国賠訴訟第1回口頭弁論で、私は以下のことを訴えました。一貫して仮釈放審理を妨害し、肝臓の精密検査をやらず、14×11㌢ になるまでがんを放置した徳島刑務所は、肝臓がんがわかった昨年3月1日以降も、本人にも家族にも四国地方更生保護委員会にも知らせませんでした。東日本成人矯正医療センターは巨大な肝臓がん切除術を行うには不適切だったにもかかわらず手術を強行し、術後ICUに入れず、術後の未明には、医師も看護師も文昭をみていなかったのです。
 沖縄闘争を闘った無実の政治犯星野文昭を虐殺した国家権力を私は許さない!何としても勝利したい。裁判だけでは駄目です。ジョージ・フロイド氏虐殺に世界の人々が立ち上がったように、文昭の虐殺に対して立ち上がってください。
 文昭は、「権力のでっち上げに怒りはあるが、沖縄闘争を闘ったことには、みじんも後悔はない。もう一度生まれてきても僕は暁子とみんなとの団結を生きる」とも言っていました。
 文昭は、非人間的極まる徳島刑務所にあっても人間的に生きられることを証明してくれました。獄中44年、文昭はやるべきことを成し終え旅立ちました。幸せないい人生だったと思います。そして私の獄中愛35年の人生も幸せな人生だったと思うのです。文昭は死んではいない。私の中に、みんなの中に生き、闘いの戦列に立っています。
 獄中医療の変革を訴え、日本階級闘争の中に、星野文昭を位置づける闘いは始まったばかりです。私が星野文昭になります。「みんなで星野文昭になる」を実現しましょう。



星野新聞第105号 掲載