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文昭の死は敗北ではない
幸せな35年間でした
福島総会での星野暁子さん講演(抜粋)

 文昭が亡くなってから6カ月が過ぎました。5月30日、文昭は肝臓ガンの手術の失敗によって帰らぬ人となりました。
 私は5月28日の手術当日、救う会の仲間と一緒に駐車場で待機していました。午後6時頃、内科の主治医から説明がありました。「無事、患部の全てを切除することができました。出血がありましたが、血止めの処置を行いました。文昭さんも麻酔が解けて、今病室に帰っています」。これを聞いて成功したと思わない人はいないでしょう。〝星野さんの手術成功"のメールが全国を飛び交いました。
 翌朝、医療センターから電話がありました。「周術期出血に伴う急性肝不全による全身状態の悪化のため重症」だというのです。急いでセンターに駆けつけ、病室での面会が初めて実現しました。呼吸器を付けられた文昭は、会話はできませんでしたが、呼びかけに懸命にうなずいていました。
 一度戻り、午後4時頃、「危篤だ」との連絡が入りました。行ってみると、文昭は手を布団の外に出し、ベッドの柵を力一杯握りしめていました。その手をとって、文昭と手を握りあい、文昭の胸に顔をうずめることもできました。文昭と出会って35年、初めてのことでした。夕方、岩井信弁護士も来て下さり、もの静かな弁護士が怒鳴るように家族の付き添いと医者からの説明を要求してくれ、私といとこの誉夫さんがセンターの中で一晩過ごし、医者からの説明を受けることを認めさせました。文昭は頑張り抜いて30日夜まで生き抜いたのです。呼吸器を外した文昭の顔は、穏やかな、全てをなし終えたような顔でした。
 解放は目の前に迫っていると思っていました。44年獄中で闘って迎えた死が、あまりに過酷なものだったことに、無念の思いがこみあげてきます。しかし、文昭は最後の最後まで文昭らしく闘いました。「人間が人間らしく生きられる社会をつくること」に生涯を懸けた文昭の人生は、見事ないい人生だったと思っています。そんな文昭との私の35年の人生も幸せないい人生だったと思っています。文昭の死は敗北ではない。これからも私と、みんなと一緒に、闘いの戦列に文昭は立っています。
 今でも「手も握れない人と結婚したのか」と聞かれます。私が文昭に出会ったのは1984年で、30歳でした。文昭はその頃、拘禁性ノイローゼと闘っていました。三里塚の裁判に傍聴に行き、裁判での本人質問に臨む姿、その生き方に感動して獄中結婚しました。
 証拠保全によって徳島刑務所と東日本成人矯正医療センターの膨大なデータ、カルテが手に入っています。それによると、手術前には1000㍉㍑と予想されていた出血が、実際には4300㍉㍑以上あったことがわかりました。ふくしま共同診療所の布施幸彦先生によれば、多量の出血でショック状態にあるのに、手術後、何科が専門かわからない当直医にまかせて、執刀医や助手を務めた外科の医師も、さらに内科の主治医も皆帰宅してしまっていました。こうした問題点を訴えて国家賠償請求を提訴します。1月までには提訴したいと弁護団はじめ、布施先生などにも奮闘していただいています。
 文昭の死を受け止めた上でなお、文昭を取り戻そうと必死に闘った2年間の更生保護委員会闘争は、本当に大きな地平を創り出したと思います。要望書だけでも2万筆を超えています。この人たちは、必ず文昭の死に怒りを持って一緒に立ち上がってくれると私は思
っています。
 東京オリンピックは、福島の原発事故をなかったことにして、福島の労働者民衆が立ち上がるのを圧殺しようとするものです。原発政策を推進し、改憲と戦争に突き進もうとしています。そんな安倍政権に対する怒りと一つになり、韓国や香港の労働者民衆のように、日本の労働者民衆が立ち上がる時代が来ています。星野精神を継承して、共に闘いましょう。



星野新聞第91号 掲載