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文昭の死を無駄にしない
人間解放の思いを皆と引き継ぐ
星野暁子

東京三多摩での学習会(9月8日 昭島公民館)

 5月22日、元気な姿の文昭に会ったのは、この日が最後だった。東日本成人矯正医療センターでの5月に入ってからの面会は、文昭が主治医からの説明を受けているので、従兄の誉夫さんと私が文昭から説明を聞く面会だった。この日は、家族の方が先に手術についての説明を聞いたために、私と誉夫さんが文昭に説明する面会になった。体重は47㌔グラム、見るからにやせてはいるのだが、声に活気があった。文昭は熱心にノートをとって、手術に前向きな姿勢を見せた。

 最後になった5月27日付けの手紙には、肝臓の絵がリアルに描かれていて、どの部分を切除するのか、図示されていた。そして手術は心配する必要がないことが記されていた。
 手術当日の5月28日。「建物の中には入れない」と医療センターは言ったが、朝から夕方まで、救う会の人たちといっしょに医療センター前で待機した。夕方予定していなかった家族に対する主治医からの説明があった。「手術は無事終わりました。肝臓がんの全部を切除することができました。出血はありましたが血止めを行いました。本人も病室に戻っています」。この話を聞いて、手術が成功したと思わない人はいないだろう。
 しかし、翌朝8時頃、医療センターから「周術期出血にともなう急性肝不全による全身状態の悪化」で重症だと電話連絡が入った。医者の説明では「午前5時ごろ血圧が下がり、その後ショック状態に陥った。肝臓から出血があり、人口呼吸、輸血、輸液、昇圧剤によって容体の悪化を防いでいる」という話だった。「出血を止めるには再手術が必要だが、再手術するだけの本人の体力がない」と説明を受けた。「いつから再出血が始まったかはわからない」ということだった。容体の悪化がわかったのは、いつの段階なのか、その段階で再手術の検討はなされなかったのか? 手術をした執刀医は、術後も立ち会うことはなかったようだが、立ち会うべきではなかったのか? 文昭は、私も面会した「回復室」に移され、30数人いる患者の一人として扱われ、ICU(集中治療室)には入らなかった。入れるべきだったのではないか?  様々な疑問が出てくる。証拠保全の闘いを踏まえ、ブラックボックスになっているすべてを国家賠償請求訴訟で明らかにしたい。

 何より、徳島刑務所の問題がある。文昭は、昨年の8月22日、激しい発作に襲われた。医師は「胃けいれん」と診断し、1日病舎で休ませただけで、仕事に戻した。布施先生(ふくしま共同診療所院長)の話では、「胃けいれん」という病名はないそうだ。病状を明らかにする胃や大腸の内視鏡の検査、エコー検査をすることを要望したが、行われなかった。
 この段階でエコー検査を行っていれば、もっとリスクの少ない形で手術もできたはずだ。文昭の体重は秋になり涼しくなっても、元に戻らなかった。月に1~2㌔ずつ減っていき、冬になるころには、56㌔あった体重が、47㌔になっていた。10月に胃の内視鏡検査が行われたが、異状なしとしか言われなかった。そして今年の3月1日にエコー検査が行われたが、その結果は文昭に知らされなかった。更生保護委員会に伝えられる必要があったが、徳島刑務所は伝えたのか? 更生保護委員会は、文昭の健康問題について調査を行ったのか? それも仮釈放の審理の上で、大きな問題になってくる。
 文昭の肝臓がんは、4月18日、医療センターに移ったころには、すでに14㌢×11㌢と巨大な大きさになっていた。徳島刑務所の医療放棄によるものと言わざるをえない。今にも破裂しかねない肝臓がんをかかえた文昭を車で10時間もかけて移送させたことも、虐待と言わなければならない。

 5月30日午後9時44分、文昭は死亡した。文昭は、なぜ死ななければならなかったのか? 肝臓がんを放置した徳島刑務所の医療実態、また医療センターの手術と術後の体制について国家賠償請求訴訟で明らかにしていきたいと思う。それによって、劣悪な獄中医療を変えていきたい。文昭の死を無駄にしないために。そして、人間解放への文昭の思い、文昭の闘いの全部をみんなといっしょに、私が引き継いでいこうと思っている。





星野新聞第85号 掲載