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青栁晃玄さんを追悼する
群馬星野文昭さんの再審を実現する会 伊藤成雄


徳島刑務所への友人面会の時の青栁晃玄さん(右)。健康状態悪化のため最後の面会
となった。左は筆者の伊藤成雄さん。中央が星野暁子さん(2014年6月5日)
 
 2019年6月9日午後8時16分、青栁晃玄さんが逝去されました。星野文昭さん葬儀の翌夜でした。
 青栁さんの81年の生涯は、息を引き取る最後まで労働者階級解放を全力で闘い、仲間と運動を鼓舞激励するものでした。最後の2日間も、集まった家族・友人に、生きて闘う執念を見せました。
 親族以外でただ一人面会を認められ、徳島で星野さんに面会を続け、最後の面会は14年6月でした。
 群馬にとってかけがえのない存在で、青栁さん無くして群馬の運動はあり得ないと言っても過言ではありません。
 青栁さんは1938年に前橋市で生まれ、戦争突入から敗戦、戦後革命の動乱の中で成長し、60年安保闘争を群馬大学学生自治会委員長として闘いました。卒業後は東京の小学校、その後は群馬の私立高の教員となり慕われていました。高校では同僚全員に呼びかけて労働組合を立ち上げ、初代の委員長を務めました。
 1971年11・19の沖縄返還協定粉砕日比谷集会に参加し、不当逮捕されました。この弾圧は日比谷公園にいた全ての人(公園でデート中のカップルまで)を検挙するという全く許し難いものでした。
 当時勤務していた上武一高校解雇後は、解雇撤回闘争を闘い、同時に三里塚闘争、11・14渋谷闘争の裁判闘争支援を続けました。
 青栁さん逮捕の日、当時身重だった故かつ子夫人に逮捕を伝える私は、散々罵倒されるのを覚悟して自宅に向かいました。 しかし、かつ子さんは冷静に受け止めて下さいました。内心は怒りと不安でいっぱいだったと思います。
 青栁さんは、自身の解雇撤回闘争を、不当逮捕者を出すほどの激しい就労闘争と5回の裁判闘争を闘いながら、「11・14渋谷闘争弾圧」救援運動を最初から全力で担いました。 
 72年5月に奥深山幸男さんらの起訴に対し、最初の「救う会」を結成。79年3月、星野さんへの死刑求刑に際し、より幅広い「救う会」に強化しました。
 青栁さんの際だった特徴は、自身の人生で知り合った全員に運動への参加を求めることでした。家族・親族(相当に遠い親族も)・同窓生・友人・恩師へもオルグに行きました。
 同じ71年秋の三里塚東峰十字路闘争へのでっち上げ弾圧とも闘い、葉山岳夫弁護士との共著『東峰十字路裁判』(85年)を刊行しました。78年に「三里塚をたたかう全群馬実行委員会」を結成。これは今、「群馬・市東さんの農地を守る会」に発展しています。
 84年「自民党本部炎上」では、警察が青栁さんを「武器調達犯」とした弾圧とも闘い、この弾圧の無罪判決に結実させ、「横田・迎賓館爆取弾圧」も第一審無罪に尽力しました。
 星野さんを取り戻すために青栁さんはその広い人脈を生かし、98年6月、「群馬星野文昭さんの再審を実現する会」を結成して、一層の全力展開に入ります。
 星野さんの身柄引受人となり、暁子さんに引き継ぐまでそれを続け、他の人が友人面会不許可とされた後も、健康状態が許す限り、毎年面会を続けました。
 青栁さんは「戒名は生前につけるもの」と、闘病開始の5年前に、自身につけた戒名が「諦向心」でした。仏教での「諦」は「真理を明らかにする」という意味があります。
 星野文昭さんの後を追うように逝った青栁さん。かつ子さん、星野さん、奥深山さんと、空の上で会っていることでしょう。
   諦向心院権大僧正晃玄大和尚 合掌

    青柳晃玄さん本葬
    日時 7月26日(金)正午
    会場 前橋市斎場 (前橋市天川大島町1―31―1)電話027―224―2777


   星野新聞第80号 掲載
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