2月7日夕方、奥深山幸男さんが急性呼吸不全で太田記念病院に緊急入院したという連絡を伊藤成雄さんから受けました。誤嚥(ごえん)によるものなので大丈夫だろうと聞いていたのに、容体が急変して夜10時過ぎに息を引き取ったと翌朝聞いて驚きました。そして裁判からの解放を実現することなく逝ってしまった奥深山さんの無念の声が聞こえてきました。 奥深山さんは高崎経済大学に入学して間もなく不正入学を追求する自治会とともに立ち上がりました。沖縄問題への深い思いから69年の闘いで逮捕され1年もの拘留をはね返して闘い抜きました。そして出獄後も休むことなく71年の沖縄闘争に参加したのです。渋谷闘争の直後の自治会選挙では執行部の書記長に選出されました。 しかし、翌年2月2日から始まった渋谷闘争への事後弾圧で人生は一変しました。奥深山さんの渋谷闘争への決起とその後の闘いは、獄中で42年を闘い抜いている星野文昭さんと一体でした。獄中での発病のために一審判決後の81年に裁判が停止して以降、裁判は分離したが壮絶な生きるための闘いを貫き通したのです。 生きる自由求め免訴を申し立て 94年12月、31名の弁護団が公訴棄却・免訴申し立てを行ったことを起点にして、奥深山さんの裁判からの解放を求める闘いが本格的に開始されました。 裁判所も検察官もこの訴えから逃げ回り、あろうことか検察は02年3月に、保釈取り消しと裁判再開申し立てを行ったのです。裁判所は、東京医科歯科大教授山上皓を職権で鑑定人に決定して裁判の再開を策しました。遠藤憲一、嶋田久夫、山本志都の弁護団は、主治医である春日功医師の所見を受けて全力で反撃に立ちました。その結果、裁判所は09年5月に山上鑑定不採用決定をせざるを得なかったのです。 奥深山さんは公判停止以来36年、免訴申し立て以来23年間、星野さんとの再会を目指して闘ってきました。この長期にわたる困難な闘いは主治医である春日先生の文字通り人生かけた支えによって初めて成り立ったものでした。 「奥深山幸男さんの免訴を実現する会」は支援運動を全力で広げ、生きる自由を実現するための闘いを続けてきました。一緒に温泉に行ったり、土地を借りて奥深山農園を開き、農作業を行いました。毎年の収穫祭で奥深山さんは生き生きしていました。 昨年12月、名古屋地裁における裁判で精神疾患による17年の裁判停止の被告を裁判から解放した最高裁決定をも武器に、免訴実現がいよいよ間近に迫っていた矢先の急逝は、実に無念です。免訴による裁判からの解放をついに行わなかった裁判所・検察の責任は万死に値します。 今年、数多く届いた年賀状に熱心に見ていた奥深山さんの思いを引き継ぎ、星野解放を絶対に実現します。 奥深山さん! 安らかに眠って下さい 奥深山君逝去を聞いて 星野文昭 奥深山君は渋谷の闘いに参加し、やり切った。彼を支えていたのは、11・14をやり切ったことだった。 星野の闘いの中に、奥深山の闘いは存在していたし、これからも存在していく。闘いの半ばで亡くなった人たち一人ひとりが、心の中で一緒に生き闘っている。 星野闘争も含めて、最後の勝利まで、すべての人の解放のために一緒に闘っていこう |