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弁 護 団 声 明

   東京高裁昭和55年(う)第392号
                                                       2017年2月16日

    弁 護 団 声 明

 去る2月7日、標記事件の被告人であった奥深山幸男氏は、救急入院中の太田記念病院で急逝された。

 奥深山氏は、1971年11月の沖縄返還協定批准阻止闘争に参加し、その際に発生した「いわゆる渋谷事件」について、1972年2月2日にでっち上げ不当逮捕され、殺人罪等で起訴された。1979年10月23日、東京地方裁判所は、奥深山氏に対し懲役15年の報復的実刑判決を言渡した。
 奥深山氏は、直ちに控訴したが、東京拘置所での長期勾留中に発症した病状は悪化しており、東京高裁は、1981年7月15日「被告人は心神喪失の常況にある」として公判手続きを停止した。

 弁護団は、1994年12月13日、すでに十数年に及ぶ闘病生活と10年以上に亘る公判手続き停止の経過に鑑み、東京高裁に対して早急に免訴または公訴棄却による裁判打ち切りを求めた。
 しかし、東京高裁は、累次にわたる裁判官の異動のたびに「記録を検討中」であるとして判断を避け続けた。
 2001年8月、裁判所は東京高検による不当な「審理再開」要求に突き動かされて、ようやく主治医の尋問を実施したが、奥深山氏の病状が改善していないことが明らかとなるばかりであった。
 その後、東京高裁は、弁護人の推薦する鑑定人を排して、山上晧医師に鑑定を委嘱した。同鑑定人は、約6年も鑑定書を作成せず、2008年7月31日に提出された鑑定書は、確たる根拠もなくひたすら「病状改善」=審理再開の結論ありきの杜撰な鑑定であった。裁判所は山上鑑定を排斥し、慶応大学の村松太郎医師に再鑑定を委嘱した。
 村松鑑定人は、2010年1月1日付で、奥深山氏の訴訟能力は認められるとし、公判手続き再開を可とする鑑定意見書を提出した。しかし、村松の鑑定も、鑑定人尋問において、本人の病状の具体的分析なくして訴訟能力の解釈を緩和するという誤謬に充ちたものであることが徹底して暴露弾劾され、これまた裁判所の採用するところとならなかった。
 この間、弁護団は、主治医である春日医師、西山詮医師、岡田医師などの意見書を提出して裁判打ち切りを求め続けた。
 しかしながら、裁判所は、審理打ち切りに踏み切ることなく、裁判官の異動を契機にまたしても放置を決め込んだ。

 こうして裁判所は、実に35年7ヵ月も公判手続き停止状態を継続、放置した。この期間は、一審判決懲役15年の2倍を超え、高田事件判決(最高裁大法廷1972年12月)の「迅速な裁判」基準(起訴から15年)の2倍を優に超える異常な事態である。
 裁判所が、早期に免訴ないし公訴棄却による裁判打ち切りを決断していれば、奥深山氏がこのような無念の死を遂げることはなかった。
 昨年12月、最高裁判所は、長期(約17年)に亘る訴訟能力喪失状態の被告に対する公判手続き打ち切りの道筋を鮮明に示した(最判2016年12月19日)。
 この最判の判旨に照らすならば、東京高裁は、奥深山氏の裁判打ち切り以外に逃げ道はなかったはずである。
 弁護団は、上記最判を踏まえて本年3月に意見書を東京高裁に突きつけるべく鋭意準備中であったが、まさにその過程で、奥深山氏の訃報に接した。 
 公訴棄却申立てから22年余、弁護団は、春日主治医、支援の皆さまと共に死力を尽くしたが、力及ばずして免訴を実現できなかった。何よりも本人の無念を思うと慚愧に堪えない。
 と同時に、本人を非業の死に追い込んだ国家権力、検察庁、東京高裁に対する激しい怒りを禁じ得ない。
 弁護団は、渋谷事件に対する階級的報復として、裁判打ち切りを拒み続けた東京高裁、審理再開策動を繰り返した東京高検を徹底弾劾する。

 最後に奥深山氏のご冥福をお祈りし、弁護団の声明とする。
   
                        奥深山弁護団
                              弁護士  遠藤憲一(主任)
                                同    嶋田久夫
                                同    山本志都
                                墨東法律事務所   電話 03-5628-5633

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