親愛なる北原鉱治さん追悼して 「三里塚に来い」を果たす 星 野 文 昭
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北原鉱治さんを追悼する 三里塚野戦病院 大熊寿年 |
8月9日、三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長の北原鉱治さんが逝去された。95歳であった。常日頃「100歳まで頑張る」と言っていたが、叶わぬこととなった。 北原さんは1966年の反対同盟結成以来51年にわたって事務局長として闘いぬいた。国家権力と真っ向から対決してあらゆる弾圧や切り崩し攻撃を打ち砕き、「空港絶対反対、農地死守・実力闘争、一切の話し合い拒否」の基本原則を貫いてきた。 北原さんは誰よりも動労千葉との労農連帯を重視し、ジェット燃料貨車輸送阻止ストライキを契機に更に絆を深めた。また、韓国・民主労総との国際連帯も勝ち取ってきた。毎年、民主労総の労働者が訪問し、現地交流を重ねている。成田空港の完成を阻み、国策を破綻に追い込んでいる。 2007年9月、星野文昭さんと面会し「出たら三里塚に来いよ。三里塚で会おう」と約束を交わしたが、ついに果たせぬままに先立たれた。三里塚闘争を共に闘った同志として、三里塚の地で再会できることを楽しみにしていた。71年の強制代執行阻止闘争では地下壕に立てこもって闘い、逮捕された。大木よねさんの闘魂には深く感銘を受け、前歯2本を折られて顔中血まみれになったよねさんに対する国家暴力に激しく怒っていた。78年の開港阻止決戦では、横堀要塞死守戦で逮捕され、裁判闘争も闘った。 75年には成田市議会議員に当選し、以来4期つとめ、三里塚闘争を代表して闘った。逮捕され、有罪判決を受けた時には、辞職勧告決議まで出されたが、断固跳ね返して闘いぬいた。また、実際に戦争を体験したことから、反戦闘争の先頭に立って三里塚闘争を牽引してきた。空港建設計画が決定された直後に羽田空港視察に行き、空港がベトナム戦争に使用される実態を目の当たりにして、「軍事空港反対」のスローガンを掲げた。 三里塚闘争が最大の試練に立たされたのは、83年3月であった。反対同盟を丸ごと条件派化して闘争を解体・終息させようとした政府総がかりの大攻撃に反撃する先頭に立ったのも北原事務局長であった。脱落派との攻防に勝ち抜いて、空港絶対反対・農地死守を堅持しぬいた。今日の勝利的地平は、この3・8分裂攻撃に勝利したからである。 北原鉱治さん。あなたの闘魂を引き継いで、市東さん農地決戦を第3滑走路建設・空港機能強化攻撃粉砕と一体で闘い、勝利します。見守ってください。 |