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親愛なる北原鉱治さん追悼して
「三里塚に来い」を果たす
星 野 文 昭

 10年前に徳島まで足を運び私に会いに来られ、親しくお話しができた光景が昨日のように思い出されます。
 1971年11月14日の「渋谷暴動闘争」の前の夏、秋の三里塚現地闘争以来の再会でしたが、空白を感じさせない面会でした。そして、「三里塚に来い!」が約束の言葉でした。
 北原さんを一言で言うと信念の人だったと思います。戦争を身をもって体験して、その本質が財閥はじめ1%のために労働者人民を殺し合わせるもの、半分以上に餓死・病死を強いるものであることを骨の髄まで刻み込んでいたからこそ二度と戦争を許さない、戦争の無い世の中を、という信念は一点の曇りのない譲ることのできないものだったと思います。だから北原さんにとって三里塚軍事空港建設は絶対に反対し、農地死守が勝利の道であることは揺るぎなく、幾度かの脱落・逃亡と闘うことによってそれは不動なものになり、その真の勝利が労農連帯にあることも闘いの中で揺るぎないものになっていったのだと思います。
 それは今日の情勢の中で全ての労働者人民に勝利の道を示すものになっています。朝鮮侵略戦争・核戦争、数百万人を虐殺し、特区、労働法制改悪で低賃金・長時間労働を強い、TPPで農業・農民切り捨てる安倍政治を絶対反対と労農連帯・団結の闘いで打倒し、労働者人民の手に全てを奪い返す道を示しています。
 北原さんにとって、三里塚闘争に責任を取りきって闘うことを通して、勝利しめざすものを手にしていったのだと思います。酔うと「ロマンが大事」と言っていたというように、戦争体験から戦争絶対反対を三里塚闘争に貫いて闘うことを通して、労農連帯、労働者人民の団結の力で世の中を変えていく、安倍やトランプの労働者人民に戦争・搾取・貧困、人間が人間らしく生きられなくする権力を打倒して、戦争・搾取・貧困の無い、誰もが人間らしく生きられる社会を実現していく、そのことが北原さんのロマンそのものだったのだと思います。
 面会での「三里塚へ来い」は、その闘いを一緒に闘おうということであったし、その約束は必ず果たしていきたいと思っています。
 亡くなる時、北原さんの中には、本当にやり切ったという思いと、その自分を戸村さんや大木よねさん、宮本さん、鈴木さんなどが「ご苦労さま」と握手の手をさしのべる光景があったのではないかと思っています。そして、北原さんの遺志を引き継いでいくことを誓いたいと思います。
 今1%が巨大な富・過剰資本を抱え込んで大恐慌に行き詰まり、それでも利潤を貪るために労働者人民に低賃金・長時間労働・過労死、生きられないほどの搾取・貧困・犠牲を強い、さらに儲けの場をめぐる争闘戦、中東、朝鮮戦争・核戦争、世界戦争を安倍・トランプを先頭に推進し、資本主義が音を立てて崩れようとしています。社会を動かす社会の真の主人公の労働者人民が団結し、闘う労組、三里塚・沖縄はじめ闘う拠点を拡大して民主労総に続くゼネスト・民衆決起によって安倍・トランプはじめ支配階級を倒し、北原さんが望んだように戦争の無い、搾取・貧困の無い、誰もが力を合わせ人間らしく生きられる社会をかちとっていきましょう。
 その闘いと一つに三里塚・沖縄を闘い、無実で無期43年投獄の星野、46年指名手配の大坂さんの解放をかちとりましょう。そうして北原さんとの「三里塚に来い」の約束を果たします。
北原鉱治さんを追悼する
三里塚野戦病院 大熊寿年
   北原鉱治さん略歴
 1922年千葉県佐倉市生まれ。海軍で戦争を体験。戦後三里塚に移り呉服店を営む。66年の新東京国際空港の閣議決定に対し三里塚芝山連合空港反対同盟の事務局長に就任し、終生反対運動の先頭に立つ。71年の第1次・第2次強制代執行、7月仮処分などに対し実力で闘う。動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争を支援し労農連帯を固める。83年3・8分裂攻撃に対し「農地死守」原則を堅持し脱落派と対決。2000年代から今日に至る天神峰・市東孝雄さんの農地を奪う攻撃と闘う。毎年秋の民主労総ソウル本部の三里塚訪問を歓迎し、国際連帯の発展に寄与。15年まで集会発言に立ち続ける。享年95歳。著書に『大地の乱 成田闘争』96年刊


 8月9日、三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長の北原鉱治さんが逝去された。95歳であった。常日頃「100歳まで頑張る」と言っていたが、叶わぬこととなった。
 北原さんは1966年の反対同盟結成以来51年にわたって事務局長として闘いぬいた。国家権力と真っ向から対決してあらゆる弾圧や切り崩し攻撃を打ち砕き、「空港絶対反対、農地死守・実力闘争、一切の話し合い拒否」の基本原則を貫いてきた。
 北原さんは誰よりも動労千葉との労農連帯を重視し、ジェット燃料貨車輸送阻止ストライキを契機に更に絆を深めた。また、韓国・民主労総との国際連帯も勝ち取ってきた。毎年、民主労総の労働者が訪問し、現地交流を重ねている。成田空港の完成を阻み、国策を破綻に追い込んでいる。
 2007年9月、星野文昭さんと面会し「出たら三里塚に来いよ。三里塚で会おう」と約束を交わしたが、ついに果たせぬままに先立たれた。三里塚闘争を共に闘った同志として、三里塚の地で再会できることを楽しみにしていた。71年の強制代執行阻止闘争では地下壕に立てこもって闘い、逮捕された。大木よねさんの闘魂には深く感銘を受け、前歯2本を折られて顔中血まみれになったよねさんに対する国家暴力に激しく怒っていた。78年の開港阻止決戦では、横堀要塞死守戦で逮捕され、裁判闘争も闘った。
 75年には成田市議会議員に当選し、以来4期つとめ、三里塚闘争を代表して闘った。逮捕され、有罪判決を受けた時には、辞職勧告決議まで出されたが、断固跳ね返して闘いぬいた。また、実際に戦争を体験したことから、反戦闘争の先頭に立って三里塚闘争を牽引してきた。空港建設計画が決定された直後に羽田空港視察に行き、空港がベトナム戦争に使用される実態を目の当たりにして、「軍事空港反対」のスローガンを掲げた。
 三里塚闘争が最大の試練に立たされたのは、83年3月であった。反対同盟を丸ごと条件派化して闘争を解体・終息させようとした政府総がかりの大攻撃に反撃する先頭に立ったのも北原事務局長であった。脱落派との攻防に勝ち抜いて、空港絶対反対・農地死守を堅持しぬいた。今日の勝利的地平は、この3・8分裂攻撃に勝利したからである。
 北原鉱治さん。あなたの闘魂を引き継いで、市東さん農地決戦を第3滑走路建設・空港機能強化攻撃粉砕と一体で闘い、勝利します。見守ってください。

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