星野文昭さんの生い立ちとたたかい |
札幌・高崎・三里塚・渋谷を駆ける 星野文昭さんは、1946年4月27日、北海道札幌市で3人兄弟の次男として生まれた。父は三郎さん、 母は美智恵さん。お二人とも、文昭さんが逮捕されて以降、溢れる愛情を注いで闘った。東京にアパー トを借り、東京拘置所へ裁判所へと足を運んだが、三郎さんは1990年、美智恵さんは2007年、 文昭さんを我が手で抱き締めることができないまま、逝去された。現在、ご両親の遺志を継いだ兄の治 男さん、弟の修三さんが、文昭さんの解放をめざして必死の思いをこめて闘っておられる。 子どもの頃は、家の裏の小川で魚をとったり、泳いだり、冬は雪を積んでかまくらを造り、火鉢を運んで、餅を焼いたりして遊ぶ、元気で明るい子どもであった。 小学校3年の頃からは、壁に学習のスケジュールを張って、宿題など忘れたことがない真面目な子ど もで、先生からよくほめられた。友達に分からないところを教えてあげたりするやさしさがあった。そ の頃、友達から広島の被爆写真を見せてもらったことが、社会について考えていくきっかけになったと 後年、星野さんは語っている。 絵を描く才能は、4年、5年の頃から芽生えていた。静物画に陰影を入れて描き、先生から「もう少 しの工夫で見違えるようにうまくなるでしょう」と評価をいただいている。中学、高校では、生徒会長 ・委員長をやった。生徒からも、先生からも、厚い信頼を寄せられていたことが分かる。 中学は陸上クラブたった。自宅でも練習を欠かさず、毎日早朝、約4キロを走ることを日課としてい た。最初は一人で走っていたが、次第に兄と弟も一緒に走るようになった。父親も一緒に自転車でついてくるようになった。星野さんは、毎回のタイムをきっちり計り、日記に書きこんでいた。また、逆回 りに走ってみたり、いろいろな挑戦もして楽しんだ。 高崎経済大学での処分撤回闘争 1966年4月、高崎経済大学に入学した。大学では、不正入学を告発した学生運動が巻き起こって おり、全学ストライキが闘われていた。大学当局は学生運動を鎮圧するために、闘う学生を次々に退学 処分にしていった。処分された学生は、自治会室に泊まり込んで、徹底抗戦の姿勢を示していた。当局は、自治会室に出入りした学生の親を呼び出して、脅しをかけたりするなど、弾圧を強めていた。 大学2年になった星野さんは、大学当局の弾圧をものともせず、自ら自治会室に入り込んだ。当時の高崎経済大学の学生運動の記録映画『圧殺の森』を撮影した大津幸四郎さんは、星野さんのことを「正義感の強い人、まじめでナイーブな学生だった」と語っている。星野さんは処分撤回闘争の中心を担って闘った。69年6月には全学自治会を再建し、副委員長に就任した。自治会では、毎夜議論しては、ビラを作った。星野さんは絵がうまいこともあり、立て看板の文字をいつも早朝から書いていた。群馬大学の学生から呼ばれて行き、立て看板を書いたこともある。大学の寮を回って寮生と熱烈な議論を繰り広げた。こうして、高崎経済大学を全学連の不抜の拠点に形成していった。 決戦の三里塚で 1966年7月、政府は、ベトナム戦争で狭溢化した羽田空港に代わる新たな国際空港用地として、千葉県成田市三里塚・芝山地区を地元農民の合意もなしに閣議決定した。農地など金でいくらでも買収できるとする政府の思い上がりに地元農民は三里塚・芝山連合空港反対同盟を結成し、農地と生活、家族を守るために身体を張って闘った。当初は、社共などあらゆる勢力が支援に来ていたが、機動隊を前面に押し立てた国家暴力の行使を前にして、闘争現場から次々と立ち去っていった。1968年2月、「全学連三里塚現地闘争本部」が設立された。現闘は、空港公団の農地強奪攻撃と闘う反対同盟とともに団結し、反対同盟の営農を支え、共闘関係を確立して闘った。 1971年2月、政府による農地強奪=強制代執行が迫る緊迫した状況の中で星野さんは、全学連行動隊長として三里塚にやってきた。早速、長原公民館(成田市南三里塚字長原にあった)を全学連の常駐小屋としてお借りしたいと反対同盟農民の家々に挨拶に行った。反対同盟は快く了承してくれたばかりか、「自炊するのだろうから、釜をもっていけ」と釜まで貨してくれた。こうして、強制代執行攻撃と闘う拠点ができていった。 また、権力の道路封鎖を想定して、まだ夜も明けやらない薄暗い時間を選んで、駒井野砦までの2時間半くらいの「抜け道」「山道」に習熟していき、戦闘態勢を築き上げていった。この頃の三里塚は、機動隊とのにらみ合い、正面からぶつかっていく闘いの連続であった。星野さんは、農民の農地を強奪する国家の暴力に対して、農民の怒りを自らのものとし、ひるまず闘った。 星野さんがリーダーとして抜きん出ていたのは、常に部隊全体のことを考えて指揮していたことだ。また、彼のアジテーションは、心底からの思いを真剣に伝えるもので、いつも説得力のある内容だった。 反対同盟、特に婦人行動隊からの人気は抜群で、「おとなしくて静かで、いい学生さん」「おらが息子]と慕われた。闘争の合問には、地元の子どもたちに勉強を教えたりする、やさしいお兄さんでもあった。 2〜3月の強制代執行阻止闘争に続き、7月の仮処分阻止闘争、9月第2次強制代執行阻止闘争と連続した闘いの中で、星野さんは常に最先頭で闘った。三里塚闘争−労農連帯・労農同盟の礎を築きあげた。 お母さんの美智恵さんは、星野さんの三里塚裁判の証言で「文昭は相手の身になって考える子です。三里塚成田の時は、農民の身になって考え、弱者の人権が守れる社会になるようにがんばりました」と述べている。 7月仮処分阻止闘争と9月第2次強制代執行阻止闘争の両方で指名手配された。現在は有罪判決が確定している。 沖縄闘争に決起 戦後、沖縄では、米軍がブルドーザーと銃剣で基地のための土地をさらに囲い込んでいった。沖縄の労働者民衆の基地撤去の闘いが激しくなる中で、日米両政府は、沖縄の人々の願いをかなえるかのようにしてペテン的な沖縄「返還」を画策した。沖縄の島ぐるみの反対闘争に応えることが本土の労働者人民に問われていた。星野さんは、沖縄返還協定批准を阻止するために、三里塚の二つの件で指名手配されている身でありながら、デモ隊のリーダーとして敢然と決起した。星野さんの思いは、第2次再審請求時の星野さんの陳述書に詳しい(第3部第1章「星野さんの陳述書」参照)。 1971年11月14日、星野さんは中野駅に現れた。神山交番前で機動隊と衝突し、バラバラになったデモ隊を神山町東交差点で再度まとめあげ、渋谷の東急本店前まで到達させることができた。たぐいまれなリーダーとしての責務を最後まで貫徹したがゆえの勝利であった。 国家権力は、この闘いに恐れをなし、星野さんを機動隊員殺害の「実行犯」としてでっち上げた。一審では、懲役20年であったが、東京高裁はそれを破棄し、星野さんに無期懲役を言い渡した。星野さんは無実だ。警察・検察の星野さんに対するでっち上げとそれに輪をかけた裁判所のでたらめな判決をなんとしてもひっくり返さなければならない。 今、星野さんは、獄中39年という長い年月を監獄の中で生き、闘いぬいている。沖縄闘争の正義を掲げ、国家権力のでっち上げ弾圧=沖縄闘争圧殺攻撃を絶対に許さず、必ず打ち破って出獄すると、人生をかけて闘っている。 獄中結婚した暁子さんとの愛を育み、今や文昭・暁子闘争として、世界に例をみない二人の生き方を築きあげた。文昭・暁子の闘いに多くの支援者、労働者、民衆が心を寄せ、星野さんを取り戻そうという運動が、大きく広がっている。 私たちは、星野さんを絶対に取り戻したい。国家の壁に果敢に挑みかかろう。それが人を人とも思わない、でっち上げの国家暴力でしかない壁ならば、絶対に打ち砕くことができる。世界の労働者民衆とともに、人問が人間らしく生きられる社会を目指して。 |
|