東京高裁 控訴審判決
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                控 訴 審 判 決 文(証人名は記号化)

【事件名】   殺人、現住建造物等放火、公務執行妨害、傷害、兇器準備集合、同結集被告事件
【事件番号】  昭和55年(う)第391号
【裁判年月日】 東京高裁昭和58年7月13日第11刑事部判決
【控訴人】   検察官、被告人両名及び弁護士
【被告人】   星野文昭 外1名
【弁護人】   三上宏明 外6名
【検察官】   浜邦久
【出典名】   高等裁判所刑事判例集36巻2号86頁
【参照法令】  刑法60条/刑法199条/日本国憲法21条/刑事訴訟法317条/著作権法42条/著作権法98条/著作権法102条

       主   文

       理   由

第一 原判決認定事実の概要並びに本件捜査及び公判等の経過
一 原判決認定事実の概要
二 本件捜査及び公判等の経過
第二 検察官及び被告人、弁護人の各控訴趣意に対する判断
一 審判の請求を受けない事件について判決をしたとの控訴趣意について(弁趣第二点)
二 理由不備ないし理由のくいちがいの控訴趣意について(弁趣第三点)
三 訴訟手続の法令違反の控訴趣意について(弁趣第四点、荒趣第五点)
1 共犯者の検事調書の証拠能力(弁趣第四点の一、荒趣第五点の二)
(一)任意性
(1)X1の検事調書
(2)Oの〃
(3)Aの〃
(4)Kの〃
(5)Iの〃
(6)BSの〃
(7)ARの〃
(8)荒川方会議の開催日に関する供述の変遷
(二)特信状況
2 ビデオテープ等の証拠能力(荒趣第五点の一)
(一)テレビフイルム及びテレビ映像
(二)ビデオテープ及び写真帳
(三)まとめ
3 中村巡査の死因に関する審理不尽(弁趣第四点の二)
四 被告人荒川及び弁護人の事実誤認の控訴趣意について(弁趣第一点、荒趣第二点ないし第四点)
1 被告人荒川関係
(一)諸種の準備活動に関する被告人荒川の指示、関与
(1)荒川方会議
(2)中田アジト及び笹塚アジトの準備
(3)一一日の状況
(4)一二日の状況
(5)一三日の状況
(二)被告人荒川のアリバイ等
(1)被告人荒川のアリバイ
(2)その他
(三)事前共謀の成立
2 被告人星野関係
(一)国鉄中野駅における共謀の成立
(二)神山派出所付近の状況
(1)神山派出所に対する放火
(2)機動隊員に対する傷害
(三)中村巡査に対する殺害の共謀及び実行行為
(1)被告人星野の中村巡査に対する殴打
(2)被告人星野の火炎びん投てきの指示
(3)被告人星野の中村巡査に対する殺害の故意等
五 検察官の事実誤認の控訴趣意について(検趣第一点)
1 機動隊員殺害に関する事前共謀
2 中村巡査殺害の故意及び実行行為
六 法令適用の誤りの控訴趣意について(弁趣第五点、荒趣第四点の一)
七 量刑不当の控訴趣意について(検趣第二点、弁趣第六点、荒趣第六点)
第三 結語及び被告人星野に関する自判の判決

       主   文

一 原判決中、被告人星野文昭に関する部分を破棄する。
 被告人星野文昭を無期懲役に処する。
 原審における未決勾留日数中1000日を右刑に算入する。
 原審における訴訟費用中、別紙一に記載した各証人に支給した分の全部、別紙二に記載した各証人に支給した分の 三分の一及び当審における訴訟費用の二分の一は、被告人星野文昭の負担とする。

二 被告人荒川碩哉に対する本件各控訴を棄却する。
 当審における訴訟費用の二分の一は、被告人荒川碩哉の負担とする。

       理   由

 本件控訴の趣意は、検察官川島興作成名義の控訴趣意書並びに被告人荒川碩哉作成名義及び弁護人O惺、同兼田俊男、同木村壮、同菅原克也、同中根洋一、同平賀睦夫、同三上宏明共同作成名義の各控訴趣意書にそれぞれ記載されたとおりでり、これに対する答弁は、検察官加藤泰也作成名義の答弁書及び右各弁護人ら共同作成名義の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

 なお、説明の便宜上、判文及び引用の控訴趣意、証拠及び記録について、以下の用語例及び略語を用いることとする。
 本文中特に年を表示しないときは、昭和四六年の当該月日を示すものとする。
 控訴趣意書を引用する場合は、次の例による。
 検察官作成の控訴趣意書第一点………検趣第一点
 弁護人ら作成の控訴趣意書第二点……弁趣第二点
 被告人荒川作成の控訴趣意第三点……荒趣第三点

 証人の証言は、公判延における供述と公判調書中の供述記載部分又は原審の証人尋問調書とを区別することなく、単に証言の言うほか、次の例による。

イ 被告人荒川及び奥深山に対する原審第二〇回公判期日における証言……荒川・二〇回の証言又は証言(荒川・ 二〇回)
ロ 東京地方裁判所昭和四六年合(わ)第四五四号被告人X16に対する兇器準備集合等被告事件第二一回公判調書謄本中X10の供述部分……X10の(証)

 引用する証拠書類について、年を表示しないものは、昭和四七年の当該月日に作成されたことを示すものとし、また、原本、謄本及び写の区別をせず、次の例による。

検察官に対する昭和四七年二月一〇日付供述調書……(検)(2・10)又は2・10(検)

司法警察員に対する昭和四七年二月一〇日付供述調書……(警)(2・10)又は2・10(警)

記録を引用する場合は、次の例による。

原審記録第一冊一〇丁……原一冊一〇丁

当審記録中書証関係綴り第一冊一〇丁……当書一冊一〇丁

当審記録中供述関係綴り第一冊一〇丁……当供一冊一〇丁

第一 原判決認定事実の概要並びに本件捜査及び公判等の経過

一 原判決認定事実の概要

1 被告人星野文昭は昭和四一年四月に、同荒川碩哉は同四二年四月に、分離前の相被告人奥深山幸男(控訴申立後、病気により公判手続停止中である。以下単に奥深山と言う。は同四三年四月に、それぞれ群馬県高崎市所在の高崎経済大学(以下高経大と言う。)に入学したものであるが、三名とも入学直後から学生運動に熱意を抱き、同大学学生自治会の再建をはかり、同四四年六月ころには、被告人荒川を委員長、同星野を副委員長、奥深山を執行委員の一人とする学生自治会が成立した。

2 被告人らは、いずれもマルクス主義学生同盟中核派(以下中核派と言う。)の同盟員もしくはその強い共鳴者であつて、被告人荒川においては、その後連続三期自治会委員長を勤め、その間に、同自治会が組織加盟した全国学生自治会総連合(中核派系)の中央執行委員となり、被告人星野においては、本件当時は、いわゆる成田三里塚闘争の関係で捜査当局から指名手配を受けていた。

3 昭和四六年に入り、いわゆる沖縄返還協定が、同年秋には批准されるのではないかと予想されるに至つたため、中核派は、右協定批准阻止闘争に全力を注ぐ方針を定め、一〇月には、一一月一四日首都総決集戦(以下11・14闘争ないし本件闘争と言う。)を呼びかけ、一一月に入るや、機関紙「前進」一一月一日号及び同月五日付号外(以下五日付前進号外と言う。)に、「機動隊せん滅」あるいは「渋谷に大暴動を」などのタイトルの下に、煽動的な記事を掲載して、読者に11・14闘争への参加を強く求めた。

4 そこで、被告人荒川及び奥深山らは、高経大のみならず、近隣の群馬大学、群馬工業高等専門学校(以下群馬工専と言う。)、宇都宮大学の中核派のメンバーあるいは同調者に、11・14闘争への参加を呼びかけ、同月六日には、O、K、ARら数名とともに、法政大学で行われた、11・14闘争に向けての決起集会に出席し、席上、奥深山が、群馬地区からの参加者を代表して、闘争参加の決意を表明した。

5 翌一一月七日、被告人荒川及び奥深山は、高経大自治会室において、参集した者に対し、11・14闘争への参加を呼びかけ、同日夜には、前示O、K、ARのほか、N、X1、BS、I、X43、X 36、Tら約一四名を被告人荒川方(和楽荘)に集め、五日付前進号外により11・14闘争の意義、内容などをこもごも説明し、強く同闘争への参加を促した。右呼びかけに応じ、AR、BSら三名位が闘争参加の決意を表明した後、奥深山は、参加者の班編成などを説明し、同人が中隊長、ARが中隊副官になること(以下奥深山を中隊長として編成された部隊を群馬部隊と言う。)、同月一〇日に上京して本件闘争に備えることなどを指示した(以下荒川方会議と言う。)。

6 同月一〇日、被告人荒川及び奥深山、I、X1、N、BS、O、X43、AR、Kらとともに上京し、あらかじめ借り受けていた東京都目黒区内の中田ビル五階五号室の中田方(以下中田アジトと言う。)に入つたが、同日には中村某、X39が、翌一一日にはT、Aがこれに合流した。その後、被告人荒川及び奥深山は、右参加者らに対し、各種集会に参加させ、また、中核派の闘争本部と連絡のうえ、渋谷周辺を下見させ、あるいは闘争用の火炎びん、竹竿、工具類などを調達、製造、隠匿させるとともに、夜間は、同アジトにおいて、右参加者らと前進の読合わせなどを行なつた。

7 同月一三日、本件闘争に関する、渋谷への中核派各軍団の結集計画に伴い、群馬部隊も、本件当日午後二時国鉄中野駅で他の部隊と合流することになつたことから、被告人荒川及び奥深山らは、群馬部隊の集結方法を検討するなどした。同日夜、被告人荒川は、中野駅集合部隊の指揮者打合せ会議に出席して中田アジトに戻つた奥深山とともに、T、O、I、N、X1、BS、A、X39、X43、K、AR、中村のほか、新たに合流した岸達雄の全員を集めて全体会議を開き、その士気を鼓舞し、参加者の一部からは、決意表明が行われた。また、その後、被告人荒川は、奥深山、AR、O、I、中村とともに、翌一四日に、鉄パイプを含む工具類や火炎びんを運搬する班、群馬部隊の集合地国鉄立川駅に至るべき経路等を検討し、決定した。

8 同月一四日、被告人荒川を除く右の者らは、二人ないし三人一組となつて逐次中田アジトを出発し、それぞれ定められた道順を辿り、一部の者において火炎びん、鉄パイプ、工具類などを携行したうえ、一旦立川駅に集合し、同日午後一時四〇分ころ、中野駅に到着した。やがて、同駅ホームには、豊島反戦、中野地区反戦の労働者や学生及び埼玉大学や立正大学の各学生による埼玉部隊の者ら約一三〇名ないし一四〇名が、それぞれ火炎びん、鉄パイプなどを携行して集合し、間もなく、被告人星野も姿を現わした。奥深山は、同被告人の指示により、指名手配中の同被告人を防衛するよう、AR、K、I、Aらに命じた。被告人星野は、同駅ホームで、右火炎びん等を携行する各部隊(以下本件集団と言う。)に対して、警察署、交番等への放火、機動隊員の殺害に関するアジ演説を、これに呼応する本件集団を指揮して同駅を出発し、新宿駅で小田急線に乗り換え、同日年後三時一三分ころ、同線代々木八幡駅に下車した。

9 その後、被告人星野の指揮する本件集団は、同駅前から駈足で渋谷方面へ向かい、途中、同都渋谷区神山町所在の警視庁渋谷警察署神山派出所(以下神山派出所と言う。)付近において、道路上に横隊となつてその進路を規制していた小隊長冨沢健三以下二七名の警察官と遭遇するや、被告人星野の号令の下、多数の火炎びんを投てきし、三名の警察官に加療約二週間ないし約一年四か月を要する顔面、両下肢等熱傷の各傷害を負わせ、また同集団の一部の者は、神山派出所に火炎びんを投げつけて放火し、現に住居に使用している同派出所の土台、天井板などを焼燬した。

10 続いて、同日午後三時二〇数分すぎころ、同区神山町一一番一〇号近藤忠治方前路上(以下本件殺害現場と言う。)において、本件集団に属する多数の学生、労働者の攻撃を受けて後退中の巡査中村恒雄(当時二一歳、以下中村巡査と言う。)を発見するや、鉄パイプ、竹竿、火炎びんを持つた被告人星野、奥深山、大坂正明、A、K、ARらを含む数名にて、これを捕捉して順次取り囲み、被告人星野の「やれ。」との号令や、大坂の「殺せ、殺せ。」の怒号に呼応し、即時同所において、右の者らは、共同して同巡査が死に至るかも知れないことを知りながら意思相通じて、棒立ちのまま無抵抗の中村巡査に対し、右の者らにおいて所携の鉄パイプ、竹竿等で同巡査の頭部、肩部、腹部を多数回にわたつて乱打し、それにより道路上に同巡査が倒れるや、右の者ら及び右状況を認識して同様に未必の殺意を抱きこれらの者と意思相通じて同巡査をその後順次取り囲むに至つた本件集団の者ら数名において、被告人星野の指示のもとに、そのうちA、ARを含む数名の者が、中村巡査めがけて、火炎びんを数本投げつけ、これを発火炎上させて同巡査に対し、ほぼ全身にわたつて第二度ないし第四度の火傷を負わせ、翌一五日午後九時二五分ころ、同都千代田区富士見二丁目所在の東京警察病院において、右火傷により同巡査を死亡させたが、本件集団は、右火炎びん投てき後、同区道玄坂二丁目所在の東急本店前へ進出した(以上が、原判決の判示する、本件犯行に至る経緯及び同犯行の概要であるが、なお、原判決は、被告人星野の兇器準備集合、同荒川の兇器準備結集について、それぞれ本件集団の中野駅から神山派出所前を経て東急本店前に至るまでを集合ないしは結集として判示している。また、本項においては、本件殺害現場関係以外についての共謀の成立時、その内容等に関する原判示部分を便宜省略した。)。

二 本件捜査及び公判等の経過

記録及び関係証拠によれば、以下の事実が認められる。

1 11・14闘争においては、約三〇〇名が現行犯人として逮捕されたが、警視庁及び東京地方検察庁は、その余の参加者に対しても捜査を開始し、とりわけ中村巡査殺害に関して、特別の捜査態勢をとり、電車内あるいは街頭などに残された火炎びんなどの遺留品を収集し、目撃者から犯行状況を聴取するとともに、神山派出所付近における本件集団を撮影した写真から、参加者を割り出すよう努めた。

2 その後、当日の参加者が殆んど中核派をあらわす白のヘルメツトを使用していた中でノンセクトを示す黒のヘルメツトを着用していたX1及びNが特定されて、昭和四七年一月一九日右両名が逮捕され、その自供により群馬部隊の全容が判明し、同年二月二日に奥深山、A、I、O、Kらが、同月二九日にBSが、同年三月一八日にARが、いずれも兇器準備集合、公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火の容疑で逮捕されて取調べを受けるに至つた(なお、奥深山、K、A、ARの四名は、後に殺人容疑で再逮捕されている。)。

3 右逮捕者のうち、X1、A、K、ARは、捜査官による取調べ後東京家庭裁判所に送致され、X1を除くその余の者らは、いずれも同裁判所から再び検察官に送致された。

4 以上のような経過を経て、X1、奥深山を除くその余の者は、いずれも前記罪名により(再逮捕された者については、殺人罪を含む。)起訴されたが、その後、Aは、控訴審において懲役七年(一審では懲役四年以上六年以下の不定期刑)、Kは、一審において懲役三年以上五年以下(控訴棄却)、ARは、控訴審において懲役五年以上七年以下(一審では懲役四年以上六年以下)の刑にそれぞれ処せられ、O、I、T、N、BSは、いずれも懲役三年(O、I、T、Nは四年間、BSは五年間の各執行猶予付の刑に処せられた。

5 奥深山は、昭和四七年二月二三日に兇器準備集合、公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火の罪により、同年三月一三日には、中村巡査に対する殺人の罪により、それぞれ東京地方裁判所に起訴された。

 被告人荒川は、同年四月四日に逮捕され、同月二五日兇器準備結集、公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火、殺人の罪により、同裁判所に起訴された。同年八月一四日、右両名に対する弁論が併合され、審理が行われた。

6 原審は、前示X1ら共犯者(但し、Nを除く。以下同じ。)を証人として取り調べたが、そのうち、BS、I及びTの三名は、その出頭を拒否したため、勾引されたものであり、BSは、さらに当初証言拒否の態度を示していたが、その後ようやく証言するに至り、また、Oは、当初出頭を拒否しており、説得の結果出頭したものの、証言を拒否したことにより過料の制裁を受けたが、その後(後記被告人星野に関する弁論の併合後)の公判期日において証言を行うに至つている。

7 他方、被告人星野は、昭和五〇年八月六日逮捕され、同月二七日、兇器準備集合、公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火、殺人の罪により、東京地方裁判所に起訴された。その後、原審は、同年一二月二二日に至り、被告人荒川及び奥深山に対する弁論に、被告人星野に対する弁論を併合したが、同被告人について、前示X1ら共犯者を再度証人尋問する必要上、その都度弁論の分離、併合を行いながら、AR、A、K、X1、BST、Iの各証人調べを行つた。

8 右証人調べの後、検察官から、右証人らの検察官に対する供述調書(以下検事調書と言う。)につき、刑事訴訟法三二一条一項二号に基づく取調べ請求がなされ、原審は、同五二年一月一四日右各検事調書を採用する旨決定した。

9 原審は、昭和五四年八月二一日被告人星野に対し懲役二〇年、同荒川に対し懲役一三年の各刑を、同年一〇月二三日奥深山に対し懲役一五年の刑をそれぞれ言い渡した。

第二 検察官及び被告人、弁護人の各控訴趣意に対する判断

一 審判の請求を受けない事件について判決をしたとの控訴趣意について(弁趣第二点) 所論は、要するに、被告人星野に対する起訴状記載の公訴事実において、中村巡査の殺害が中野駅における多数の学生、労働者らとの事前共謀に基づく犯行であるとされていたにもかかわらず、原審が、何ら訴因変更の手続きを経ることなく、これを本件殺害現場における群馬部隊所属者その他との現場共謀に基づく犯行として認定したのは、審判の請求を受けない事件について判決をした違法がある、と言うのである。

 記録によれば、同被告人に対する、殺人についての本件起訴状記載の公訴事実の概要は次のとおりである。すなわち、

「同被告人は、昭和四六年一一月一四日午後三時二〇分すぎころ、東京都渋谷区神山町一一番一〇号近藤忠治方前路上において、多数の学生、労働者らの攻撃を受けて後退中の巡査中村恒雄(二一歳)を見つけるや、同人を殺害すべく他の学生、労働者らと共謀のうえ鉄パイプ、竹竿などで同人の頭部、肩などを多数回にわたり殴打し、路上に倒れた同人に火炎びん多数を投げつけて炎上させ、よつて、ほぼ全身にわたつて第二度ないし第四度の火傷を負わせ、翌一五日午後九時二五分、同都千代田区富士見二丁目一〇番四一号東京警察病院において、右火傷により同人を死亡させて殺害の目的を遂げた。」

というのである。

 検察官は、原審第一回公判期日において、右公訴事実につき、被告人星野は、共謀に基づき、実行行為にも出た旨釈明し、さらに冒頭陣述では、同被告人は、本件当日中野駅において、被告人荒川及び奥深山ら一四名の群馬部隊の者及び埼玉部隊や反戦部隊の者ら約一〇〇名と順次意思を通じ、(他の公訴事実である公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火のほか)渋谷駅周辺において警備任務などの職務に従事中の警察官の殺害についての共謀を遂げた旨説明している。

 ところで、原審においては、先に摘記したような経過を辿つて、本件集団とくに群馬部隊の行動、被告人星野の関与の有無等についての審理がなされ、原判決は、前記第一の一の10において要約したとおり、同被告人は、中村巡査の殺害につき、いわゆる現場共謀のうえ、自ら実行行為にも及んだ旨判示しているのである。

 してみれば、前記公訴事実と原判示事実との間には、共謀成立の時点、場所及び共謀者の範囲について差異のあることは所論のとおりであるが、共謀の内容自体には何らの径庭がなく、共謀者の範囲は縮小されたに止まり、両事実の間には、共謀に基づく中村巡査殺害という基本的事実関係において差異がないから、前記程度の差異は、未だ公訴事実の同一性を失わせるものとは言い難く、原判決には所論のような違法はない。なお、被告人荒川については、警察官に対する殺人及び傷害に関し、いずれも事前共謀として起訴されているところ、原判決は、殺人の事前共謀の主張を排斥して、傷害の事前共謀の主張のみを認め、当該共謀者の一部において殺人の行為に及んだとするに止まるのであるから、何ら違法はない(ちなみに、本件審理の経緯に照らすと、被告人側は、右共謀の点について十分攻撃防禦を尽くしていると認められるから、原審が、起訴状記載の公訴事実と異なる認定をするにつき、訴因変更の手続を経なかつたからといつて、その訴訟手続に法令の違反があると言うこともできない。)。論旨は理由がない。

二 理由不備ないし理由のくいちがいの控訴趣意について(弁趣第三点)

 所論は、中村巡査に関する殺人事件について、原判決は、「罪となるべき事実」と判示において、イ 何ら被告人星野の具体的実行行為を明示しないのに、「弁護人及び被告人らの主張に対する判断」中においては、同被告人が同巡査殺害の実行行為に加担していたことは証拠上明らかであると言い、ロ 殺人の未必の故意に必要とされる「認容」の存在についても触れるところがなく、さらに、ハ 同巡査殺害に関する現場共謀の成立についても、その成立時点及び共謀者の範囲を明らかにしていないのであるから、原判決には、刑事訴訟法三七八条四号所定の理由不備ないし理由のくいちがいの違法がある、と言うのである。

 しかしながら、イ 前記第一の一の10の原判示事実の要約から明らかなように、原判決は、被告人星野について、a 同巡査への殴打行為に際し、「やれ」と号令したこと、b 同被告人を含む者らが、鉄パイプ、竹竿等で同巡査を乱打したことをそれぞれ認定しさらに、c 倒れた同巡査を取り囲んだ者らに対し、火炎びんを投げつけるよう指示したことを具体的に判示しているのである。従つて、同被告人についての殺人の実行行為は、十分明らかにされていると言うべきである。次に、ロ 殺人の未必の故意に関し、原判決の「罪となるべき事実」中に、「認容」の文言自体が欠けていることは所論のとおりである。しかし、理論的に、未必の故意に「認容」が必要であるということと、判文上その「認容」の存在を示すのに、いかなる表現をもつてするかということは、全く別個の問題である。原判決は、この点について、前示のとおり、被告人星野らは、「死に至るかもしれないことを知りながら」「棒立ちのまま、無抵抗の中村巡査に対し、右の者らにおいて所携の鉄パイプ、竹竿等で同巡査の頭部、肩部、腹部を多数回にわたつて乱打し、」続いて路上に倒れた同巡査めがけて、「火炎びんを数本投げつけ、」これを発火炎上させて同巡査を死亡させた旨判示し、被告人星野らが、同巡査を死に至らしめるかもしれないことを認識しながら、敢えて殺害に至るべき行為に出たこと、すなわち、同被告人らに所論「認容」の存在したことを明示しているのであるから、その未必の故意の判示に欠けるところはない。さらに、ハ 現場共謀の成立時点などについて判示するところを見ると、原判決は、前示のとおり、同巡査を殴打する直前に、まず被告人星野及び奥深山ら数名の者の間に、同巡査殺害についての共謀が成立し、次いで、同巡査が路上に倒れた際に、順次これを取り囲んだ者数名との間にも同様の共謀が成立したことをそれぞれ認定判示していることが明らかである。以上の次第であるから、所論は、いずれも原判決の判示するところを正解しないものと言わなければならない。論旨は、理由がない。

三 訴訟手続の法令違反の控訴趣意について(弁趣第四点、荒趣第五点)

1 共犯者の検事調書の証拠能力(弁趣第四点の一、荒趣第五点の二)

 まず、所論は、AR(4・11、4・12、6・8)、A(2・9、2・14、2・16、2・18、2・25)、K(2・9、2・14、2・16、2・18、2・254・26)、O(2・10、2・15、2・17、2・22(ただし「四回」の表題のあるもの)、4・11)、BS(3・10、3・13、3・15)、X1(1・20、125、1・31、2・3)、I(2・4、2・9、2・10、2・19、2・23)、T(2・10、2・16、2・18)の各検事調書(以下本件各検事調書と言う。)を採用した決定(以下原決定と言う。)は、その任意性、特信性の判断を誤つたものでありしかも、原判決は、右採用した本件各検事調書を用いて、被告人星野が中村巡査殺害の実行行為に加担したこと、被告人荒川が事前共謀に加担したこと、特に一一月一三日夜中田アジトの会合に出席して、同所に宿泊し、翌一四日朝も同所で出発する群馬部隊の者を見送つたとの事実を認定しているのであるから、右任意性、特信性についての判断の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである、と言うものである。

 しかしながら、原審記録及び証拠物を精査し、当審における事実取調べの結果を併せ考えても、本件各検事調書の任意性、特信性に疑問を抱くには至らないのであつて、この点についての原決定の判断に誤りがあるとは言えない。以下、所論にかんがみ、主要な点に関し、当裁判所の判断を補説する。

 ところで、本件各検事調書は、既に明らかなように、いずれも共犯者の供述調書であるから、これを刑事訴訟法三二一条一項二号の書面として採用するには、同法三二五条、三一九条一項に照らし、まず、その任意性の有無の判断が必要であるところ、弁護人及び被告人荒川の控訴趣意においては、右任意性についての主張を、同法三二一条一項二号但し書のいわゆる特信情況の主張あるいは一般的な信用性の主張とともにしており、その間の区別にやや明確を欠くものがあつたところ、弁論においては、これが相当程度明確に区別されて主張されるに至つた(ただし、なお特信性ないし信用性の主張と混同しているきらいがないわけではない。)ので、以下、主として、弁論において主張されたところに従つて判断し、必要に応じ、控訴趣意における主張にも触れることとする。なお、控訴趣意及び弁論における本件各検事調書についての主張のうち、信用性に関するものは、後記事実誤認についての判断の際に必要に応じて触れることとし、この項においては、まず誘導的取調べの有無など本件各検事調書の任意性に関する所論について判断し、次いで、特信状況の有無について検討する。

(一)任意性

 本件各検事調書の任意性の有無についての所論は、概ね次のとおりである。すなわち、本件犯行の捜査を担当した警察官及び検察官(以下両者を併せて捜査官又は取調官と言う)は、本件集団の中からX1及びNを割り出した当時から、本件犯行を被告人らによる計画的犯行と見込み、まずX1、Nを逮捕し、とりわけX1に対して、強い誘導的取調べあるいは不起訴の約束に基づく取調べを行つて、群馬部隊の全容を述べさせるとともに、本件犯行が被告人らを含む同部隊によるものであることを窺わせる供述をさせ、さらには、被告人星野の中村巡査殺害への直接的加担を匂わせる伝聞供述までさせたうえこれを用いて、続いて逮捕したA、K、Iに対して同様の誘導的取調べをし、あるいはAに対して控訴しない旨の約束による取調べ、Kに対して偽計による取調べなどを行つた。しかし、同人らから、被告人らについての十分な供述、とりわけ中村巡査殺害の実行行為者についての詳細な供述が得られなかつたため、捜査官は、最も殺人罪の適用を恐れていたOに対し、X1同様殺人罪について不起訴を約束したうえ、程度を超えた誘導的取調べをして、右実行行為者に被告人星野及び奥深山が含まれる旨の詳しい供述を獲得し、これを用いて右Aら三名に対し再度強い誘導ないし追及的取調べあるいは脅迫を行い、結局、右O供述に沿う三名の供述を得るに至つた。さらに、右各供述を用いて、BS及びARに対しても同様の取調べをなし、特にARに対しては、取調べの席上実父に殴打までさせてその自白を得たものである、と言うのである。

 右主張からも明らかなとおり、所論は、各検事調書のいずれについても誘導、理詰めないし追及的取調べを主張し、しかもその主張が極めて多数かつ詳細になされているので、判断の便のため、右のような取調べの有無、あるとした場合、その許否についての各一般的基準及び供述の任意性に及ぼす影響などについて、あらかじめ当裁判所の判断を示すこととする。

 まず、所論は、特異な供述をもつて違法な誘導の証左とするが、一般に、特異な出来事に関する供述は、通常捜査官の知り得ない事柄に属するものと言うべく、従つて、むしろ当該供述の任意性を推認させる一資料であり、特段の事情のない限り、右特異性をとらえて、直ちに、これを強制ないしは違法な誘導があつたことの証左とはなし得ない。

 次に、所論は、本件各検事調書相互間に、同一ないし同一に近い記載内容が見られることをもつて、右誘導等の取調べがなされたことを示すものである、と言う。しかしながら同一の事柄に対して、複数の共犯者に供述を求めた場合、通常、相互にほぼ同様の内容が供述されることは、当然の結果とも言うべく、単に各供述調書間に同様の記載があることのみをもつて、直ちに違法な誘導等の取調べがあつたとすることはできない。

 また、所論中には、同一人の供述内容が変遷していることをもつて、誘導等の取調べがあつたことの証左であると主張する部分もある。しかし、一般的に言えば、被疑者の供述内容は、捜査の進展によつて、他の証拠が順次獲得収集されるに従い、あるいは捜査官の説得などにより、否認から自白へ、さらに詳細な自白へと変化していくことが多いのであるから、当該供述内容に変遷があることをもつて、直ちに違法な捜査方法を推認するのは相当とは言い得ない。

 他方、誘導、理詰めあるいは追及的な取調べ方法は、それ自体、直ちに供述の任意性に影響を及ぼすわけではない。すなわち、証拠上、確実な資料に基づかない捜査官の一方的な見込みあるいは発問内容の一方的な押しつけが窺われるときには、その供述の任意性を否定すべきことがあるのは格別、記憶喚起のため、あるいは説得により否認を翻えさせるため、既に収集された証拠、例えば、共犯者の供述調書を用いて取調べをし、さらには合理的範囲内で理詰めないし追及的質問を試みることは許されると解すべきである。

 以上のとおりであつて、所論が、誘導、理詰めないしは追及的取調べがなされたことを主張しているものの、単に、当該供述調書に、特異な供述記載、又は他の供述調書と同一の供述記載があること、供述内容の変遷が見られることなどをその論拠と、あるいは、誘導、理詰めないしは追及的取調べであると言うのみで、それが合理的範囲を超える等の特段の事情の主張がない場合にあつては、これらは、未だ当該供述調書の任意性に影響を及ぼすものとは考えられないから、個々に、その主張の採り得ない理由について説明することを省略し、以下、任意性に疑いを抱かせるに足りると考えられる、主要な主張についてのみ判断する。

 そこで、前示のとおり所論が主張する本件各検事調書作成の順序に従い、その任意性の有無を検討する。

(1)X1の検事調書

イ まず、所論は、本件について逮捕された群馬部隊所属者のうち、起訴されていない者はX1だけであることを根拠に、同女と捜査官との間に、被告人荒川や同部隊所属者らについて虚偽の供述をするよう、取り引きが存在したことを十分推認し得ると言う。

 しかし、X1が起訴に至らなかつたのは、関係証拠によれば、前にも一部触れたとおり、検察官から事件送致を受けた家庭裁判所において、少年法二〇条による検察官への事件送致を行うことなく、同女について終局処分を行つたからに過ぎないのであつて、検察官の不起訴裁量権に基づくものではない。しかも、同女に関する家庭裁判所への送致罪名は、O、Iらと同様であつたと認められ、他方、事件送致に際し、検察官が敢えて同女への軽い処遇を望んでいた形跡も何ら存在しないことからすれば、所論は、家庭裁判所が少年に対して、独自に処遇を決定する立場にあることを無視した憶測に過ぎず、その前提を欠くものとして、採用するに由ないものと言わなければならない。

ロ また、所論は、捜査官の見込み捜査による誘導的取調べを主張するが、右見込み捜査であるとの点は、X1及びNが被告人荒川らと同様高経大の学生であり、ノンセクトであつたということ以外には、何ら確かな根拠はないのであるから、これを認めるに由なく、右主張は採用の限りでない。

ハ なお、所論は、X1が、1・25(検)中で、一一月一四日当日被告人荒川と中野駅まで一緒であつたと供述していることをもつて、捜査官による誘導の証左と言うが、同女は荒川・二五回において、弁護人からの、右供述は検察官の誘導によるのではないかとの趣旨の問いに対して、単に記憶が混乱したためであると思う旨証言(原一三冊一二二九丁)しているのであるから、所論は採るを得ない。

(2)Oの検事調書

イ 所論は、まず、Oが2・17(検)において、中村巡査の殺害に関し、本件殺害現場における実行行為者として、解告人星野のほか奥深山、K、AR、A、大坂の氏名及び言動を特定した供述を行つたのは、取調警察官平松卓也から昭和四七年二月一三日ないし一四日に、取調検察官中津川彰(以下中律川検察官と言う。)からは同月一七日に、それぞれ殺人罪による起訴を免除する旨の約束を得たからであつて、その代償としての右供述は任意性を欠く、と言うのである。

 ところで、所論は、右結論に至る前提として、Oが中村巡査殺害の実行行為者の一人であり、かつ、捜査官がこれを承知していたと言い、その論拠としてOの供述調書中の記載などを挙げるので、以下これについて検討する。

a 所論は、Oが、2・14(警)中において、取調警察官から、イ「君は当日現場近くに、しかも火炎びんを二本も持つていながら、なぜ機動隊員に投げなかつたか」とか、ロ「君は当日の編成からして班長という地位にありながら、また、高経大ならびに同じ中隊に所属する者が直接警察官に対し手をくだしているのに客観的に見ていることができたか」と問われて、イに対し、「客観的に見て投げるのが普通だろうけれども」と答え、ロに対し、「客観的に見ることはできませんでした」と答えていることをもつて、右は、Oが中村巡査の殺害に主体的に関わつた、すなわち実行行為を行つた証左であると主張し荒川・四一回において、同人が、本件殺害現場では、「観察者としてはいられなかつたと思います」と証言(原一八冊二七四二丁)したことも同様である、と言うのである。

 しかしながら、右警察調書中の、所論問答部分を見ると、イの問答については、前記の答に引続き、「その時見ていた様子が何か非常に恐ろしくなつたので、投げることができませんでした。」との答えがあり、ロの問答については、続いて、「それではどうしたか」との問いと、「恐ろしさを感じて何もできませんでした。」との答えがなされているのである。一連の右問答によれば、同人は、事の成行き上、第三者から見れば、火炎びんを投げるべき立場にあつたかもしれないが、同人としては、恐怖のため実行行為に及ぶことができず、また、第三者的な、冷静な立場で観察することができなかつた、とするに止まるのであつて、同人が、「客観的に見る」ことができなかつたのであるから、主体的に関わつたと見るべきであるとする所論は、右問答の趣旨を正解しないものと言わなければならない。また、所論指摘の同人の原審証言も、その前後及び同趣旨の他の証言部分(原一八冊二七六〇丁)を併せ考えれば、同人は、中村巡査に対して火炎びんが投げられるのを見て、様々な感情が交錯し、自分はどうするかを考えることで精一杯であり、冷静な、観察者的立場には立てなかつたことを述べているに過ぎないことが明らかである。従つて、所論の各供述記載などから、同人の実行行為を推認することは困難である。

b また、所論は、Oが、荒川・一三回において、殺人罪について起訴される虞れがあることを理由にその証言を拒否したことは、同人において、殺人罪に相当する行為があるにもかかわらず、捜査官の不起訴の約束に基づき、他人にその責任を転嫁して虚偽の供述をしたため、公判廷でこれが明らかになることを恐れたからである、従つて、右証言拒否は、同人の中村巡査殺害への加担と、捜査官による不起訴の約束とを推認させるものである、と言う。

 なるほど、Oが、右公判期日において、所論のような理由で一旦証言を拒否したことは、その証言経過から明らかである。しかし、同人は、その態度を貫いたわけではなく、荒川・四一回においては、検察官及び弁護人双方からの詳細な尋問にも、ある程度答えるに至つているのであるから、所論のような推論を行うことは困難である。記録によれば、同人が証言を拒否した実質的理由は、縷々の所論にもかかわらず、原決定の判示するとおり、被告人荒川に対する遠慮や気兼ねが極めて強く、また、自己の証言により被告人らの属するセクトから、何らかの報復をされるのではないかとの恐怖の結果であると見るのが相当である。

c さらに、所論は、Oの2・16(警)中には、同人が、本件犯行後の一一月一六日高経大の自治合室において、「機動隊員をせん滅したと言つても実際現場では火炎びん一二本しか投げれない」との発言をした旨の、いわば自白に近い供述が録取されているにもかかわらず、中津川検察官が、2・17(検)においては、これを無視し、「結局殴つたり投げたりすることができませんでした。」との供述を録取するに止めていること(原四〇冊一四九六丁)は、同検察官が、同人の中村巡査殺害への加担を知りながら、これを起訴しない旨の約束をした事実を推認させるものであり、その後の2・22(検)では、右自治会室における同人の発言部分が抹消され、4・11(検)では、全く別の話にすりかえられていることも、同様右約束の存在を推測させるものである、と言うのである。

 しかしながら、所論は、まず警察官平松卓也による不起訴の約束が、昭和四七年二月一三日ないし一四日になされたとする、前記所論と主張自体予盾するものと言わなければならない。すなわち、前記所論によれば、当然、平松は、右日時以降O自身の殺人の実行行為に関する自白あるいはこれに類する供述を得る必要がない道理であるにもかかわらずその後に作成された2・16(警)に関する本所論において、右(警)中に、再び殺人の実行行為に関する自白と見るべき供述があると主張するのは、それ自体、前後矛盾するものである。しかし、右の点は暫く措くとしても、同人の右供述部分は、到底、所論のように、殺人に関する自白に類するものとは認め難い。すなわち、同供述部分は、本件犯行から二日後の、仲間同志の話合いの場に関するものであり、被告人荒川が、「一四日の機動隊員もとどめをさしておけばよかつたな。」と言つたことに対し、X1らが「私達は何もできなかつた。」などと話したのに続いて、「私も」、所論指摘の発言をしたというのであり、その発言内容は、火炎びんを、自分が「投げた」と言うのではなく、「一、二本しか投げれない。」との、言わば客観的、批評家的表現に過ぎないのである。右供述の経過及び内容に加えて、同一調書中の中村巡査殺害の場面に関する供述においては、Oは何ら自己の火炎びん投てきについて述べるところがなく、所持していた火炎びん二本は、東急本店を通り過ぎた付近で、電柱の蔭に捨てたと供述しているのであるから、これらを併せ考えれば、右仲間同志の話合いの場面における同人の供述をもつて、実行行為の自白ないしはこれに類するものと見るのは相当ではないと言うべきである。従つてまた、その後の2・17、2・22各(検)中の記載内容をもつて、不起訴の約束をしたことの現れと見ることもできない。そして、4・11(検)は、一読して明らかなとおり、右各供述調書とは異なり、主として被告人荒川の言動を中心とするものであるから、O自身の犯行現場における行動について触れるところがないとしても、これをもつて全く別の話にすり変えられたと言うことはできない。

d 所論は、以上に関連して、仮にOが中村巡査殺害の実行行為に加担していないとしても、捜査官は、同人の殺人罪で訴追されるかもしれないとの恐怖心を利用して、不起訴の約束をしたとも言うが、同人の荒川・四一回における証言によれば、捜査官から、「殺人罪だと断定的に言われたことはないと思う、殺人罪で調べるかもしれないということは言われたと思う、そう言われて大変だと思つたと思うが、一寸その時の気持は思い出せない、びつくりしたと思う。」(原一八冊二七五四丁)というに止まるのであるから、これをもつて恐怖心をもつに至つたとまでは言えず、所論は独自の推論に過ぎない。

 以上のとおりであつて、Oの前示検事調書が、捜査官との不起訴の約束に基づいた任意性のない供述であるとの所論は、これを採用することができない。

ロ 次に、所論は、Oの2・17、2・22、6・26各(検)中にある、中村巡査殺害の実行行為者の特定に関する供述は、他の共犯者の供述調書に基づく誘導のみならず、強制的取調べによつて録取されたと主張し、その証拠として、Oの原審における警察官検察官の方が、一応、こうじやなかつたかというような聞き方をされまして、それでそうですというような形で調書をとつていつたと思います、あるいは他の人の供述と比較対照しながら、確か調書をとつていつたと思います、との趣旨の証言を指摘する。

 しかし、Oの供述中、最も基本的な、2・17(検)における供述と当該時点までになされたA、K及びIの関係供述とを対比すると、O供述には、イ 中村巡査に対する殴打の状況に関する供述に差異があり、とくにARが殴打していた旨、ロ 倒れた同巡査の上に、奥深山が馬乗りとなつて、鉄パイプようのものでその肩などを殴打した旨ハ 奥深山が火炎びん投てきを命令した旨の三点に、他の供述にはない特異性が見られるとくにハについては、Aは、火炎びん投てきを命じたのは被告人星野であるとし、Kは、誰の声か分らないとするに止まり、Iは、これについて何ら言及していなかつたのであるから、到底捜査官の知り難い事項であつて誘導、教示するに由ないところであり、むしろOの自発的供述態度を示す一資料と言うべきである。他方、Oの原審証言中には、たしかに所論指摘に類する部分も見受けられるが、同時に、捜査官が、こんなことはなかつたのかと質問しながら調書を作成していつたが、自分の記憶していることを言つてみなさいということもあつたと思う、その詳しい事情は判然記憶していないが、まるきり誘導尋問ということではないと思う、私が一から一〇まで喋つて作成された調書でもなかつたと思う旨の証言もある(原一八冊二七六八丁)のであつて、以上を併せ考えれば、O証言に言う誘導とは、先に説示したような、単なる誘導的取調べを指すものに過ぎず、他に同人の取調べに関し強制を疑うべき形跡もまた存在しないから、未だ右誘導的取調べが強制ないしは押しつけの程度に達していたと見ることはできない(なお、所論は、Oの6・26(検)についても論難するが、同調書は、原判決の挙示するものではなく、当審において採用されたに過ぎないから、右部分は、主張自体失当である。)。

ハ また、所論は、Oの4・11(検)中にある「一一月一四日朝やはり荒川さんがおりました」との供述部分は、右調書の作成日が、殺人罪不起訴の約束を与えられているO自身の判決言渡しの前日であることからして、利益誘導以外の何物でもないと主張するが、既に説示したとおり、右不起訴の約束自体が認められないのであるから、所論はその前提において失当と言うべきである。

(3)Aの検事調書

イ 所論は、まず、Aの家庭裁判所の審判の際の否認を撤回させ、従前の中村巡査に対する殴打及び火炎びん投てきを認めていた同人の自白を維持させるべく、取調官であつた中津川検察官は、同人に対して一審の刑が軽くても控訴をしない旨約束したとして縷々主張し、3・28(検)を論難する。しかし、同調書は、原決定が採用したものではなく、単に任意性、特信性を争う証拠として当審において提出されたものである。そして、所論指摘の控訴をしない旨の約束は、Aが検察官送致決定を受けた後の出来事というのであるから、原決定の採用した各検事調書は、関係証拠によつて、いずれもそれ以前に作成されたものと認められる以上、所論約束は、これらの調書の任意性に何らの影響をも及ぼすものではない。従つて、主張自体失当と言うべきであるが、ただ、右主張は、中津川検察官がそれまでにして維持しようとした従前の自白に、任意性を疑わせる事由の存することを間接的に裏付けようとするものとも解されるから、以下簡単に検討する。

 所論は、右約束が存在した裏付けとして、Aの当審における証言、すなわち、同人は成人となつた直後、控訴審において一審よりも重い刑を言い渡されたときに、検察官にも裏切られたと思つた旨の証言を挙げるのであるが、元々捜査を担当した検察官が、捜査段階において、後日控訴するかどうかについてまで言及するとは考え難く、中津川検察官も当審証言において、右約束を明白に否定しているのである。しかも、所論の約束が存在したとすれば、同人は、控訴審判決後ではなく、検察官が一審判決に対して控訴した時点において、控訴をしない旨の約束が裏切られたことを知り、約束違反を理由として争うのが自然である。にもかかわらず、控訴審判決後になつてこれを問題と感じた旨の同人の右証言は、直ちには信用し難い。

 また、同様にして所論は、当審において取り調べた同人の昭和四七年七月一八日付中津川検察官あての私信を、その裏付けであると主張するが、右私信は、同人が、一審判決を受けた直後に、同検察官の愛情ある取調べに感謝の念を表明するとともに、当該時点における同人の心境や今後の生き方について記したものであつて、その内容中、「刑期の長短に対する不安も拭いとられてしまつた現在」との文言は、その直後の、同人の心境を表現した「良心の呵責という言葉が私の胸を大きく占領しております。」との文章の枕言葉として使用されているに過ぎず、また、「刑務所へ行き真面目に刑期を務めあげる」との部分は、良心の呵責に苦しむ同人が、「どう転んでも正しいという文字はでて」こない本件行動ではあつたが、将来を展望して、「何をすべきかと考え」たうえ、「さしあたつて」すなわち現在の立場上なしうることとして挙げた事柄に過ぎない。従つて、これらの文言から、所論のように、同人が、中津川検察官の控訴をしない旨の約束を信じて、少年のうちに服役できることを喜んでいたとの事実を推認し得るとは、到底言い難いところであるロ 所論は、次に、Aの各検事調書は、取調べに当たつた捜査官が、自ら直接に、あるいは弁護人を通じて、Aに対し保釈、量刑等についての利益供与ないし示唆を与えたうえで、その供述(とりわけA自身の火炎びん投てき並びに被告人星野及び奥深山の本件殺害現場における言動についての供述)を録取したものであり、任意性を欠く、と言うのである。

 そこで、所論がその証左として挙げる、Aの陳述書中の、「私は今保釈になつたら父の居る土建会社で力仕事をしたいと考えております。」云々との記載について検討する。右陳述書は、警察署、検察庁及び裁判所の三者の長にあてた昭和四七年三月一日作成にかかるものであつて、その本文の部分は、藁半紙大の用紙九枚にわたり、同人が自筆で書き綴つたものである。その内容とするところは、狭い視野の持主であつた自分が、逮捕後落ち着き、現在では中村巡査殺害の責任を思い、これをエポツクとして立派な社会人となり再びあやまちを繰り返したくないと反省している旨を、過去の経緯をも含め、詳細に記したものであつて、右保釈云々の文言は、先に摘記した部分に引続く「そして汗を流して自分の生活を支えてゆく辛さ、楽しさを知りたいと思うのです。」との部分を含め、七枚目のわずか三行に記載された部分である。以上によれば、右陳述書は、同人が保釈を許されることを当然のこととして書き上げたものとは見られず、また、保釈云々の文言は、中村巡査殺害の責任を果たすための、今後の生き方を述べるに当たつて、もし保釈になることがあれば、従来とは異なる生活をしたいとの願望を書き綴つたものと見るべきであり、右文言から、直ちに所論のような保釈の約束、あるいは量刑上の利益供与があつたことを推認するのは相当ではない。同人は、当審において、捜査官に対して本件殺害現場における状況を供述したのは、結局、詳しく話せば情状酌量してもらえると考えてのことであるとの趣旨を証言し、保釈の可能性があるということと、殺人現場のことを話すということとが、どれ位関連性があつたかということは分らない、とまで述べているのである。

 なお、所論は、原決定が、右保釈等の利益供与の約束を認めない理由の一つとして、Aが自己の被告事件の公判廷においては争つた形跡が全然認められないことを挙げていることに対し、同人は、家庭裁判所における審判では、自らの殺人の実行行為を否認しているのであり、その後、自己の公判廷で右否認を維持しなかつたのは、家庭裁判所から検察官に送救された直後に、否認を撤回させられ、締めの心境に立ち至つたからである、従つて、公判廷で争わなかつたことをもつて、右利益供与の約束を否定することはできない、と主張する。

 しかし、当審において取り調べた同人の3・28(検)によれば、縷々の所論にもかかわらず、右家庭裁判所における同人の否認は、言わば、全くの濡衣を晴らすために、心底から事実を否定するといつた体のものではなく、周囲の者の種々の不純な言動に触発された結果のものであることが窺われるのであつて、それがために、同人は直ちに右否認を撤回し、自らの公判廷において争うことをせず、また、Kに対しても自分は締めているとの手紙を書き送つたものと解することができるのである(所論は、右3・28(検)中の否認の理由が信用し得ないとして、Kの殴打に関する供述を指摘するが、Aは、当審において、取調べの際、幹部以外の者の氏名を秘匿したことを窺わせる証言をしていることに照らし、右主張は採用し難い。)。従つて、原決定が、利益供与の約束を否定する理由の一つとして、右A自身の公判廷における態度を挙げたことは、所論にもかかわらず何ら誤りとは言えない。

ハ また、所論は、Aが、被告人星野の中村巡査に対する殴打、火炎びん投てき命令及び同被告人自身による火炎びんの投てきについて供述している2・16(検)は、捜査官の程度を超えた誘導的取調べによつて録取作成されたものである、と言う。

 なるほど、同人の原審及び当審における証言中には、右所論に沿うかのような部分もないではないが、その証言全体を仔細に検討すれば、同人が捜査官の取調方法について批難するところは、具体的には、同人が推測事項として述べたことが、調査上断定的な表現とされてしまつたということであつて(原一三冊一二二六丁、原一四冊一二七六丁、一二八七丁、一四五三丁、一五三一丁)、捜査官の方から、君がやつたことはもうわかつているなどと言われて供述を始めたのかとの問いを否定し、自発的に中村巡査の死亡に関係したと供述したことを肯定する証言をしているのである(原一四冊一五三六丁以下)。しかも同人は、知らないことは知らないと言うべきだつた(同一五三一丁)と証言するにもかかわらず、同人の2・25(検)によれば、同調書は、同人の本件犯行当時の心情及び同人の行動の概要などを供述するとともに、押査官との問答が数点にわたつて記載されたものであるところ、同人は、中村巡査をハンマーでは殴つておらず、殴つたのは鉄パイプである、同巡査を竹竿で殴つていた者は判らない、同巡査の傍でKを見ていない、倒れた同巡査に馬乗りとなつた者やガソリンをかけた者は見ていない、として否定すべきものは否定し、同巡査に火炎びんを投てきした者の氏名も、確実なものと不確かなものとを区別して供述し(被告人星野の右投てきには触れていない。)、そのうえで、従前の供述中追加訂正することがないことを認めて、2・16(検)の供述を大綱において維持し、さらには、その調書末尾で、自分が中村巡査を殴打した部位の訂正まで申し立てているのであるこれらからすれば、所論のような、違法な取調べを推測することは困難であると言わなければならない。なお、2・16(検)には、被告人星野の火炎びん投てきについての供述があるのに、2・25(検)には、前示のように、これが触れられておらず、所論の論難するところであるが、元々右供述は、被告人星野が火炎びんを持つていたので、投げたと思う、という、甚だ確実性に欠ける供述として録取されていたのであるから、同人において憶測に過ぎない右供述を撤回したとしても、格別不自然とは言えず、却つて、右は、Aの供述するところに従つて、そのまま供述録取が行われたことの証左とも言うことができる。

ハ 最後に、所論は、取調べに当たり、当初の逮捕罪名である放火罪が重罪であつたことから精神的重圧があり、また、黙つていると怒鳴られたり、机をどんと手で叩いたりされて威圧感、圧迫感を強く感じたというAの証言をもつて、その供述に任意性がないことの根拠の一つとしているが、前示のような、取調べに際し、同人は自発的に中村巡査の死亡に関係したと供述した旨の証言と対比すると、同人が少年であつたことを考慮しても、取調べの状況が右の程度に止まるときは、所論にもかかわらず、これをもつて未だ供述の任意性を失わせる類いのものとは考え難い。所論はいずれも理由がない。

(4)Kの検事調書

イ 所論は、まず、Kの2・16(検)における、中村巡査への竹竿での殴打についての自白は、右時点までにKの殴打行為について供述していた者がOのみであつたのに取調検察官市川敬雄において、「複数、」「三人以上」あるいは「O、I、Aの三人」が既に供述しているとの偽計を用いて取り調べた結果獲得されたものであつて、任意性を欠くと言うのである。

 しかし、所論の指摘する、「三人以上こうこう言つているのだ。」とのKの原審証言部分を見ると、その直前において、「例えば、最初の段階ではOさんの供述なんかそうですね。」(原一二冊九七五丁)との証言がなされている。また、捜査官から「複数の人間が言つているんだ。」と申し向けられた旨のKの当審証言もあるが、具体的に、その名前を問われると、「記憶にあるのはOという人です。」とか、「Oが、Kがなぐつていたんだ、というような供述をしているということです。」と証言している(当供一冊一〇五丁)のである。さらに、Kは、同人自身の控訴審公判廷において、殺人に関して自白した理由を問われ、詳しいことは陳述書に記載したとおりであるが、要するに、自分の記憶ではなく、O、I、Aの三人の供述によつて自白するようになつた旨(Kの被告事件に関する第三回公判調書、当書三冊七八二丁)述べ、また、その挙示する陳述書によれば、Kの自白の直接の切つ掛けは、Oらの供述である(当書三冊八〇六丁とも言うが、他方、右陳述書中で、Oの供述については、その供述内容すなわち「Kが中村巡査を竹竿がササラ状になるまで殴つていた。」とする点に関し、種々反論しているにもかかわらず、A及びIの各供述内容は詳しく知らない、とし(同八〇八丁以下、さらには、「私を取り調べる糧とされたO供述」とするに止まつている(同八〇八丁部分もあるのである。以上の事実に、取調検察官である当審証人市川敬雄が、KをO供述によつて追及したことを自認していることを併せて考えれば、Kの前示検事調書中の自白は、それまでに録取されていたOの2・14(警)によつて問い詰められたことを切つ掛けにしてなされるに至つたものと見るべきである(ちなみに、Kが、OのほかにI、Aの名前を挙げたのは、捜査段階において、事後に自己の犯行に関するIの供述がなされたことから、自己の自白を最後まで維持せざるを得なかつたことによるものと見るのが相当である。)。従つて、所論のように、取調検察官が偽計あるいは詐術を用いてKの右自白を得たものと認めることはできない。

 もつとも、所論はなお、検察官は、Oの供述調書を用い、Kに対して、極めて執拗な追及的取調べをしていると主張し、そのことは、同人の中村巡査に対する殴打の態様が左手で同巡査の脇腹を水平打ちに殴打したとの、通常ではあり得ない、不自然なものとして供述されていることや、同人が、後日家庭裁判所で殴打行為を否認し、一旦その否認を撤回したものの、同人自身の被告事件の公判廷で、再び否認を続けたことからも明らかである、と言う。しかし、Kが左手に持つた竹竿で中村巡査を殴打したのは、右手に火炎びんを持つていたうえ、以前剣道をやつていて左手も右手と変らない強さを持つていたことからであつて(2・18(検)、原三九冊一三三一丁以下)、格別不自然なこととは考えられない。また、Kの右殴打に関する自白の切つ掛けになつたと考えられる、Oの前記供述調書の記載は、「Kが竹竿で頭や肩を一〇数回殴りつけました。竹竿は半分位先がバラバラになり、たたけなくなりました。」(当書四冊九六九丁)というものであるが、Kは、取調べの際、竹竿による殴打は認めながらも、竹竿がバラバラになるような殴打はしていない旨を一貫して主張していた、というのであり(市川の証言。当供三冊八四八丁)、現に、同人は、2・25及び4・26各(検)において、同人のほかに、竹竿がバラバラになる位最後まで殴つていた男がいた旨それぞれ供述しているのであつて(原三九冊一三五六丁、一四一〇丁)、否認すべきところは、明確に否認しているのである。従つて、Kの右自白が、Oの前示供述を押しつけられた結果のものとは見られず、ひいては右O供述を用いた取調べが、程度を超えた追及的取調べであつたとも認め難い。 なお、Kは、家庭裁判所で右殴打行為を否認しているが、これが同人に対する違法な取調べを推認する根拠となり得ないことは、当審において取り調べた、同人の3・27(検)、3・25及び3・28各(警)並びにAの3・28(検)に照らしても明らかである。また、Kは、同人自身の被告事件に関する控訴審の公判廷においても、右殴打行為を否認しているが、同人はその一審では何ら争うことをせず、しかも右控訴審における否認も、中村巡査を殴打した「実感的記憶」はない、という甚だ不自然なものである。ところで、同人は、当審において、逮捕後家庭裁判所へ送致されるまでの間、弁護人から、裁判が始まつてから事実関係を覆えすのは難しいから、事実に沿つたところで供述するようにとの助言を受けた旨証言しているが、右は、同人の2・13(警)と対比すれば、昭和四七年二月一三日以前の出来事と考えられる(当書二冊五〇五丁)ところ、同人の自白はその後になされたものである。以上の事実に、同人の前掲各供述調書から認められる、家庭裁判所での否認の動機を併せ考えると、前記A同様、Kの否認が、同人の真実の体験に基づくものとは考え難いところである。従つて、同人が、その控訴審において自己の殴打行為を否認したからと言つて、これが同人に対する違法な取調べを推認させるものとは言えない。

ロ 次に、所論が、程度を超えた誘導ないし理詰めの追及があつたと指摘する二、三の点について検討する。

a まず所論は、Kの各検事調書中で、本件殺害現場における被告人星野を特定している部分は、Kが薄いクリーム色の背広上下を着た者の言動として供述したのを、取調検察官市川敬雄が強引な誘導により被告人星野と結びつけたものであると言うのである。

 しかし、縷々の所論にもかかわらず、Kが、その各検事調書において、中村巡査を殴打している者の中に被告人星野がいたと供述している点に、捜査官の誘導があるとは認め難い。すなわち、所論指摘の、被告人星野の服装に関するKの供述は、当審で取り調べた同人の2・16(警)八項(当書三冊五七三丁)に記載されているが、右個所において同人は、機動隊員の「顔を覆つている手を、うすいクリーム色の背広の人が鉄パイプでしきりに殴りつけていました。この時、このような服装の人は星野さんしかいないので、顔は見ていませんが、この殴つていた人は星野さんだつたと思います。」と述べており、右個所のみを取り上げれば、Kは、被告人星野を服装で特定したかのようであるが、それ以前の個所において、既に、同被告人が鉄パイプで機動隊員の頭部を殴つており、かすれた異様な声で「殺せ、殺せ。」と叫んでいた旨、格別服装によつて特定することなく供述しているのである。Kは、関係証拠から明らかなとおり、本件当日中野駅において、同被告人の防衛隊員を命じられ、その後、同被告人の身辺で行動を共にし、同駅での、同被告人のアジ演説の際には、その肩車までしているのである。他方、Kは、荒川・二一回において、弁護人から、同人の供述調書中に機動隊員が四、五人に殴られていたとあるがその中に同被告人がいたことを確定し得るのか、と問われたのに対し、これを肯定している(原一二冊九〇八丁)のであつて、以上を併せ考えれば、Kは、同被告人の顔や姿を見たとの場面に関する供述に際しては、何らの留保もつけずに、確定的に同被告人を特定し、他方、所論指摘の、二回目の殴打状況に関する部分については、その服装の色を見たに止まり、同被告人の顔や姿を現認していないとし、右服装の色をもつて同被告人と推測した旨を供述したものと解するのが相当である。そして、Kは、2・16(警)において、前示のとおり、同被告人の二回にわたる殴打目撃の状況を供述しているが、同人の検事調書を仔細に吟味すると、4・26(検)以外は、右警察調書の一回目に関するものか二回目に関するものかが必ずしも明確ではないもの(2・9(検))、あるいは右警察調書の一回目の目撃状況よりも早い時点で同被告人を目撃した旨供述するが、二回目の状況については触れていないか、触れてはいないと見るべきもの(2・14、2・16、2・18、2・25各(検))である。そして、4・26(検)には、二回目の殴打状況についても、氏名の特定による同被告人の行動に関する供述記載があるが、他方、同調書の末尾には、Kの供述の訂正が録取されており、それによれば、本件殺害現場で同被告人を初めて目撃した時期に関する、従前の供述を訂正し、同人が中村巡査を竹竿で殴打した際に、初めて、同被告人が鉄パイプを振り上げ、殺せ、殺せと叫びながら殴打しているのを見た、と言うのである。以上によれば、同人の調書は、その供述するとおりに録取されたことを窺うことができる。してみれば、縷々の所論にもかかわらず、同人の検事調書が取調検察官の強引な誘導によつて作成されたものとは、到底考え難い。

b 次に、所論は、Kの各検事調書中の、奥深山の中村巡査に対する殴打行為及び火炎びん投てき行為についての供述部分並びに奥深山の本件殺害現場への到着順序についての供述部分は、いずれもその供述内容の変遷が甚だしく、これが単に記憶喚起のための誘導の結果とは考えられず、検察官の程度を超えた違法な誘導によるものと言わざるを得ないと言うのである。

 そこで、Kの各検事調書を検討すると、右各点についての記載の変遷は、次のとおりである。すなわち、当初、同人は、最初に中村巡査を殴つていた四、五人の中に、判然はしないがAに似ていた者がおり、奥深山の姿は、最初に火炎びんを投げた四、五名の中に見かけたような気がする旨(2・9(検)、原三九冊一二七七丁、一二八一丁)を、次いで、本件殺害現場直前で、一旦自分が追い抜いた奥深山、A及びI又はTの三名において、再び自分を追い抜き、中村巡査を殴打した、火炎びんの投げられた方向を見ると、ARと奥深山の姿が見えた旨(2・14(検)、同一二九四丁、一二九七丁、一三〇四丁)を供述したが、やがて、自分が右三名を追い抜いて、先に中村巡査を殴打し、その直後に奥深山やAら数人が駈けつけて殴打を始めた、とその供述を変更し(2・16(検)、同一三一八丁以下)、さらに、奥深山は、自分より先に、星野らとともに中村巡査を殴打していたが、それは現場直前で自分を追い越したからだと思う、その後自分を押しのけるようにしてAら二名が来て殴打を始めた、火炎びん投てきの直前、自分から火炎びんを取り上げた男の隣りに奥深山がおり、同人がその火炎びんを、さらに取り上げた旨を供述し(2・18(検)、同一三三〇丁以下)、最後には、黒つぽいコートを着た大柄な男が、倒れている中村巡査に火炎びんを投げたが、その男が奥深山だつたと思う旨(225(検)、同一三五七丁以下)を供述するに至つている。所論は、右供述内容の変更は不自然に過ぎると言い、Kも、右の点について誘導があつた旨を証言している。

 しかしながら、右各供述内容を通覧すると、まず、火炎びん投てきについては、Kは最初から、火炎びんを投げた四、五人の中に、奥深山の姿を見かけたような気がすると言つて、早くも同人の火炎びん投てきを窺わせる供述をしているのであり、これが、姿が見えたと変り、その後奥深山が一人おいた隣にいて、火炎びんを取り上げたという、捜査官には知り得ない、かつ、後日に取り調べられたARの供述とも異なる独特の供述となつたうえ、遂にその火炎びん投てきを認める供述に至つているのである。右供述の経過に、当審証人市川敬雄の、これらの点については誘導的取調べをしていないとの証言を併せ考えると、Kは、奥深山の火炎びん投てきを初めから供述することに躊躇を覚えながらも、捜査の進展につれて、順次詳細に述べるに至つたものと解し得るのであつて、右供述の変遷過程は、必ずしも不自然とは言えない。

 また、奥深山の到着順序及びこれに関連する殴打についての供述も、Kは、当初から群馬部隊の中の一人が被告人星野とともに、先に中村巡査を殴打していたと述べ、その後自分が到着するまでに同部隊の者との間に追い抜きがあつて、Kが中村巡査を殴打した直後に、同部隊の者が同人を押し出すようにして割り込み、同巡査を殴打したことを述べており、その供述は、それなりに一貫しているのである。ただ、自分より先に到着していた者を、初めはAに似ていた者と言い、後に、これを奥深山と思うと供述を変えていることと、右追い抜きに関して、Kが先か、他の群馬部隊の者が先か、その中に奥深山が含まれていたか否かの点について、くいちがいが見られるのである。ところで、本件殺害現場直前における追い抜きというようなことは、これが一瞬の出来事であることからすれば、その先後について記憶の混乱の起こり得ることは容易に考えられることであり、その関連で、右現場に先に到着していた者が、Aに似た者であつたのか、奥深山と思われる者であつたのか、との記憶にも、同様の混乱が生じることは、十分考えられるところである。従つて、火炎びん投てきその他右現場関係の諸状況についての記憶が整理され、漸次明確化されるに伴い、結局、先に到着して殴打を始めていたのが奥深山であり、従つて後から割り込んできたのがA及びI又はTの二名であるという供述に変つてきたと考えられるのであつて、これまた必ずしも不自然な供述の変遷とは言い難い。所論は、右の変遷のうち、2・14(検)中の、Kが、奥深山やAらに追い抜かれたとの供述は、Aがその前々日に作成された2・12(警)において、同人が本件殺害現場に近づいたとき、奥深山が鉄パイプを振り上げ、中村巡査を殴りつけるのを判然見た旨を供述したことから、Kをその後に到着したとするために、捜査官によつて誘導されたものであると言うが、仮にそのような誘導がなされたとすれば、何故その二日後に、再びこれを覆えして、奥深山よりもKが先に到着したとの2・16(検)が作成されたかを説明し得ないこととなろう。また、所論は、Kの、右到着順位についての最終的な供述、すなわち、2・18(検)中の、右順位は奥深山、K、Aの順であるとする供述は、前日に作成されたOの2・17(検)による誘導の結果であると言う。なるほど、右Oの調書によれば、Kの言う到着順位を推認させる供述部分が認められるが、右と同様の供述は、既にOの2・14(警)(当書四冊九六八丁以下)においてもなされているのである。従つて、同人の供述によつて、Kを誘導しようとすれば、2・18(検)に先立つ2・16(検)作成の段階においてこれが可能であつたと言うべきである。しかし、Kの216(検)の到着順位に関する供述記載は、Oのそれと全く異なつているのである。以上の点からすれば、右到着順位などについて、所論の言う程度を超えた誘導的取調べを認めることは難しいと言わなければならない。

c さらに、所論は、Kの2・9(検)及びその前後の供述調書には、一一月七日の荒川方会議並びに同月一三日夜及び一四日朝の中田アジトにおける状況について、未だ被告人荒川の積極的役割やその氏名すら記載されていないのに、同被告人に対して公訴提起のあつた翌日に作成された、Kの4・26(検)には、これが詳細に記載されるに至つており、右供述の不自然な変更は、同人の記憶の喚起あるいは明確化によるのではなく、同被告人追及のための検察官の強引な誘導によるものである、と言うのである。

 なるほど、前示証人市川敬雄は、Kの4・26(検)が被告人荒川の起訴に関連して作成されたことを認めている。しかし、右調書の内容は、Kにおいて突如供述したものではなく、既に従前の検事調書及び警察調書において供述されているものをまとめ、同被告人を中心としてやや詳しくしたものに過ぎないことが明らかである。すなわち、荒川方会議における同被告人の役割は、2・9(検)(原三九冊一二四八丁以下)及び2・23(警)(当書三冊六二四丁以下)に、一一月一三日夜及び一四日朝の中田アジトにおける同被告人の言動については、2・27(警)(同六七九丁以下)及び2・28(警)(同七〇一丁以下)にその大綱が既に供述されているのである。従つて、Kの右4・26(検)中の同被告人についての供述が、取調検察官のことさらな誘導等によつたものとは認め難い。もつとも、所論は、右各警察調書もまた、同被告人の逮捕に備えた警察官の誘導によるものと言うが、前示のとおり同被告人の逮捕は、右各警察調書の作成から一か月余も後の昭和四七年四月四日であることを考えれば、その主張は到底採用し難い。

(5)Iの検事調書

イ 所論は、Iの各検事調書は、捜査官の脅迫、理詰めの追及および強制によつて作成されたものであるから、全く任意性がない、と主張する。

 しかし、Iは、原審及び当審において、2・10(検)中の、本件殺害現場における被告人星野の言動の一部及び2・19(検)中の、右現場における共犯者らの言動についての各供述部分を除けば、その余の検事調書については、特段に批難することなく、ほぼ記憶どおりのことが録取されている旨証言しているのであるから(原一一冊六八八丁以下特に六八九丁、一二冊八三四丁以下、二八冊六四五丁、当供一冊二二七丁以下、二四六丁以下)、Iの2・4、2・9各(検)(2・23(検)については、2・19(検)と関連して判断する。)についても、その任意性がないと争う所論は、何ら論拠のないものであつて、採用するに由ないところである。

ロ そこで、まず、Iの2・10(検)中の被告人星野についての供述部分を検討する この点についての所論は、要するに、Iは、本件殺害現場における被告人星野の行動について、同被告人は中村巡査を殴打している者らの外側で、一人離れて鉄パイプを振りかざしながら「やれ、やれ」と言つていたことのみを記憶するに止まつていたにもかかわらず、取調検察官からの理詰めによる不当な追及を受け、同被告人が中村巡査を殴打していたなどと止むなく供述するに至つたものであつて、その供述には任意性は認められないと言うものである。そして、Iも、概ね右所論に沿う証言をしていることが認められる 他方、Iの取調検察官であつた当審証人福江馨は、Iは当初から素直に供述を続けていたものであり、ただ、共犯者の氏名を挙げるのに躊躇している様子が見られたが、何度か本件殺害現場へ連れて行つたこともあつて、共犯者らの氏名及びその言動を供述するようになつた、と証言するのである。そこで、所論が右違法な取調べの証左であるとする2・10(検)中の、被告人星野の中村巡査に対する殴打についての供述記載を見ると、次のとおりである。すなわち、「星野さんら五人位の者が、突如道路の左に寄つて、その機動隊員一人を半円形の形で取り囲むようにして、長さ約一メートルの竹竿、長さ約三〇センチの鉄パイプで機動隊員の被つているヘルメツトをめがけ、ガチヤンガチヤンと何回も殴りつけておりました。」(原四一冊一八〇〇丁以下)「勿論星野さんは、何回となくほかの四人位の者に対して、その現場で、やれやれと叫んでハツパをかけたり、その機動隊員を自らも殴りつけておりました。」(同一八〇三丁)というものである。ところで、右記載内容を、前示のとおり、Iがほぼ自らの記憶に従つて述べたと言う2・4(検)中の記載内容(原四一冊一七一七丁以下)と対比すると、両者は何ら異なるところがないのである。してみれば、右2・10(検)の作成に当たつて所論主張のような違法な取調べが行われたことを推認し得ないことは明らかである。

ハ 次に、2・19(検)(本件殺害現場における人物の特定に関する2・23(検)を含む。)の任意性について検討する。所論は、右調書は、検察官が殺人罪による起訴の可能性や、共犯者が自白していることを材料として、Iに対し、共犯者であるA、KO特に前示Oの2・17(検)の内容を押しつけた結果作成されるに至つたものであるから、任意性を欠く調書である、と言うのである。

 しかし、右OとIの両検事調書の内容を対比検討すると、そのくい違いは甚だしく到底前者、すなわちO供述をもつてIに押しつけたと見ることはできない。すなわち両者の供述の差異を例示すると、イ 被告人星野及び奥深山の中村巡査に対する殴打行為に参加した者の氏名及び順序について、O供述によれば、大坂、氏名不詳者二名、KA、ARの順序であるが、I供述によれば、初めにA、Kが一緒になつて加わりその後AR、大坂が加わつたというのであり、ロ その際使用した武器も、O供述によれば、Kは竹竿、Aが鉄パイプであるのに対し、I供述によれば、Kは鉄パイプか竹竿のいずれか、Aはハンマーというくい違いがある。ハ また、O供述によれば奥深山が倒れた中村巡査の背中に馬乗りになり、鉄パイプのようなもので肩などを殴つていた、とするのに対し、I供述によれば、奥深山は、未だ同巡査が道路上に倒れず、立つている時に、腰を落して同人のガス銃を取ろうとしていた、同巡査が倒れた後に、被告人星野の銃を取れとの指示があり、ARがその太もも辺りにまたがつて捜していた、と言うのである。以上から明らかなように、I供述は、その内容においてO供述と大幅に異なつており、到底、Oの右調書の記載内容を押しつけられたものと見ることはできない(I供述が、A、Kの各供述とも、O供述との比較の場合以上に差異があることは、当該時点における関係証拠を対比すると明らかである。)。そのうえ、Iの右調書には、ニ A及びKは、捕えて殴りつけていた、中村巡査とは別の機動隊員に逃げられたため、被告人星野らの殴打している場所に戻つてきたとか、ホ 中村巡査を殴つた際の、「ガチヤン、ジヤーン、バシツ、バシツ」といつた打撃音についての、独特な供述が見られ、またヘ 被告人星野が、自分に向かつて「やれ。」と言つたが、中村巡査を取り囲む者らの中へ入る余地もなく、可哀相にもなつたので止めた、との、捜査官の知り得ない事柄についての供述が見られるのであつて、これらからも、Iの右供述調書の任意性は十分窺うことができるものと言わなければならない。

 所論は、前示福江証人の、Iの2・19(検)における共犯者らの氏名、言動についての供述は、その直前のIの現場引当たりの結果なされたものである、という趣旨の証言部分をとらえて、現場引当たりによつて、犯行の場所、情景を思い出すことはあつても共犯者らの氏名を思い出すということはあり得る筈がない、と論難する。しかし、同証人の証言は、Iが、現場引当たりによつてのみ、突如それまで全く記憶のなかつた、共犯者らの氏名などを思い出したという趣旨には解せられない。同証人は既に、昭和四七年二月一〇日の時点において、Iには共犯者らの氏名を述べることに躊躇している様子が窺われた、とも言つているのであり(当供三冊七四七丁)、従つて、その証言は、現場引当たりが、Iに対し、共犯者らについての詳細な供述をなす切つ掛けを与えたとの趣旨と解すべきであり、所論の批難は、当を得ないものと言わなければならない。

 所論は、なおIの右調書は、取調官の同人に対する、殺人罪によつて起訴するとの脅迫によつて作成されたものであるとも主張する。たしかに、同人の荒川・二〇回及び星野八回における証言中には、所論に沿う部分も存在するが、他方、星野・八回においては、裁判長の問いに対し、取調官から、死刑とか、長期の刑になるとか言われたことはない、自分なりに長期の刑になると考えたことはある、と答え、また、取調官からは、殺人罪でお前が起訴されるかどうかの瀬戸際なのに、(本件殺害現場の)傍にいて、何でそんなに覚えていないのだと言われたが、だから喋れとまで言われたわけではない、一切を思い出し、思い出したことは正直に喋ろうと思つたし、現に喋つた旨証言し(原二八冊七〇六丁以下)、さらに、当審においては、殺人罪で起訴すると、言葉で言われたことは判然しない、取調官から、本件殺人現場における(実行行為者の)氏名などを言わないのは、隠しているのではないか、とか、犯行に加わつているのではないかと言われたのを、殺人罪で起訴されると感覚的にとつている旨証言する(当供一冊二七九丁以下)に止まつているのである。以上の証言に、Iに対する本件取調べ当時、Kの供述によつて、一応、Iに関し、中村巡査殺害についての容疑があつたことを併せ考えると、取調官から同人に対し、殴打に加わつたのではないかとの追及以上に、脅迫と目すべき言辞があつたとは考え難い。所論は、同人の原審証人喚問の際の、裁判長あての手紙(所論に言う不参届、原三冊八五一丁以下)に記載された、「警察、検察当局の脅迫により」云々の文言をとらえても種々論難するが、同人の言う脅迫が前示のとおり根拠のないものである以上、右は、完全黙秘を指示されていたにもかかわらず、詳細な供述をするに至つたことについての後ろめたさ、ないしは被告人荒川らの面前において証言することへの逡巡を示すものに過ぎないと言うべきである。

(6)BSの検事調書

 所論は、中村巡査を殴打した者として奥深山らを特定しているBSの3・15(検)は、検察官の限度を超えた理詰めの追及および脅迫によつて作成されたものであるから、任意性を有しない、と言うのである。そこで、右所論の根拠とするところを順次検討する。

イ 所論は、まず、BSには、元来、中村巡査を殴打していた者の氏名等についての認識、判断がなかつたにもかかわらず、同人が、殴打行為者として奥深山、A及びKの氏名を供述するに至つたのは、取調検察官の厳しい追及的取調べに耐えられず、新聞報道により右三名が殺人罪により逮捕されたことを知つていたことから、同人らを殴打行為者としてあてはめたからである、と言うのである。

 なるほど、BSの証言中には、所論に沿う部分もないではない。しかし、同人は、中村巡査を殴打していた者三名に関し、直感ないし服装その他によつて、A及びKと特定し残る一名を奥深山と特定したうえ、同人については、確かなものではない旨を再三にわたつて述べているに過ぎない(原一一冊四七〇丁以下、五一七丁以下、原二八冊三五八丁、三八五丁、四〇六丁、当供二冊三五二丁、三六一丁)のである。従つて、BSにおいて、所論のように、三名の特定に関する認識、判断がなかつたとは認め難い。

ロ 次に、所論は、要するに、本件当日、奥深山において、BSから借り受けた黒コートと腕時計を使用し、また、BSが後日他の事件で逮捕された際着用していて押収されたカーキ色のコートを、Aにおいて当日着用していたことから、BSが取調検察官に対し、これらを不安に思つたと述べたに過ぎないのに、同検察官が、右不安は、BSにおいて、奥深山及びAの中村巡査に対する殴打行為を目撃したことから、自分を同人らと人違いされて、中村巡査殺害の犯人とされることを恐れたためであろうと一方的に推断し、その旨をBSに対して理詰めで追及するとともに、殺人罪による起訴等を示唆して脅迫し、遂に同人から奥深山、A及びKの殴打行為を目撃した旨の供述を得るに至つたのであり、従つて、右殴打行為に関するBSの3・15(検)は、任意性を欠くものである、と言うのである。そして、右検事調書中の、奥深山特定の部分が極めて不自然であること、BSの供述調書の作成に関し、途切れている期間があることなどを、論拠として主張する。

 なるほど、BSは、原審及び当審において、右の人違いについての不安は、格別、奥深山らの中村巡査に対する殴打を目撃した結果ではない旨証言するが、所論にもかかわらず、右不安がBSの目撃と何故に結びつかないのか、換言すれば、不安が同人の証言する程度のものに過ぎないのであれば、何故これが生じるのかについて、納得のいく説明は遂になされなかつたのである。従つて、同人の右証言は、不自然に過ぎ、にわかに採用し難いと言わなければならない。すなわち、同人が、奥深山及びAのコート使用などについて不安を覚えたと言う限りは、まさに、BS自身が、奥深山らの中村巡査に対する殴打状況などを目撃していたため、もし捜査当局において現場写真等を撮影しているとすれば、誤つて自分が殴打したと目される危険性がある旨恐れたからであると考えるのが、経験則上自然である。所論は、BSの3・15(検)などにおいては、奥深山、Aらの服装などがその識別の根拠であるかのように記載されているが、結局、身体の格好や、直感という漠然としたものが根拠となつているに過ぎず、右は理詰めの追及の証左であると言う。しかし、BSが右のような服装などによる人違いの不安を捜査官に対して述べていたことから、供述調書作成の際、これが殴打状況を目撃した時点における奥深山らの特定の根拠と重複し、その結果、調書上では一見BSが服装などによつて奥深山らを特定したかのような表現がなされるに至つたものと見るべきである。BSが、右検事調書において、殴打していた者を奥深山と特定した理由として、同人の使用していた腕時計及びコートは自分が貸与したものであり、この現場を写真に撮影されておれば、自分が疑われるのではないかと思つたとし、また、殴打状況を終始見ていたわけではなく、上空に飛来したヘリコプターが写真撮影をしているのではないかと心配していたとも供述するなど、中村巡査を殴打している者は奥深山らであると判つた上で、誤つて自分と人違いされることを、一度ならず心配する同人の心情を述べているのは、まさに、右のような経過を示すものに他ならない。奥深山らの特定に関するBS供述の趣旨は、結局、同人と奥深山らとの間柄に照らせば、右検事調書に記載してあるとおり、「いずれも直感的に判つた」という点にあつたと見るべきである。従つて、同調書上の記載をもつて所論の根拠とすることはできない。

ハ さらに、所論は、BSの2・29(警)が、同人の一一月六日から同月一四日神山派出所付近における機動隊との衝突に至るまでの行動経過を記載し、末尾を「これからの自分の行動について、後で申し上げます」と結びながら、その後約一週間にわたつて供述調書が作成されておらず、また、3・7(警)では、冒頭に「(昭和四七年)二月二九日に引続いて申し上げます」との記載があるのに、一一月一四日当日の行動については触れるところがなく、同月二日から九日までの経過を記載していることから、これらの不自然な調書の作成の仕方は、その間BSが共犯者らの言動について供述するのを拒否していた証左であり、その後わずか一丁の3・13(検)に至り、突如として、「現場で中村巡査を殴つていた者は、奥深山さんとA、Kの三人で、これを見ております」との供述記載が現出したことは、まさに、BSが検察官の追及的取調べに屈して、供述の止むなきに至つたことを示している、と言うのである。

 しかし、BSの逮捕当日に作成された、同人の2・29(警)の事実関係に関する部分は僅か八丁程度の概括的な調書であり、従つて、これを受けた3・7(警)が、3・11(警)の冒頭にある、「一一月一〇日頃からのことについて申し上げます。」との供述内容の継続を示す文言とは異なり、単に供述自体の継続を示す「(昭和四七年)二月二九日に引続いて申し上げます。」との文言を用いて、再度一一月二日から九日までの経過に関する供述を詳細に録取したとしても何ら不自然とは言えない。そして、また、当審証人中津川彰の、右調書作成に関する空白期間は、連合赤軍による、いわゆる浅間山荘事件の発生により、公安関係の捜査官が動員されたためであるとの証言、あるいは一丁程度の短い313(検)を作成した理由は、別の一三枚綴りの3・13(検)において、一一月一四日当日の新宿駅までの経過を順次録取してきたところ、時間がなくなつたため、その後の経過の中の、肝心な中村巡査殺害に関する目撃状況についてのみ念のため簡単な供述調書を作成しておき、その詳細は、後日3・15(検)において録取した旨の証言も、必ずしも不自然とは言えないのであるから、右調書の作成方法についての所論は、採用することができない。

ニ なお、所論は、BSが捜査官から、逃走中の自分をかくまつた桜井博について事情聴取をするとか、逮捕するとの脅迫を受け、現に同人が昭和四七年三月一一日に警察官より取調べを受けたことから、その脅迫に屈して同月一三日奥深山らの氏名を供述するに至つたものである。と言う。

 なるほど、BSの当審における証言中には、所論に沿う部分も見られ、現に桜井が昭和四七年三月一一日に警察官の取調べを受けていることも認められる(当書七冊一五〇四丁)が、BSは、逃走中桜井方だけではなく、同じく友人である門井了方にも潜伏しており、現に同人方において逮捕されたにもかかわらず、桜井に対する事情聴取のみならず、逮捕まで云々するBSが、門井については、何ら言及していないのであつて、捜査官が桜井についてのみ、事情聴取や逮捕を云々するとは考え難い(BSの当審証言及び上申書)うえ、そもそも、BSは、右のような重要な事柄について、原審証言においては全く触れておらず、専ら、前示服装の点から人違いされるのが怖くて奥深山らの氏名を供述するに至つたと証言するに過ぎなかつたことからすれば、BSの当審における証言は、にわかに信用し難いと言わざるを得ない。所論は採用し難い。

(7)ARの検事調書

イ 所論は、イ ARに対する中津川検察官の取調べに、私人である同人の両親が同席し自白を説得ないし勧告したうえ、ロ その際、父親により同人に暴行が加えられたが、以上いずれの理由によつても、その結果得られた同人の一連の供述には任意性が認められずまた、ハ 右イ、ロの事実は、黙秘権の侵害に当たるから、これを契機として誘発された供述は、いずれも違法収集証拠として排除されなければならない、というのである。

 当審における事実取調べの結果によれば、ARに対する父親の説得などの状況は次のとおりであると認められる。すなわち、

逮捕当時、一七歳の少年であつたARは、当初から黙秘を続けていたが、屡面会や差入れに訪れる母親や、時折訪れた父親から説得されたこともあつて、昭和四七年三月三一日には、警察官に対し、荒川方会議から本件中村巡査殺害に至るまでの経過の概要を供述するようになつていたが、なお、自己の犯行は勿論、共犯者らの氏名については一切明らかにしなかつた。同年四月三日、中津川検察官は、午後六時ないし七時ころから、広さ四畳半程度の警視庁地下取調室において、相変らず詳細については黙秘を続けているARの取調べに当たつたが、約一時間後に、同人の両親が面会に来たことから、両親と同人とを、小机の周囲に座らせたうえ、自らは母親の斜め後ろに位置し、両親を案内してきた警察官は同検察官の後ろに、検察事務官は、父親の後ろにそれぞれ座つた。ARの父親は、対面して坐つているARに対し、社会に迷惑をかけて悪いと思つているのか、どう考えるんだ、悪いと思つているならば今までの事実を説明しなさい、種々の弁解があれば説明したらどうか、救対の弁護士は解任して、父の依頼する弁護士を選任したらどうかなどと説得し、同検察官においても、時折、これに口添えしていた。これに対し、同人が明確な答えを避けていたところ、父親は突然立ち上り、同人に対し、「立て、眼鏡を取れ。」と言い、手拳で、立ち上つた同人の顔面を二、三回殴打し、かつ「お父さんを殴れるか、殴るなら殴つてみろ。」と叫んだが、同人は、「殴れません。」と言いながら、へなへなと坐り込んだ。他方、同検察官は、「殴つてみろ。」と言う父親の背後から、「こんな乱暴しちや駄目だ。」と、手でその身体を抑えるとともに、ARに対し、「親は、君のことをこれだけ思つているんだ、どうなんだ。」と申し向けた。これに対し、同人が、「親がこれだけ自分のことを思つてくれているのを初めて知つた。」などと言いながら、泣き出したこともあつて、同検察官は、取調べを打ち切り、同人を留置場に戻した。一日置いた同月五日に同検察官が再びARを取り調べたところ、同人は、中村巡査殺害の状況を供述したが、それは、同巡査を殴打した者の中に奥深山と思われる者を見かけたとか、自分も竹竿で同巡査を殴つたような気がするが判然しないということを内容とするものであつた。さらに、ARは、4・6(警)において、同巡査殺害の状況を説明し、殴打している者の中にいたとして、奥深山のほかにAの氏名を挙げたが、自己の犯行については、倒れた機動隊員に対する、竹竿による殴打を供述するに止まつた。その後、4・7(検)及び4・8(警を経て、4・9(警)に至り、初めて犯行の状況を詳細に供述し、かつ、自分もまた同巡査を殴打している者の中に参加して竹竿で殴打し、火炎びんも投てきした旨自白するに至り、引続いて、4・11、4・12各(検)、4・14(警)、4・17、4・18及び6・8各(検)が作成されたが、右のうち4・11、4・12及び6・8各(検)が原審において採用されたものである。

 以上のような事実関係を前提として、両親の面会、あるいは父親による説得ないし殴打の法的意義について考察するに、中津川検察官は、その取調べを一応中断して、両親をARに面会させ、これに立ち会つたものと解されるが、その際の周囲の状況や前示父親の説得に際し、同検察官もまた、助言していたことを併せ考慮すると、その際の出来事を取調べ中のそれに準じて考えることができないでもない。しかし、被疑者が少年である場合にあつては、その取調べに際して両親を同席させることは、法の趣旨に合致するとは言えても、これに背馳すると言うことはできない。すなわち、少年法自体には、少年の被疑事件の処理について、親権を有する親の関与を規定する明文はないが、家庭裁判所の事件の調査又は審判に関する同法一一条は、少年の保護育成と同時に、当該手続の適正の保障に資するためのものであることからすれば、その趣旨を、少年の被疑事件処理の過程すなわち捜査段階における取調べに推し及ぼし、取調べに親を同席させる取扱いをしても、同様に少年の保護育成に資するとともに、捜査手続の適正を確保する所以でもあることを考えると、これを違法視すべきいわれはなく、また、局外者の父親が少年に対して自白するよう説得したからといつて、成人の被疑者の場合における、同席した一般私人による自白の勧告、慫慂と同一視して、任意性に影響を及ぼすものと解することもできない。さらに、同席した父親が前記程度の殴打に及んだのは、未だ、少年の更生を望む余りの、父親の愛情の発露の域を出るものとは言えず、これをもつて、違法ないしは任意性に影響を及ぼすと解することもできない。現に、AR自身、当審証言において、父親の殴打が自白の切つ掛けになつたとは言うものの、自己の意に沿わないものであつたとは言わず、却つて、父親が取調室で殴るのは余程のことだと思つたとか、親に心配をかけていることに対し申し訳ないという気持になつたと述べ、父親の心痛に思いを到した、同人の、当時の心情を覗かせているのである。なお、所論には、父親の右殴打が、中津川検察官の示唆によるかの如き推論も見られるが、この点に関するARの当審証言は、母親の推測を内容とする極めて不明確なものであり、採用の限りではない。

ロ 次に、所論は、ARの4・12(検)中の、被告人星野が「殺せ、殺せ」とかすれた声で叫び、「離れろ、火炎びんを投げろ」と号令したとの供述部分、奥深山が機動隊員に馬乗りになつつ銃を捜していたとの供述部分などは、いずれもこれを認めない限り供述調書を作成しないとの、取調検察官の執拗な追及によつたものであるから、強制による供述であつて、任意性がない、と言うのである。

 しかし、ARは、荒川・三〇回において、取調官から誘導されたり、あるいはきつい取調べや脅迫されたことはないと証言し(原一五冊一六六八丁、一六七五丁、一六七七丁)星野・二回においては、一方では、本件殺害現場の状況ないし実行行為者の特定について取調べ当時も判然しなかつた旨証言する(原二七冊一〇丁)が、他方、同証言部分の直前においては、検察官の取調べ当時は自己の記憶に基いて供述したものであると肯定し(同九丁)、さらに、被告人星野の反対尋問に対し、取調官から他の者の供述している内容を聞かされたことがあるが、自分の記憶と合つているかどうか確めたところ、大体合致していた旨証言している(同六二丁)ことなどからすれば、ARの供述が強制によるものとは言えず、所論に沿う同人の当審証言は措信し難い。同証言を措信し得るとして所論の挙示する例の一、二について付言すれば、イ ARは、当審において、取調官からX44の写真を見せられて、同人が高橋(を名乗つていたの)ではないかと言われ、これを認めたところ、本件殺害現場における同人の殴打状況を執拗に追及された旨証言する。そこで、ARの捜査段階における供述を見てみると、たしかに、同人は、4・12(検)において、今度写真を見せられて、高橋の本名がX44であることが判つたとしたうえ、同人が中村巡査を殴打したことや、本件当日の同人のその他の言動を具体的に供述していることが認められる。しかし、a ARは、右に先立つ4・8(警)において、初めて高橋に関する供述をしているが、これによれば、ARは、一一月一二、一三両日に北松戸からの火炎びん運搬に携わつた際、高橋に会つたというのであり、次いで、4・9(警)において、4・12(検)と同旨の高橋の言動に関する供述をしているが、右警察調書二通では、高橋の本名がX44であることは未だ判明していないのである。また、b ARは、4・9(警)において、取調官から大坂正明の写真を見せられて同人の名前が判つたとしたうえで、同人の言動に言及しているところ、同調書の末尾には同人の写真が添付されているが、高橋の写真は右警察調書二通のいずれにも添付されていない。以上のようなARの捜査段階における供述の経過、内容からすれば、同人は、当初高橋の本名を知らず、かつ、取調官からその写真を見せられていないにもかかわらず、高橋の言動を自発的に供述したところ、その後同人の本名がX44であることが判明したものと解さざるを得ない。してみれば、ARの前記当審証言は措信し難いし、その捜査段階における供述の内容は、取調官の知り得ない事柄であつて、むしろ同供述の任意性を窺わせる資料と言うべきである。次に、ロ ARは、当審証言において、奥深山の特定に関する調書作成についても批難するが、同証言は、奥深山が中村巡査の上に馬乗りになつた旨の供述記載がなされている点に関し、同巡査の上に馬乗りとまではいかず、その傍にかがみ込んだ者を奥深山と判断したというに過ぎない(ちなみに、ARの荒川・二九回における証言によれば、同人は、奥深山が同巡査の上に馬乗りになつていたとか、その腰の辺に奥深山が腰をかがめていた旨述べている。)のであつて、奥深山が同巡査の銃を捜していたようであるとのARの結論的な目撃状況に径庭がある訳ではないのである。以上の次第であるから、同人の供述が取調官の強制によるとする所論は採用し難い。

ハ なお、所論は、ARが家庭裁判所において一時帰宅を許され、在宅のまま起訴されたことは、同人の群馬部隊における地位、A及びKとの処遇の均衡からして、余りにも寛大に過ぎる取扱いであつて、検察官の利益誘導による取調べを十分推認することができる、と言う。

 たしかに、ARが在宅のまま起訴されたことは、証拠上これを認めることができる。しかし、それが家庭裁判所による観護措置取消決定の結果と認められる(原二七冊三三丁、当供二冊六九三丁)以上、前示X1の場合と同様、所論は、家庭裁判所独自の裁量による措置を度外視したものと言うべく、ARが在宅のまま起訴されたからといつて、同事実から、同人と捜査官との何らかの取引を推認することはできない。所論は到底採用し難い(8)荒川方会議の開催日に関する供述の変遷

 所論は、前示荒川方会議の開催日が、当初X1(1・20(警)及び(検)、1・25(検))、A(2・7(警)、2・9(検))、K(2・9(検)、2・10、211、2・23各(警)等)、O(2・10(検)、2・11(警))の各供述調書において、一様に一一月八日とされ、その日時が明確ではなかつたI(2・4(検)、25(警))及び一一月七日と供述していたT(2・3、2・4各(警))もやがて一一月八日と供述が変遷し(Iにつき2・9(検)、Tにつき2・10(検))ていることは、捜査官が、右荒川方会議に出席した者らの間で、一面の発行日付が一一月八日と印刷されていた前進号外の読合わせをしたことにして、事前共謀の成立に関する証拠を獲得すべく、強力な誘導を行つたからである、さらに、捜査官は、その後、右前進号外の発行日付の誤りに気づくや、BS(3・10(検))、AR(3・31、4・6、4・8各(警、4・11、6・8各(検))に対しては、開催日を一一月七日と供述させ、K(3・24(警)、4・26(検))、O(3・11(警))に対しては、理由にもならない理由をもつて、その日時についての従前の供述を変更させているのである、これらは、いずれも捜査官により画一的かつ強力な誘導的取調べがなされたことの明らかな証左と言うべきである、と主張する。

 なるほど、関係証拠によれば、荒川方会議の開催日については、所論指摘のような供述の経過が認められる。しかし、その日時の特定が、所論主張のような捜査官の共謀成立の目論見によるものとすれば、最初にその日時を一一月八日としたX1の1・20(警)及び(検)における供述から二週間も経た時点で、なぜこれを一一月上旬あるいは中旬と供述する前示Iの2・4(検)及び2・5(警)が作成され、また開催日を一一月七日と供述するTの2・3及び2・4各(警)が作成されたかを説明することが困難となろう。さらに、右A、K及びIの各供述調書が作成された昭和四七年二月九日の時点で、なお開催日を一一月七日と供述するX43の2・9(検)が作成されていることについても、同様の疑問が生じることになる。その後、T、Oについて、それぞれ開催日を一一月八日とする各供述調書が作成されているのに、なおも、これを一一月七日又は八日とするBSの2・29(警)が作成されていることについても同様である。これらの事実に加えて、Aが、原審において、「八日だということを取調べの時から一貫して言われてきたんじやないんですか、検察官ないし警察官から。」との弁護人の問いに、「そういうことはなかつたと思うんです。」と答え、前進号外を見せられたうえ、「これ検察官の取調べの時にも見せられたでしよう。あるいは警察官の取調べの時にも。」と問われて、「見せられなかつたですね。」と答えていること(原一四冊一四五九丁)を考え併せれば、所論主張の捜査官による画一的な誘導的取調べを推認することは甚だ困難と言わざるを得ない。

 もつとも、所論は、Kが、3・24(警)(当書七冊一六五二丁以下)において、従来一一月八日と供述していた開催日を、前日の七日であると供述を変更する理由について従来は、一一月七日にカンパを求めるため、東京都在住の先輩X45方を訪ね、翌八日に荒川方会議に行つた旨供述していたが、自分の訪問した日にX45が学校へ行つていたことを思い出した、そうすると、その訪問日は平日である八日となり、従つて荒川方会議は日曜日の七日となるとの趣旨を供述している点をとらえ、右の説明では、何故、X45方を訪問した日が八日であれば、荒川方会議が日曜日の七日になるのか不明であり、このような不可解な供述変更をせざるを得なかつたことこそ、捜査官の強引な誘導を示すものであると言うのである。

 Kの2・10(警)(当書二冊四二六丁)及び2・23(警)(当書三冊六一〇丁)において、同人がX45方を訪問したのは一一月七日であり、荒川方会議に赴いたのが八日であると供述しながら、所論のような理由をもつて、その順序が変更されていることは、証拠上これを認めることができる。そこで、Kの右供述変更の理由について考えると、結局その趣旨は、X45方を訪問した日が平日であることを思い出したが、そうだとすればこれが日曜日である七日ではあり得ず、しかも右七日及び八日の前後の日である同月六日と九日の行動内容についての記憶に誤りがなければ(右3・24(警)では、この両日については何ら触れるところがない。前掲2・10、2・23各(警)によると、六日は法政大学の集会に出席し、九日は高経大におけるデモや集会に参加したとの記憶が、それぞれ明確であつたことによるものと解することができる。)、結局、平日としては、八日が残されるだけであるから、X45方の訪問日は八日となり、従つてまた、荒川方会議の開催日は日曜日の七日となる、というものであつたと解されるのであつて、格別不可解な説明とは考えられない。

 また、Oの3・11(警)(当書七冊一六六五丁)における供述変更の理由は、一一月六日夜に、荒川から、「明日は日曜日で学校にも人が居ないので丁度よい。鉄棒があるからそれを切ろう。」との指示を受け、翌七日その切断作業をしたが、その際荒川から、今夜下宿で会議を開くから参加するように、と言われ、その指示に従つて荒川方会議に参加したので、従来開催日を一一月八日と言つていたのは思い違いであつた、と言うものである。右供述変更の理由についても、これを格別不自然と言うことはできず、従つて、これらK及びOの供述の変更をとらえて、捜査官による強度な誘導があつたことの証左であると見るのは困難である。所論は、いずれも理由がない。

(二)特信情況

 原決定は、まず、本件各検事調書に関する一般的特信情況として、イ X1ら各証人は、かつて、被告人らと本件闘争を共にしたものの、原審証言の当時は、既に同種闘争から離脱し、静謐な生活に戻つていたこと、ロ 右のような状況にある証人らが、かつての指導者であり、なお現在でもいわゆる公判闘争を続けている被告人らの面前において証言するについては、濃淡強弱の差はあるにせよ、被告人らに対する遠慮、迎合、回避の気持から、少なからざる影響を受けていたと認められること、ハ 各証人の証言は、本件犯行から二年五か月ないし四年九か月を経た後になされたものであり、従つて、いずれも、事件後約二か月ないし七か月後の供述を記載した本件各検事調書に比し、記憶の鮮明さにおいて劣ることなどの諸点を指摘したうえ、さらに各証人に個別的な事情として、ニ 当該証言において、検事調書は概ね記憶に従つて作成されたものであることを認めていることあるいはホ 証人自身の被告事件に関する公判廷において、検事調書の取調べに異議を申し立てた形跡のないこと、ヘ その他、各証人の証言時の応答態度、供述状況などを挙げ以上を総合すれば、本件各検事調書には、いずれも特信情況が認められる、と判断している。

 関係証拠から明らかな、被告人らと証人らとの関係及び本件犯行において果した役割、前示のような捜査、公判等の経過などに加えて、本件各検事調書の内容、体裁、これに対する各証人の証言態度、その証言内容などを彼此考え併せると、原決定の右判断は概ね是認することができ、当審における事実取調べの結果を十分斟酌してみても、なお右判断を維持するのが相当と考えられる。

 所論にかんがみ、若干補説する。

(1)原決定が、Aの、「今日の方が(奥深山ら公判よりも)しやべりにくい。」「精神的につらい。」との証言(星野・三回)を引いて、同人に被告人らに対する気兼ねないし遠慮の気持があつたと判断している点に関し、所論は、同人は、中村巡査に対する「銃を奪え」との指示は被告人星野によつてなされたものであり、奥深山も本件殺害現場にいた旨同被告人らに不利な証言をしているとして、Aには、同被告人らへの気兼などはなかつた、と言うのである。

 なるほど、Aが所論指摘の証言をしていることは証拠上これを認めることができる。しかし同証言部分は、被告人星野の「殺せ、殺せ、やれ、殴れ。」「火をつけろ。」との指示あるいは奥深山の火炎びん投てき行為などについての証言とは異なり、いずれも直接には殺人の実行行為に結びつく類いのものではないから、さほど同被告人らに対して気兼ねをすることなく証言し得る事項と言わなければならない。従つて、被告人らに刑責を負わせる可能性の乏しい言動に関する証言をしたからといつて、Aにおいて、被告人らに対する気兼ねなどの気持がなかつたとは言えない。

 次に、所論は、原決定が、Aの「いいかげんな気持でげろつちやつて、それで迷惑かけて……切ない」との証言をもつて、被告人らに気持をよせる証言であると判断したことに対し、右は、Aが、執拗な取調官の追及を回避するために、いい加減な気持で記憶にないことを供述したことに対する後ろめたさから、被告人らに対し申訳のないことをしたというAの心情を吐露したものであつて、これを原決定のように解することは許されない、と言う。

 たしかに、Aの右証言部分は、その前後の証言内容に照して見れば、一応、所論主張のような趣旨とも解されないではない。

 しかし、その証言の直後、弁護人から、「いい加減な気持」の具体的内容を問い質されたのに対し、同人が、「そうですね、知らないことは知らないと言うべきだつたですね、と答えていることからすると、結局、同人は、被告人らに対し、原決定の言う気兼ねなどがあつて、「気持をよせる証言」をしたと認めざるを得ない。何故ならば、同人は、先に2・25(検)について説示したとおり、同調書中においては、否定すべきものは否定し記憶の確実なものと不確かなものとを明確に区別して述べ、供述の訂正までしているのである。それにもかかわらず、なお被告人らの面前では、知らないことは知らないと言うべきだつたなどと証言するに至つては、やはり、同人は、被告人らに対する遠慮、迎合の気持から、その場を糊塗しようとして、所論指摘の証言に至つたと見ざるを得ないのである(2)また、所論は、Oが、この法廷に奥深山、荒川、星野各被告人がいるので証言しにくいということはないか、と問われて、「まあとくにということはないですけれども、と答えているのであるから、同人の証言の渋滞などが、被告人らの面前であることからの遠慮や気兼ねによるものではないことは明らかである、と言うのである。

 しかし、同人の右証言部分を正確に引用すれば、「まあ特に、ということではないですけれども、」とあり、続いて、「個人的には、こういつた裁判、ここに立たされるというのは、あまり好きじやないですから。」というのであつて、その答弁全体に、まさに被告人らの面前における証言回避の傾向が色濃く滲み出ているのである。従つて、同人の右証言をもつて、同人には被告人らに対する気兼ねなどはなかつたと言うことはできない。

(3)さらに、所論は、BSについて、同人が証言の際、ことさらに記憶喪失を装つたことは明らかであり、また検察官においては、その擬装を支持し、これを奇貨として、当該検事調書提出の口実としたことが十分窺われるから、BSの「取調時点ではよく覚えていた」とか、「調書は記憶どおりに書かれている」との証言を、そのまま肯認することはできないなどと主張する。

 たしかに、BSの荒川・一五回における証言経過を見れば、当初、証言を拒否したことが認められ、間もなく尋問に応ずるようになつたが、同人の証言に至る経緯及び内容を仔細に検討してみても、到底所論指摘の擬装を認めるには由ないところである。

 また、所論は、原決定の引用する「自分で思つていることというか、言うことだけ言つて、後はどうにでもなつていいやという感じがあつた。」とのBS証言(原二八冊四一四丁は、同人の供述が記憶に基づくものではなく、自棄的になされたことを示すものであると論難する。しかし、同証言をその後の証言部分と対比すると、同人としては、自己の記憶するところ、あるいは捜査官の尋問によつて喚起された記憶に基づいて供述し、その結果は甘受しようとの趣旨であると見るのが相当である。もつとも、原決定の引用する他の部分、すなわち、「(奥深山のことに関して)自分でおかしく思われても、自分で思つていることだけを言つておきたいとは思つて、なるべくやる心算でいた。」とのBSの証言部分(同四二五丁)についても、原決定は、検察官の取調べに対し、自分の記憶に基づいて、記憶どおりに述べたという趣旨の証言として引用しているが、同証言自体の文脈及び証言経過と対比して考えると、原決定が右趣旨の下に引用したのには疑問があるが、同人は、原決定の指摘するように、右証言の直前においても、「嘘だと思つて言つたというのはないと思う。」(同四一五丁以下、とくに四一六丁)とか、検事調書が作成された当時は覚えていたのか、との問いに対し、まだ日が浅かつたので覚えていたと思う旨答え、あるいは、検察官には記憶のとおり述べたのか、と問われたのに対し、これを肯定している(原一一冊四四九丁四八九丁)のであつて、これらからすれば、同人の検事調書は、当時の、自己の記憶に従つて作成されたと認めるに支障はないと言うべきである。

 本件各検事調書の任意性及び特信性についての所論及びこれに対する当裁判所の判断は以上のとおりであるが(なお所論は、Oの2・15及び4・11各(検)における供述中、一一月一三日午前のコース打合せに関する事項は、同人の原審証言の際には何ら触れられておらず、いわゆる相反部分とは言えないから、同供述部分には証拠能力がないとも主張する(弁趣第一点、趣意書七九頁、八〇頁)が、右打合せに関する事項は、同日午後のコース下調べに関する事項と密接不可分の関係にあり、後者について、同証言は記憶がないとするのであるから、前者についての供述部分に証拠能力がないとは言えず、所論は採用し難い。)、さらに、所論に鑑み、全記録を精査してみても、右任意性及び特信性に疑問を抱くべき形跡は何ら存在しない。論旨は理由がない。

2 ビデオテープ等の証拠能力(荒趣第五点の一)

 所論は、要するに、原審は、テレビニユースの映像を録画したビデオテープ二巻(当庁昭和五五年押第一四七号の符号7)及びその映像の一部を静止写真化した司法警察員X14作成のテレビニユース画面写真帳二冊(以下写真帳と言う。)を証拠として採用する旨決定し、かつ、これらを原判決「証拠の標目」欄に挙示して有罪認定の用に供しているところ、イ 報道目的で製作されるテレビニユース用フイルム(以下テレビフイルムと言う)は、報道各社が競つてセンセーシヨナルな効果を期する余りおよそ客観性に乏しく、撮影者及び編集者の主観的意図に基づく選択を経ているものであり、それ故、これを証拠として採用するには、撮影者及び編集者を証人として反対尋問によるテストを受けさせることが不可欠であるのに、何らかかる手続を履践しておらず、ロ テレビフイルム自体を提出することに伴う諸種の困難を回避し、その映像を録画したビデオテープ及び写真帳によつてテレビフイルム自体を取り調べたと同一の目的を達しようとの姑息な立証手段を許容するものであるが、そのことは、a 右テレビフイルムが唯一無二の立証手段と言えないことに鑑み、博多駅事件についての最高裁判所昭和四四年一一月二六日大法廷決定(刑集二三巻一一号一四九〇頁)の説示する限度を逸脱し、憲法二一条の保障の下にある報道の自由ないしはこれと密接に関連する取材の自由を侵害するものと言わざるを得ず、また、他面において、b 番組製作者の著作権をも侵害する結果を招来しているのであるから、原審には、違憲違法な証拠決定によりこれらの証拠を採用し、かつ、これらを採証の用に供した訴訟手続の法令違反があり、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである、と言うのである。

 案ずるに、本件写真帳は、本件ビデオテープの映像の一部の写しであり、また、本件ビデオテープは、テレビフイルムを放映したテレビ映像の写しであるから(これらの作成過程については、後述する。)、これらの証拠能力を論ずるに当つては、まず、1 その原本に相当するテレビフイルム(ないしはその映像)自体の証拠能力につき検討し、然るのち、2 原本に代え、その写しを証拠とすることの可否につき考察を加える必要があるものと言うべきである(所論イロは、略右12の論点と対応するものと考えられる。)。以下、これらにつき分説する。

(一)テレビフイルム及びテレビ映像

 テレビフイルムないしはこれを放映したテレビ映像については、供述代用書面の場合におけると同様、その収録内容(撮影対象)自体及びその収録、再生過程(撮影、現像、放映)のそれぞれにつき、伝聞証拠性の有無を検討すべきである。

 テレビフイルムの撮影対象は千差万別であつて、それが、口頭又は文書図画等による人の供述である場合と、非供述的な物、場所、事象(自然現象などのほか、人の動作、行動をも含む。)などである場合とが考えられる。本件テレビフイルムの場合、その撮影対象は後記のとおり明らかに非供述的な事象であるから(但し、字幕及び音声による説明部分を除く。これについては後述する。)、これが伝聞的要素を含むものでないことは言うまでもない。

 次に、テレビフイルムへの収録、再生過程を検討すると、これらはすべて光学的、化学的原理に基づき機械的に処理されているのであつて、そこに人為的な操作ないし過誤を容れる余地はなく、伝聞的要素の含まれない非供述過程と認めるのが相当である。所論イは撮影者及び編集者の主観的意図に基づく選択の介入を云々する。たしかに、長時間、広範囲に亘つて生起した一連の事象を細大洩らさず撮影し、これをすべて放映することは、テレビニユースの性格に照らし不可能に近く、撮影対象の選択、撮影済みフイルムから放映すべき画面の選択、構成などに際し、撮影者及び編集者の主観的判断の働く余地がないとは言えない。しかし、そのことと、放映された特定のテレビ映像の収録、再生過程に伝聞的、供述的要素が含まれないこととは、別個の次元に属することである。もし、長時間、広範囲に亘つて生起した一連の事象の一部の映像によつて、放映されなかつた部分を含む当該事象の全貌を立証しようとするのであれば(そのような立証趣旨は、当該映像の証明力の及ぶ範囲を逸脱するものである点は別論としても)、撮影、編集に際しての選択が適切になされたか否かをテストする必要があるものと言い得よう。しかし、放映された映像を、当該画面に映し出されている限りの事象の存在、態様等の立証に用いる限り(本件はまさにその場合である。)、映されている映像は現実の忠実な再現であり、その収録、再生過程の伝聞性は否定される。もとより、かかる映像といえども、特殊な効果を意図して画面に加工したり、ことさらに時間的順序を逆に編集したりする可能性が絶無であるとは言い難い。しかし、正確な報道を目的とするニユース番組においては、そのような可能性は一般に考えられないところであり、証拠調べの結果疑義を生じた場合に、撮影者又は編集者を喚問すれば足りることである(本件ビデオテープを精査しても、右のような疑義は生じない。)。

 以上のとおり、本件テレビフイルムないしはこれを放映したテレビ映像は、その撮影対象、収録、再生過程のいずれの面からしても、非供述証拠と解するのが相当であり、その撮影者又は編集者を証人として取り調べるまでもなく、要証事実との間に関連性を認め得る限り、その証拠能力を肯認して妨げないものである。そして、本件映像が要証事実との間に関連性を有するものであることは、後記写真帳に収録された部分からも明らかと言わなければならない。

(二)ビデオテープ及び写真帳

 関係証拠により、本件ビデオテープ等の作成経過を見ると、以下のとおりである。すなわち、イ 本件ビデオテープは、警視庁公安部公安総務課所属の警察官X13、同X14、同X15の三名において、一一月一四日午後四時四五分ころから同日午後一二時ころまでに放映されたNHKテレビ、日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビ及びNETテレビの各テレビニユース番組のうち、当日行われた沖縄返還協定批准阻止闘争に関する部分を、右総務課内に設置した二台の磁気録画装置を用いて、正確に録画したものであり(但し、NHK関係分は証拠として提出されていない。)、また、ロ 本件写真帳は、右X14において、本件ビデオテープをテレビ受像機に再生し、その映像のうち、主としてa

炎上している神山派出所及びその付近における本件集団の状況を映した場面、b 中村巡査が本件殺害現場路上に俯伏せに倒れ、その衣服等が燃えている状況を映した場面、c

同巡査を他の機動隊員が救助している状況を映した場面を、それぞれ写真機によつて撮影した静止写真四四葉(第一冊が二九葉、第二冊が一五葉)によつて構成されている。

 右に見たように、本件ビデオテープはテレビ映像の写しであり、写真帳は、ビデオテープの映像の一部を収録したものであつて、原本たるテレビ映像の写しの写しとしての性格を有することが明らかである。

 原本たるテレビ映像の証拠能力については、(一)で詳論したところであるから、ここでは、原本に代え、写しを証拠として提出することの許容性について検討する。問題は、イ 写し一般(その作成過程に伝聞的要素を含むものを除く。以下同じ。)の許容性と、ロ テレビニユースの映像の写しであることに伴う特殊な論点(所論ロの冒頭部分は前者同abは後者に属する。)とに分けられる。

 まず、イ 写し一般を許容すべき基準としては、a 原本が存在すること(さらに厳密に言えば、写しを作成し、原本と相違のないことを確認する時点で存在すれば足り、写しを証拠として申請する時点まで存在することは不可欠の要件ではない。テレビ映像の如きは、放映とともに消滅する。)、b 写しが原本を忠実に再現したものであること(原本の完全な複製である必要はなく、立証事項との関連において、その必要な性状が忠実に再現されていれば足りる。)、c 写しによつては再現し得ない原本の性状(たとえば、材質、凹凸、透し紋様の有無、重量など)が立証事項とされていないことを挙げることができる。以上に反し、d 原本の提出が不可能又は著しく困難であることを、写しの許容性の基準に数える必要はない。蓋し、それは、最良証拠の法則ないしは写し提出の必要性の問題であるに過ぎないからである。

 本件ビデオテープ及び写真帳は、前示作成経過及び作成に用いられた機器の性質に鑑み右abの要件を充たすものであることは明らかであり、また、その立証事項が右c掲記のような原本の性状に亘るものでないことも当然である。従つて、テレビフイルムないしはこれを放映したテレビ映像の写しとして、これらを提出することは、写し一般の許容基準に合致するものであり、そのことを目して、原本の提出に伴う諸種の困難を回避するための姑息な手段と極めつける所論(前記所論ロの冒頭部分)は、いわれのない非難をなすものと言わざるを得ない。

 次に、ロ 本件ビデオテープ等がテレビの報道番組の映像の写しであることに伴う特殊な問題につき考察する。所論は、a 博多駅事件に関する最高裁判所大法廷決定を援用して、本件テレビ映像が本件の立証上唯一無二の証拠ではないのに、その写したる本件ビデオテープ等を取り調べることは、右決定に示された限度を逸脱して、憲法二一条の保障の下にある報道の自由ないしこれと密接な関連を有する取材の自由を侵害することとなると主張する。しかし、所論大法廷決定は、裁判所において、報道機関に対し、一部未放映の分を含むテレビフイルム原本の提出命令を発する場合における許容基準について判示したものであつて、捜査機関において、放映されたテレビニユースの映像を録画したビデオテープ及びこれに基づいて作成した写真帳の取調べ請求がなされた本件とは、全く事案を異にする。判例の事案においては、未放映分を含むテレビフイルム原本の強制的取得が、報道の自由等との牴触の契機を含むものであるが故に、両者の調整が問題となつているのであるが、本件の場合、偶々テレビフイルム原本を入手したと同様の立証上の効果があつたとしても、それは写しの性格に由来するものであり、入手の方法に強制の要素はいささかも含まれていない。また、放送事業者において、撮影対象者との関係を含め、放映による得失を十分検討したうえで、何人が、如何なる目的で視聴するものであるかを問わず、広く公衆に直接受信させる目的で映像を放映したものである以上、これを受信した側において限られた目的の範囲でその録画を使用したとしても、そのことにより、将来の取材の自由が妨げられ、ひいて報道の自由が侵害される結果を招来するものでないことも、多言の要を見ない。叙上の如く、本件ビデオテープ等の取調べが所論報道の自由等と牴触する虞れはなく、従つて、その取調べを、他に適切な証拠がないような場合に限つて許される、補充的なものと解すべきいわれはない(ちなみに、所論は、ビデオテープの証拠能力を認めて採用決定をしながら、敢えてこれを事実認定の用に供しなかつた下級審の裁判例のあることを指摘し、原審にはかかる配慮すら欠けていると論難するが、適法に証拠調べをした証拠を事実認定の用に供すると否とは、事実審裁判所に委ねられた自由心証の問題であるから、適法な訴訟手続の法令違反の主張と見るに由ないところである。)。また、所論は、b 各放送会社に無断で録画することは、著作権法に違反するものと主張する。所論は、何人の、如何なる著作権法上の権利を侵害することになるのか明言するところがないが、テレビニユースのためのテレビフイルムが思想又は感情を創作的に表現した著作物に当たらないことは当然であるから(著作権法二条一項一号、一〇条)、これにつき著作者人格権及び著作権(同法一七条一項)を認めるに由なく、著作隣接権としての放送事業者の権利(同法九条、九八条ないし一〇〇条)が問題となり得るのみである。放送事業者は同法九八条により、「その放送に係る音又は影像を録音し、録画し、又は写真その他これに類似する方法により複製する権利を専有する」ものとされているが、その権利は、同法一〇二条、四二条によつて制限され、「裁判手続のために必要と認められる場合(中略)には、その必要と認められる限度において、複製することができる」ものとされているのであつて、本件テレビニユースの映像を録画し、写真によつて複製したことは、右の「必要と認められる限度」をこえるものでないことはもとより、前記のように本件映像が既に広く公衆に直接受信されたものであること並びに複製の部数及び態様に照らし、同法四二条ただし書所定の、放送事業者の「利益を不当に害することとなる場合」にも当たるものでないことは明らかである。従つて、本件ビデオテープ等の作成が、放送事業者の著作権法上の権利を侵害するものとは言い得ない。

(三)まとめ

 叙上縷説のとおり、本件ビデオテープ及び写真帳は、その撮影対象及び収録、再生の過程から見て非供述証拠であり、かつ、要証事実との間に関連性の認められる、テレビニユースの映像の写しであつて、写し一般が証拠として許容されるための要件を充たしておりまた、その取調べによつて報道機関ないし放送事業者の憲法上及び著作権法上の自由ないし権利を侵害するものとは認められないから、証拠能力を有する適法な証拠と解するのが相当であり、従つて、原審がこれを証拠として採用し、有罪認定の用に供したことに何ら訴訟手続の法令違反はない。

 なお、所論は、本件ビデオテープには、字幕及び音声による説明が含まれているから、全体として証拠能力がないと言う。右説明は、原本たるニユース映像そのものに含まれていたものであつて、たしかに供述証拠として伝聞法則の適用を受けることとなる。原判決は右説明部分を除外する旨を明示してはいないが、本件のように、右説明部分を除いた映像と、原判決挙示のその余の証拠とを総合して優に原判示事実を認めることができる場合にあつては、特に明示していなくても、原判決はこれを除外して映像だけを証拠とした趣旨と解するのが相当である。

 論旨は理由がない。

3 中村巡査の死因に関する審理不尽(弁趣第四点の二)

 所論は、要するに、中村巡査は、本件当日午後三時二〇数分過ぎに受傷し、翌一五日午後九時二五分ころ火傷により死亡したものであるところ、熱傷治療の場合、受傷面の処置と同時に、全身管理(呼吸管理、循環管理)が重要であり、同巡査の治療については、これらの点に不手際があつたのではないかと考えられ、そうだとすれば、右火傷と死亡との間には相当因果関係はなく、被告人両名は単に傷害罪の刑責を負うに過ぎず、弁護人としては、この点を明らかにすべく、証人尋問を請求したのに対し、原裁判所は、これを却下し、同却下決定に対する異議申立もまた棄却したが、右審理不尽は判決に影響を及ぼすことが明らかである、と言うのである。

 しかし、X1 6作成の鑑定書、同人及びX1 2の原審各証言によれば、以下の事実を認めることができる。すなわち、

1 熱傷による皮膚所見の程度としては、イ 第一度(皮膚に発赤が認められた場合)ロ 第二度(皮膚に水泡が形成された場合)ハ 第三度(皮膚、皮下組織等が熱のため壊死に陥つた場合)ニ 第四度(組織が炭化した場合)の四段階があるところ、現代医学の知識をもつてしては、熱傷死の機序は必ずしも解明されているとは言えないものの、通常、熱傷によつて組織が崩壊し、蛋白質の分解物が体内に吸収されて腎臓、肝臓等の臓器に損傷を与え、死亡に至ると考えられており、他方、臨床医学上は、体表面積の約三分の一が熱傷第三度の場合または同面積の約二分の一が熱傷第二度の場合には、生命の危険性があり、さらに気道熱傷を合併している場合には、予後に重大な影響があると考えられている2 ところで、中村巡査の熱傷は、体表面積の約六〇パーセントに及び、そのうち第三度及び第四度の部分は、熱傷面積のそれぞれ約三〇パーセントを占めていた。

3 中村巡査は、本件当日午後四時ころ東京警察病院に収容され、熱傷担当医X1 2が診察に当たつたが、同巡査は、当時イ 血圧が低下し、脈膊が増加して意識が朦朧とした、いわゆるシヨツク状態と、ロ 呼吸困難の症状を呈し、また、ハ体動が著明であつた。

4 そこで、X12医師は、イ 前記3イのシヨツク症状が末梢循環不全によるものと考えられるところから、その治療のため、経静脈輸液(主として水分、電解質液及びコロイド液であるが、副腎皮質ホルモンの一種であるコルコーテフ、抗生物質、利尿剤、ビタミン剤強心剤も随時使用されている。)を行なつて、循環血液量の回復等を図り、ロ 初診時に気管熱傷の疑いもあつたところから、前記3ロの呼吸困難に対処するため、同巡査に対して気道切開術を施すとともに、同人を酸素テントに入れ、ハ 前記3ハが痛みに基因するところから、鎮痛剤を投与したが、ニ 右イロの処置は、翌一五日午後九時五分同巡査の呼吸停止に至るまで続けられ、同ハの鎮痛剤は、その痛みに応じて施用された。ホ その結果、中村巡査の血圧は、輸液開始後一五〇/一一〇(収縮期/拡張期の順に表記する。以下同じ。)、九八/六〇、一二八/八二、一四〇/八〇と推移して一応の落着きを保ちまた、翌一五日午前六時一五分ころには、同巡査は、一時口の痛みや渇きを訴える程度の意識をとり戻すようになつた。ヘ ところで、X12医師は、中村巡査の排尿の量、血尿の有無が腎臓に損傷がなく、その機能を保持しているか否かの診断に重要な関係を有するところから、これに留意しつつ、同日午前零時以降三回の排尿(入院当日は排尿がなく、翌一五日になつて、午前零時に九〇CC、午前九時に五五CC、午後五時に三〇CCの排尿があつた。)後、その都度これを検査したところ、いずれも赤血球が認められ、いわゆる血尿であることを確認したが、右尿量推移及び血圧の存在から、熱傷毒による腎臓の機能障害を疑わざるを得ない状態となつた。ト また同医師は、中村巡査の前記のような無尿ないし乏尿から、輸液の量を多目にしたが、それが適量を超えると肺水腫の危険があるため同日午後六時及び同七時の二回にわたり内科医の診察を求めるなどして、輸液が適切に行われていることを確かめた。チ 他方、中村巡査は、前記のとおり、酸素テントに入れられたまま治療を続けられたところ、気管切開部から出血があつたため、X12医師は、同巡査の気管ないしは肺臓の損傷があるのではないかとの疑問をも持つたが、同巡査は、一五日午前五時四五分には呼吸が激しく荒い状態(呼吸数三八)であり、同一〇時には脈膊が弱く呼吸速迫で、血圧の測定は不可能な状態であつた。同日午後六時の前記内科医の診察の際には、喘息様所見があつた。リ その後中村巡査は、一五日午後七時に脈膊数一四〇、呼吸数四〇、同八時には脈膊数一四五、呼吸数五〇で、体温も上昇して容態が悪化したがX12医師としては、それまでに採るべき措置は採り尽くし、いかんともし難い状況であつたヌ その後同巡査は、同日午後九時五分に呼吸停止し、人工呼吸を施されたが、五分後に心臓停止し、さらに強心剤の注射等の措置が採られたものの、結局同日午後九時二五分その死亡が確認された。

5 翌一六日慶応大学教授X1 6は、検察官からの嘱託によつて中村巡査の死因等の鑑定に当たり、鑑定書を作成したが、その要点は次のとおりである。すなわち、イ 中村巡査の熱傷の部位、程度は、a 前頭部、顔面部、頸部、左側背部、背部右側、腰部、左右上下肢及び陰部において、第二度ないし、第四度であり、b 上胸部は第二度、下腹部及び臀部は、いずれも第二度及び第三度である。ロ 咽頭粘膜は、灰白色を呈し、熱凝固に陥り、粘膜は剥離することができ、淡鮮紅色の粘膜下組織を露出する。ハ 肺臓には、高度のうつ血及び気腫がみられる。ニ「死因は火傷死」であつて、右イのabの火傷の共同によつて死亡に至つた、とされている。

 以上認定の諸事実によれば、中村巡査は、火傷によつて死亡したものであつて、所論指摘の呼吸管理、循環管理のいずれにおいても、X12医師の不手際を疑うべき点は存在しないすなわち、熱傷を負つた中村巡査は、それが体表面積の約六〇パーセントという広範囲のものであり、かつ、熱傷面積中約三〇パーセントの部分が皮下組織の壊死に陥り、また同面積中約三〇パーセントの部分が炭化するという極めて重篤なものであつて、しかも前記5ロから明らかなように、気道熱傷を合併しており、一時シヨツク症状にやや軽快の兆しが見られたものの、腎臓の機能障害、肺臓の損傷から次第に衰弱悪化し、熱傷(火傷)により死亡するに至つた、と考えるのが相当である。原審において、弁護人は前記両証人に対して十分な反対尋問の機会が与えられ、尋問がなされたにもかかわらず、右両証言を含む前掲証拠には、X12医師の中村巡査に対する治療方法、その過程に疑問を抱かせるものは何ら存在しない。

 以上の次第であるから、原審が所論のようにX12証人の再尋問及び新たな証人の各申請を却下したからといつて、その訴訟手続に審理を尽くさなかつた違法があるとは言えない。論旨は理由がない。

四 被告人荒川及び弁護人の事実誤認の控訴趣意について(弁趣第一点、荒趣第二点ないし第四点)

 所論は、要するに、1 被告人荒川に関し、イ その指示ないしは関与によつて本件犯行に関する諸種の準備活動がなされたことはなく、また、ロ 同被告人は、一一月一三日(以下四及び五において単に日のみを示したときは、同月中の当該日を指すものとする。夜の中田アジトにおける全体会議の中途で退席しており、従つてその後の班長会議の際及び一四日朝には同所にいなかつたのであり、ハ 以上の経過に鑑みると、当時同被告人には、機動隊員を傷害する意思あるいは警察関係施設をの発見次第攻撃し、これを炎上させる意思はなく、ひいて同被告人と群馬部隊参加者との間には、これらに関する事前の共謀は存在しなかつた、2 被告人星野に関し、イ 国鉄中野駅における同被告人のアジ演説は、本件闘争の政治的意義を述べたに止まり、これによつて兇器準備集合、公務執行妨害傷害、現住建造物等放火に関する共同加害の目的ないしは共謀が成立したとは言えず、小田急線新宿駅における演説も同様である、ロ 原判示神山派出所前の機動隊との衝突に際し、同被告人は、右派出所の存在さえ認識しておらず、機動隊員に対する傷害の意図もなかつたのであるから、同所における現住建造物等放火や傷害についての刑責を負ういわれはない、ハ 原判示の中村巡査殺害については、同被告人の現場到着以前に、同巡査に対する殴打が開始されていたのであつて、同被告人は、殺意をもつて号令を下したことも、殴打の実行行為をしたこともなく、また同巡査に対する火炎びん投てきの指示及び実行行為をしたこともないのであるから、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、と言うのである。

 しかし、原判決の挙示する証拠を総合すれば、被告人荒川及び同星野について、原判示各罪となるべき事実をそれぞれ認めることができ(但し、被告人星野の中村巡査に対する火炎びん投てきの際の故意が未必の故意であるとする点を除く。この点については、後記認定のとおりである。)、その他原審記録及び証拠物を精査し、当審における事実取調べの結果を併せても、判決に影響を及ぼすべき事実の誤認は認められない。

 なお所論は、11・14闘争について、原判決は、その政治目的に対する判断や、右闘争についての警備方針に対する判断をいずれも回避し、かつ、同闘争の行動目的及び機動隊指揮者の中村巡査死亡に関する責任について事実の誤認があると言うが、右はいずれもその誤認が判決に影響を及ぼすことの明らかな「事実」とは言えず、単なる情状に過ぎないから、これに対する判断は、必要に応じ、量刑不当の控訴趣意に対する判断の際に示すこととし、また抵抗権ないしは超法規的違法性阻却事由に関する所論については、法令適用の誤りに関する主張として、その際に判断することとする。

 以下所論に鑑み、主要な点について補説する。

1 被告人荒川関係

(一)諸種の準備活動に関する被告人荒川の指示、関与

(1)荒川方会議

 所論は、まず、七日夜の荒川方会議(以下これを本件会議とも言う。)が行われた和楽荘は、被告人荒川の下宿先ではない旨主張する。しかし、高橋孫市(原判決に孫一とあるのは誤記と認める。)の(警)、奥深山の(警)(2・19)及び同人の荒川・六八回における供述によれば、昭和四六年四月ころから翌四七年一月ころまでの間被告人荒川が原判示和楽荘に居住していたことを認めることができる。所論指摘の住民票除票は、同被告人が昭和四四年八月二五日高崎市上並榎町一三一二番地塚越基陽方に転入した旨届け出たが、同四八年一一月一日住民実態調査の結果同所に同被告人が居住していないことが判明したため、同四九年二月九日これを職権抹消したというのであつて、前掲各証拠と対比すると、これをもつて同四六年四月以降同四七年一月までの間同被告人が右塚越方に現実に居住していたとするには由ないところであり、前示認定と何ら矛盾するものではなく、また、原審証人X 40の証言及び同被告人の供述は右認定に照らし信用し難い。

 次に所論は、本件会議の主宰者が被告人荒川でないことは、同被告人が同会議に遅刻したことから明らかであると主張する。しかし、BS(星野・六回)、I(荒川・一八回、星野八回)、K(荒川・一九回、同二一回)、X1(荒川・二三回)の各証言及びBS(3・10)、I(2・4、2・9)、K(2・9、4・26)、X1(120、1・25)、O(2・10)の各検事調書によれば、被告人荒川が本件会議に終始出席していただけではなく、奥深山とともにこれを主導したことを認めることができ、右認定に反するTの(検)(2・10)等は措信し難い。とくにIの証言(荒川・一八回)によれば、同人が被告人荒川方へ行つたのは午後六時か七時ころであるが、会議は大分経つてから始まつた(原一一冊五八四丁)というのであり、また、同人の検(2・9によれば、集りが悪くて、会議が開催されたのは午後八時ころである(原四一冊一七三二丁)というのであるから、同被告人が他の会合のため午後七時過ぎに和楽荘に帰つて来たとしても、これをもつて原判決の事実認定に誤りがあるとは言えない。

 また所論は、本件会議に被告人荒川が五日付「前進」号外を配付したことはない、すなわち「前進」の印刷される東京から高崎への配送関係及び五日、六日の両日における同被告人の行動から考えると、七日の同会議に右号外が配付されることはあり得ないと主張する。しかし、「前進」号外(当庁昭和五五年押第一四七号の一)並びにK(荒川・一九回)及びAR(荒川・二八回)の各証言によれば、これと同一の号外が本件会議の際出席者に配付されたことを認めることができる〔もつとも同号外の表面の日付は八日と印刷されているが、その曜日の表示は金曜日となつており、他方、裏面の日付及び曜日は五日(金曜日)となつていること、同号外及び定期発行の八日(月曜日)付「前進」(前記同押号の四)の記事内容(同号外には渋谷周辺図が掲載されており、右定期発行の「前進」には、「本紙号外で「渋谷周辺図」の概略を示したのはダテではないのだ」との記事が掲載されている。)及び広告(「日本帝国主義の危機とマル生運動」と題する書籍の発売広告が両紙に掲載されているが、前者の号外では「11月6日発行予定」となつているのに、定期発行の後者では「発売中」となつている。)を対比検討すると、同号外が定期発行の八日付「前進」より以前に発行されたものと考えざるを得ないこと等からすれば、同号外は五日付発行と認めるのが相当であり、従つてそれが本件会議に配付された旨の前示認定と矛盾するとは言えない。〕。この点に関しAは、その証言(荒川・二四回、同二八回及び(検)(2・9)において、七日朝被告人荒川から呼ばれて高経大の自治会室へ行つたとき(Aは八日ころとして供述するが、関係証拠により七日の出来事と認められる。、右号外があつた旨供述しているのであつて、同供述は前示認定を裏付けるものと言うべく、これに反する同被告人の供述は信用し難い。

 さらに所論は、原判決が被告人荒川の本件会議における発言として認定判示する部分は証拠の取捨、判断の過程を誤つたものであると言い、種々論難するので、この点について判断する。すなわち、イ まず所論は、原判示同被告人の発言中、「沖縄返還協定の批准を阻止するためには」云々、「機動隊は国家の手先であつて」云々とある部分は、X1の検事調書を根拠とし、これを適宜抜萃したものであるが、同調書は、右供述部分に引続いて、同被告人が「その方法については、なるべく残酷に苦しませて殺せ。鉄パイプで乱打し、気を失つたところを竹槍で刺したり、火炎びんを投げるのだ、私服を見つけたら殺せ、自警団も抵抗する者は殺せ」との激越な発言をした旨の供述記載があつて、全体として信用し難いものであるにもかかわらず、その一部を採つてこれを事実認定の用に供したのは誤りである、と主張する。たしかにX1の(検)(1・25)中には、所論のような殺害方法についての供述記載があり、右部分は、他の関係者の供述と対比すると、竹槍云々に見られるように、特異なものがある。ところで同女は、原審において、本件会議の際本件闘争の意義について「前進」の記事と同じことが話された旨(原一三冊一〇四〇丁及び竹槍も竹竿も竹で作つているから同じだと思つた旨(同一二五四丁)それぞれ証言している。そしてBS(荒川・一七回)、K(荒川・一九回、同二一回)、AR(荒川・二八回)の各証言によれば、同会議では五日付「前進」号外が配付され、これを回し読みしたうえ、被告人荒川から、「前進」の記事に沿つた話がなされたことが認められるところ右号外、昭和四六年一〇月二五日付「前進」(前記同押号の二)及び一日付「前進」(同押号の三)によれば、原判示認定と同旨の暴動の意義に関する記事のほか、「われわれは機動隊との「死闘」を鮮明にさせ、機動隊を一人でも二人でも多く、それもできるだけ徹底して恥多き死に方をさせてやらなければならないのだ。」との記事や、私服刑事、自警団等に関する記事(一日付「前進」)あるいは「人民の敵・機動隊・デカ、自警団らを……撃滅せよ」との見出し(前記号外)があることからすれば、X1の検事調査中の供述は、これら「前進」の記事と一致する限度において措信するに足りるものと言うべく、従つて原判決が、同調書中の竹槍と竹竿とを同視して供述した、特異な殺害方法に関する部分等を排斥し、右「前進」の記事によつて裏付けられる本件闘争の意義及び「機動隊を一人でも多く殺せ。」との供述部分を採つて判示したのは、着実な認定を期したものとして首肯するに足り、所論は採用し難い。ロ 次に所論は、原判示被告人荒川の発言中、「今度の闘争は今までのようなカンパニア闘争ではない」云々、「爆弾、鉄パイプ、火炎びんスパナなどあらゆるものを武器に使つて」云々、「今までの六・一七の爆弾にしても」云々とある部分は、Oの(検)(2・10)に基づくものであるところ、同調書には、右供述に引続いて、「爆弾については、もう準備されている」との記載があり、全体として信用し難いものであるにもかかわらず、その一部を採つて恣意的な認定をしたものであつて、事実誤認である、と言う。しかし原判決が、「九月三里塚闘争で機動隊を殺した闘いの一〇〇倍」云々との部分を除いた、その余の被告人荒川の発言として判示する部分は、いずれも前示「前進」の記事と符合するものであり、この点に関するOの検事調書が信用し難いとは言えない。とくに一日付「前進」によれば、その二面及び三面において、「11・14全国総結集・首都大暴動」との見出しを掲げたうえ、「東京大暴動宣言」との意見を表明している。同宣言は、「「返還協定」批准を施行せんとする機動隊を根幹とする態勢と、それに連らなるブルジヨア階級の全ての所有物は、一一・一四東京大暴動で爆砕され、焼き尽され、破壊し尽されねばならない。」「武器を持ち首都東京の戦場におもむくためには全ての戦士が自らの最も得意とする武器を直ちに準備し、全ての戦士は、最低火炎ビンを製造する必要がある。」と述べ、同紙一面では、一一・一四の暴動の際には「六・一七〜九・一六をのりこえる機動隊せん滅を」との見出しの下に、三里塚闘争を上回る闘争を訴え、「佐藤が居残つていることこそが機動隊員が死に、爆弾と火炎ビンがとび、火の手が拡大する唯一の原因であることをこの上なくはつきりと示さなければならない。」としているのである。そしてBSは、(検)(3・10)において、被告人荒川が、「今度の闘争は、三里塚で機動隊員を三人殺した闘いの一〇〇倍位の闘争だ云々」の発言をした旨供述し、原審においても、同被告人の発言かどうか明らかではないものの、このような発言があつた旨の証言をしている(荒川・一五回原一一冊四一六丁以下、星野・六回原二八冊三三六丁以下)が、これは、「九月三里塚闘争で機動隊を殺した闘いの一〇〇倍」云々とのOの検事調書中の供述と符合するものと言わなければならない。所論は、Oの調書中の「爆弾については、もう準備されている。」との同被告人の発言に関する供述をとらえて原判決の認定を論難するが、原審は、関係証拠によつて、本件犯行の際爆弾の準備があつたとまでは認められないところから、これを認定判示しなかつたものであつて、前示イ同様着実な認定と言うべく、事実誤認とは言えない。また所論は、ARの原審証言及び検事調書中に、右一〇〇倍云々の発言に関する供述がないことをも論拠としているが、同人が本件会議における被告人荒川の発言等を遂一記憶し、かつ細大洩らさずこれを供述したとは考え難いから、所論は採用することができない。ハ さらに所論は、原判示被告人荒川の発言中、「我国を守つている唯一の柱は機動隊だから」云々との部分はIの(検)(2・9)によるものであるが、同供述はX1、Tの各検事調書等に基づいた、検察官の誘導によるものであるから信用し難い、と主張する。しかし、Iは、原審において、右検事調書が略自己の記憶に基づく供述を録取したものである旨証言しているのであつて、同人の原審証言中右認定に反する部分は措信し難い。ニ 最後に所論は原判示被告人荒川の発言中、「ここに集まつたものは共同謀議が成立するのだ、集まつたことは警察でも知つているから、闘争に参加する決意を固めるんだな」とある部分は、Oの(検)(2・10)に基づくものであるが、「集まつたことは警察でも知つている」ということと、「決意を固める」ということとは論理的関連がないなどと論難する。しかし、関係証拠のうち、AR(荒川・二九回)、K(荒川・二一回)、I(荒川・一八回)、BS(荒川・一五回、同一七回)の各証言並びにAR(4・11)、K(4・26、I(2・9)及びBS(3・10)の各検事調書によれば、被告人荒川が、種々の発言をした後、「これでここに集まつた者は全員共同謀議が成立した。」旨述べて、自己の発言を締め括つたことを認めることができるが、同時に、同被告人は、その発言の冒頭において、「私服につけられなかつたか、まわりには私服が来ている。」などと言い、「ここで話し合つているのは共同謀議だ、私服に見つかつては全部駄目になる。戦前神奈川の日共で一人が時間に遅れたため全員が捕つた例がある。これからは時間厳守してもらいたい」と本件会議に遅れて出席したTらに注意するように言つたことが認められ、右認定に反するBSの原審証言の一部、X 34、X 40の原審各証言並びに奥深山及び被告人荒川の原審各供述等はたやすく信用し難いところである。してみれば、Oの(検)(2・10)中に、被告人荒川の発言に関して原判示に沿う供述があることは所論のとおりであるが、同供述を右認定事実と対比すると、同被告人において、その発言の冒頭と結びの二回にわたつて、共同謀議云々の発言をしたことから、Oの記憶に混乱を生じ、その結果不正確な供述がなされるに至つたものと考えるのが相当である。従つて、「集まつたことは警察でも知つているから」云々との原判示後段部分は誤認と言うべきであり、同被告人の発言内容自体に不合理な点はない。

 なお被告人荒川は、原判決は、いわゆる群馬部隊について、これを中隊と認定しないかの如く判示しながら、他方では中隊云々と判示している部分及び具体的な班編成に関する部分の認定に誤りがあると言う。しかし前者については、関係証拠によれば、中隊編成がなされたものと認められるところ、原判決は、これを前提として、便宜群馬部隊と呼称することとしたに過ぎないものと解され、また後者については、関係証拠を対比して検討すれば、原判示のような班編成がなされたと認められるから、右主張はいずれも採用できない。

(2)中田アジト及び笹塚アジトの準備

 所論は、原判決が、群馬部隊の在京中のアジトとして東京都目黒区上目黒二丁目一三番五号中田ビル五階五号室(前示中田アジト)を、また同部隊の武器等の保管場所として同都渋谷区笹塚二丁目四一番一一号飛山方(以下笹塚アジトという。)をそれぞれ被告人荒川が用意し、確保した旨判示したのは、Kの(検)(4・26)に基づくものであるが同調書は、その内容自体単なる推測に基づく供述に過ぎず不明確なものであり、同被告人を起訴するため捏造されたものであつて、いずれにせよ信用し難いから、右認定は事実誤認であると言う。しかしKの同調書は、所論にもかかわらず、同被告人の話の内容を具体的に供述しているのであつて、単なる推測とは言えないし、また、前示三の1の(一)の(4)のロのCからすれば、これが捏造されたものとも考え難い。特に中田アジトについては、右供述に符合する奥深山の原審供述(原二五冊四七九〇丁)があるほか、AR(4・11)、I(2・9)、BS(3・10)、X1(1・25)の各検事調書によれば、一〇日高崎から上京した群馬部隊に属する同人らは、同被告人の案内で中田アジトへ赴いたことが認められるが、この事実は、Kの前記供述を裏付けるものであつて、同人の検事調書は十分信用するに足り、原判決の事実認定に誤りがあるとは言えない。

 なお被告人荒川は、一〇日夜中田アジトで、原判示のような、「前進」の読合せをしたことはない旨主張するが、Kの証言(荒川・一九回)並びに同人及びX1の右各検事調書によれば、読合せの事実が認められるから、右主張は採用し難い。

(3)一一日の状況

 所論は、まず原判決は、被告人荒川が国鉄新橋駅で会つたARらから、奥深山とともに購入物品の具体的内容について報告を受けたと認定しているが、同被告人はそのような報告を受ける立場になく、また現実に報告を受けたこともない、と主張する。たしかに、当日工具類や爆竹、パチンコ等を購入したのはAR、Kらであり、タツパーウエアー、ナツプザツク、さらし、衣類等を購入したのはI、X43らであることが関係証拠によつて認められるところ、K(2・9、4・26)、I(2・4、2・9)の各検事調書によれば、同人らが購入物品の報告をしたとの供述は存在せず、他方ARの(検)(4・11)によれば、同人が被告人荒川と会つた場所は国鉄品川駅であり、また購入物品については奥深山に対して報告した旨の供述となつているこもは、所論のとおりである。しかし右各調書によると、AR、Kらのグループについて言えば、購入すべき工具類等を記載したメモ及びその代金はARが受け取つていること、一一日夜の集会の行動報告において同人が代表して右購入物品関係の報告をしていること(Aの2・9(検)は、これを裏付けている。)がそれぞれ認められることからすれば、ARが少なくとも工具類等の購入責任者であつたことを窺うことができる。そして同人は、荒川・二九回において、被告人荒川に対し購入物品の報告をした旨証言している(原一五冊一五七〇丁。ARが右報告をした場所を品川駅である旨供述するのは、同人の記憶違いと認められる。)のであるからARが、奥深山のほか、被告人荒川に対しても購入物品の報告をしたと考えるのが相当である。

 次に所論は、原判決が、一一日夜被告人荒川は、奥深山とともに、中田アジトにおいて渋谷付近の下見の指示をしたと判示しているが、同被告人は、当夜中田アジトに帰らなかつたのであるから、右指示をしたことはない、下見の報告が奥深山に対してなされた事実はその証左である、と言う。たしかにBS(3・10)、T(2・16)、I(2・9の各検事調書によれば、渋谷周辺の下見は奥深山の指示によるものであつた旨供述している。しかし、イ Iは、2・4(検)においては、被告人荒川の指示によるものと供述し、荒川・一八回において、指示は被告人荒川からなされたと思うと証言し、奥深山ではないかと反問されるや、分らないと答えるとともに、下見の結果は奥深山に対して報告したとしており(原一一冊五九八丁以下)、荒川・二〇回においては、同被告人の反対尋問に対し、下見の時には同被告人と奥深山とがいたと思うが、何方から指示されたか判然しない旨証言し(原一二冊八五八丁)、ロ Aは、(検)(2・9)において、一一日夜の中田アジトにおける集会の終りころ同被告人が来て、奥深山とともに下見の指示をした旨供述しており、他方荒川・二四回においては、奥深山から指示され、結果の報告も同人にした旨証言しているが、荒川・二八回において、弁護人の「(検察官から、)一一日中目黒に荒川がいたろう、いなければおかしいと言われたのではないか。」との反対尋問に対し、「そういうことはなかつたと思う。」旨証言しており(原一四冊一四七七丁)、他方、ハ Iの前記2・9(検)によれば、一二日朝七時ころ、同被告人が中田アジトに怒つた様子で飛び込んで来て、奥深山に対し、「夜中の二時に帰つて来たら、鍵をしめたままだし、叩いても起きない。」などと言つていた、と言うのである。してみれば、同被告人が一一日夜再度外出したため、右指示に関する関係者の記憶に混乱を生じたものと考えるのが相当である。以上にX1の(検)(1・20、1・25)二通を併せ考えると被告人荒川は、一一日夜集会の終りころ中田アジトに帰つて奥深山とともに下見の指示をしたものと認められる。従つて、下見の結果報告が奥深山に対してなされたとしても、何ら不自然な点は存在しない。

(4)一二日の状況

 所論は、イ 原判決が一二日午前AR、T、N、O、Aらが工学院大学へ旗竿作りに赴いたのは、被告人荒川及び奥深山の指示によると判示し、他方では、一旦ARらが中田アジトに戻つた際、同被告人が奥深山に対して指示が徹底していないと叱責したと認定しているが、原判示のように同被告人が叱責したとすれば、ARらに対して自ら指示することはあり得ず、また、ロ ARらが同日午後工学院大学へ再度赴く際、原判決は、同被告人がIにも同行するよう指示したと判示しているが、同人のみに指示したとするのは経験則に反するなどと主張する。たしかに、イ AR(荒川・二九回)、A(荒川二四回)、T(荒川・二六回)の各証言によれば、一二日午前工学院大学へ赴く際のARらに対する指示は、奥深山によつてなされたものと認められ、これに反するX1の検事調書はたやすく措信し難い。従つて、この点に関する原判決の認定は誤りと言わなければならない。しかし、ロ 同日午後ARらが再び同大学へ赴く際、同被告人がIに対しこれに同行するよう指示したとする同人の(検)(2・4、2・9)二通が所論のように信用し得ないとは言えない。すなわち、関係証拠によれば、午後工学院大学へ赴いたのはARのほか、I、T、A、N、X1及びX43の七名であつて(ちなみに原判決は、右の中にOを含めて判示しているが、Oが午後もARらに同行したとは認め難い)、午前の場合と異り、X1、X43の女性二名が加わつており、同女ら及びAR、Tの四名は旗竿作りの後に火炎びん運搬の任に当たつたこと、右旗竿作り及びARら四名による火炎びん運搬は、いずれも中央本部からの、いわゆる定点への電話による指示に基づくものであること(奥深山は、荒川六九回において、火炎びん運搬について事前の指示ではなく、事後の連絡であつたかもしれないとも言うが、午後旗竿作りに赴く際には、午前と異なつて、右のような女性を含めた人員構成がとられていることからすれば、火炎びん運搬を前提とした、事前の指示があつたものと解するのが相当である。)、午後工学院大学へ赴いた七名中には、班長を務めていたAR、班長代理を務めていたIを除くと、責任者的立場の者がいなかつたこと、ARら四名を除く、I、A、Nの三名は同大学から中田アジトへ直接帰つたことなどが認められ、以上によれば、被告人荒川が、中田アジトへ直接帰るグループの責任者として、特にIに対して同行するよう指示したものと認めるのが相当であり、同人の前記供述が経験則に反して信用し難いとは言えない。

 また所論は、同夜同被告人が中田アジトで旗作りをしたり、同所に宿泊したことはないと言うが、Aの(検)(2・14)によれば、右事実を認めることができる。

(5)一三日の状況

 所論は、要するに、原判決が本件闘争に関し、中核派各軍団の存在とその渋谷突入計画を認定判示している部分は、Oの検事調書における、被告人荒川の話として供述するところに基づくものであるが、イ 同被告人は、そのころ中田アジトにいたことはなく、また本件闘争の具体的行動とは全く関係のない任務についていたのであるから右計画を知る由もないし、右計画に関する同被告人の話の内容とされるものも、実際の軍団の行動経路状況に反して、二〇個軍団が合流して四個軍団となるとか、品川から渋谷へ向う軍団が予定されていたなどという虚構のものであつて、同検事調書は到底信用できない。さらに、ロ 各軍団が結局下北沢駅で合流し、井の頭線で渋谷突入を図る方針であつたことは、司法警察員作成の捜査報告書や被告人星野の供述によつて明らかであるが、原審は、Oを始め、共犯者の供述にはない右方針を結果的に知つたからといつて、事前段階の方針として、これを認定したのは事実誤認である、と主張する。しかし、イについて、奥深山は、荒川・六九回において、検察官から、「その時に(一三日朝の打合せの時の意)、Oに対して、中野、新宿、渋谷へ行く部隊と、池袋、新宿、渋谷へ行く部隊、そのほか井の頭線で渋谷へ行く部隊、こういう四軍団が渋谷で合流するんだという話をしましたか。」と問われたのに対し、「したと思います。」と答えており、他方奥深山は、同公判廷において、一三日朝同被告人と打合せをしたかどうか覚えていないとか、四軍団が渋谷で合流する話は判然しないと供述するものの、奥深山自身は、群馬部隊が一四日中野駅で他と合流する予定である旨電話による指示を受けていたが、同被告人は別のルートでこのことを知つていた旨、及び一三日昼ころからO、Iらとともに、中田アジトから立川駅経由中野駅までのコースの下調べに赴いた旨それぞれ認めており、右供述とOの(検)(4・11)とを併せ考えると、一三日午前に、被告人荒川が奥深山及びOとともにコース選定の打合せをした際、中核派各軍団の存在、渋谷突入計画に関する話がなされたことを前提とし、原判決がその時点における右突入計画等を認定したからといつて、これが事実誤認であるとは言えない。ロについては、司法警察員飯塚晃作成の捜査報告書によれば、本件当日学生インターグループ及び中核派二グループが井の頭線を利用し、あるいは利用しようとしたことが窺われるが、その経路や時刻を対比して考えると、学生インターグループと右中核派二グループとが下北沢で合流する予定であつたとは考え難く、また小田急線代々木八幡駅で下車した本件集団を含む中核派の、他の三グループ(中核派では五軍団ー同報告書では、グループと軍団とが同義のものとして使用されている。ーが編成された模様であるが、同報告書は、その中の、いわゆる第二軍団について言及しておらず、他方、その記載の仕方からすれば、右学生インターグループが第二軍団であるとも解し難い。上記三グループには、右第二軍団を含む。)がどのような経路をとる予定であつたかは必ずしも明らかではないし、さらに軍団によつては、指示によつてその集合時間が屡変更されたり、また、予定の人員が集まらないうちに行動に出たり、あるいは四散した軍団もみられると言うのであつて、所論のように、同報告書に基づいて、下北沢駅で各軍団が合流したうえ、井の頭線を利用して渋谷へ突入する予定であつたと認めることはできない。この点に関する被告人星野の原審供述によれば、事前の段階では国鉄中野駅から渋谷への経路が幾つか示されていたとも言うのであるから、各軍団が下北沢で合流する予定であつたとの、同被告人の原審及び当審における供述部分を直ちには措信することはできない。原判決にいう「井の頭線で渋谷へ」は突入経路の一つとして判示されたものであつて、これは奥深山の前示供述のほか、Oの(検)(4・11)においても明らかに述べられているところである(原四〇冊一五二五丁)から、右認定に誤りがあるとは言えず、共犯者の供述に右井の頭線利用の方針がないとする所論は、同調書を正解しないことに基づく批難に過ぎない。

 次に所論は、原判示の立川駅へのコースの検討打合せ(以下この項においては、本件打合せと言う。)は、Oの(検)(2・15、4・11)二通に基づくものとし、これについて前記イと同旨の主張をするほか、a 原判決は、午前七時過ぎから本件打合せを行つた旨認定しているところ、同調書によれば、午前九時ころからとなつており、また、b 群馬部隊が一四日午後二時中野駅で他の部隊と合流することになつたと判示するが、同調書によれば、その時刻は午後一時四〇分となつているのであるから、a、bともに証拠に基づかない判断であるばかりではなく、さらに、c その後下調べに出かけたというIの(検)(2・9)と前記Oの検事調書とは、中田アジトを出発する時刻に矛盾があるが、原判決はそのいずれにもよらず恣意的に認定している(cは、荒趣第三点三、六、21)、と論難する。しかし、右aについて、原判決は、本件打合せが行われたのは一三日午前と判示したものと解すべく、所論は原判決の誤解に基づく批難に過ぎない。すなわち、原判決は、一一日以降一四日までの間中田アジトに宿泊した群馬部隊の行動を説示する一環として、当該起床時刻を判示したものであることが、原判文を通読すれば明らかであり、また、原判示「一一月一三日の状況」1と同2とを対比すれば、本件打合せを午前中の出来事として判示したに過ぎないことも、これを理解するに難くないところである。次にbについては、たしかにOの(検)(2・15)によれば、中野駅の合流予定時刻を午後一時四〇分と供述していることは所論のとおりである。しかし後記認定のとおり、班長会議の結果右予定時刻が午後二時となつたことが明らかな一四日朝の段階に関しても同人は、奥深山の注意の内容として、中野駅の合流予定時刻を午後一時四〇分と供述しているのである(ちなみに、Oは、一四日当日に中野駅へ到着したのも午後一時四〇分ころと述べている。)から、Oの記憶違いに基づいて供述した午後一時四〇分について、関係証拠により、これを午後二時と認定したからといつて、誤りがあるとは言えない。さらにcについては、本件打合せ後の下調べのための出発時刻が、所論のとおりIの検事調書とOのそれとでは矛盾しているが、荒川・六九回における前記奥深山の供述に照らせば、原判決は同供述に基づいて右出発時刻を認定したことが明らかであり、これが信用し難いとは言えないから、右主張を採用することはできない(なお、被告人荒川が、本件打合せの際中野駅の合流予定時刻が午後二時と決まつていたのであれば、原判決のいわゆる班長会議において被告人荒川と奥深山とが論争する筈はないと主張する点については、当該関連部分において判断することとする。)。

 また所論は、Iの一三日午後のコース下調べに関連して、被告人荒川が、Iの豪徳寺の調査を「無駄だつたな」と言つたことはなく、仮りに言つたとしても、工具類が豪徳寺にないことを知つていて言つたことにはならないなどと主張する。しかし、Iの荒川一八回及び星野・八回の各証言並びに同人の(検)(2・9)によれば、同人は、右コース下調べの際、奥深山から工具類が豪徳寺に保管してあるとして、そのコースの調査をするよう命ぜられたことを、捜査段階から公判廷証言に至るまで一貫して供述するとともに同調書においては、一三日夜の班長会議の際右下調べに基づき、一四日のコース及び所要時間が検討されたが、Iは、被告人ARから工具類は豪徳寺ではなく笹塚にある旨説明を受け、また笹塚アジトの所在を荒川から聞けと言われたことや、ARから右アジトの図面を描いて教えてもらつたことなどを具体的かつ詳細に述べているのであつて、これらの供述は十分信用するに足りるものと言わなければならない。従つて、原判決が、同被告人において豪徳寺には工具類がないことを知つていたと認定し、また、Iから豪徳寺の調査を聞いた同被告人が、これに対し、「無駄だつたな。」と言つたとする同調書の供述を採用して判示したことをもつて、誤認とは言えない(ちなみに所論は、奥深山が一一日工具類を笹塚アジトへ搬入するよう指示したのであるから、一三日午後Iに対して豪徳寺調査の指示をする筈がないとも主張する。たしかに原判決の判示するとおり、笹塚アジトへの工具類の搬入指示が奥深山によつてなされたものであることが認められるが、他方、同人の荒川・六九回供述によれば、豪徳寺の調査は上部すなわち中央本部からの指示によるというのであり、当時同人が本件闘争に参加すべきか否か相当深刻に悩んでいたことが窺われることからすれば、同人は、工具類が笹塚アジトにあることを失念していたか、または同所から豪徳寺へ移動されたものと誤解し、十分に確認しないまま右指示を受領したと解するのが相当であり、右供述は、前示Iの供述を裏付けるものと言わなければならない。)。なお被告人荒川は、イ 一三日午前の打合せの際同被告人が出席していたとすれば、工具類の運搬を検討したのであるから、後になつてIに対し、「無駄だつたな」と言う筈がないし、Iが本件打合せに出席していないとすれば、同人をこれから除外するのは不自然である、ロ Iの調査したコースには、一四日当日機動隊によつて制圧され、通過することのできない渋谷駅が含まれていることからしても、Iの供述は不自然である、ハ O、Iらが下調べをしながら、これを報告した形跡がないのは、これまた不自然である、などと主張する。しかしイについては、Oの(検)(2・15)によれば、本件打合せは、被告人荒川、奥深山及びOの三名でなされたものであるが、火炎びんや工具類等の運搬を担当しない群馬部隊参加者の、一四日当日における中田アジト出発後のコースを検討することが対象であつたと認められる(関係証拠によれば、これらの者の班の責任者にOがなつたこと、一四日当日に火炎びんや工具類を運搬する者は、中田アジトを出発後笹塚アジトへバスまたはタクシーを利用して赴いたことが認められるがこれは右認定を裏付けるものと言うべく、原判決の、火炎びんを運搬する班、工具類を運搬する班についても、立川駅への道順を検討したとの認定は、その意味において不正確と言わなければならない。)から、右打合せに、工具類等の運搬責任者であるIが出席せず、かつ、同打合せの際工具類の保管場所について言及されなかつたとしても不自然とは考えられない。所論中Iが同打合せに出席したことを前提として批難する部分は、Iの(検)(2・9)を論拠とするものであるが、同人は右打合せについて何ら供述しておらず、これに出席していたとは認められないから、その前提を欠き失当である。以上に関連して所論は、同調書中奥深山が中田アジト出発前に、Iに対し、工具類は豪徳寺にある旨説明したとの点をとらえ、そのような事実があれば、被告人荒川が後になつて「無駄だつたな」と言う筈がなく、また、豪徳寺調査関係について、Oが検事調書において何ら供述していないのは不自然である、とも主張する。しかし、Iは、前示のとおり、本件打合せには出席していないのであり、単に出発に際して、奥深山から工具類は豪徳寺にある旨説明を受けたとするに止まるのであつて、その際同被告人がその場に同席していたと言うのではない(付言すれば、Iの2・4(検)中には、同被告人の指示によつて下調べに出発したとの供述があるが、右は同人の2・9(検)と対比すると信用し得ないしまた後者の調書によれば、同被告人が奥深山の右説明の際中田アジトにいたかどうかについても言及していない。)から、所論のようにこれが矛盾するとは言えないし、また豪徳寺の調査がIの担当にかかるものであるところからすれば、Oにこれについての記憶がなく、同人の検事調書においてこれが供述されていないとしても異とするには足りないロについては、豪徳寺から中目黒に至る交通手段を考慮すると、Iが下調べの段階で渋谷駅を通過したからといつて、直ちにこれを不自然とする論旨には左袒し難い。さらにハについては、O及びIの前記各検事調書によれば、下調べに当たつた同人らが班長会議に出席し、同会議で右下調べに基き、コースが検討され、決定されているのであるから同人らから同会議に先立つて報告がなかつたとしても、これまた不自然とは言えない(ちなみに、右下調べに当たつたOの調査コースとしての原判示「下洗足駅」は、所論のとおり北千束駅ないし洗足駅の誤りである。)。

 さらに所論は、原判決が、BSの検事調書に基づき、一三日午後三時ころ中田アジトに一人でいた被告人荒川は、帰つてきたBSに対し、奥深山への連絡を頼み、かつ警察の捜索に備えて身辺整理をするよう指示して外出したと判示するが、A、Kらの供述によつて明らかなように、同被告人が一人で中田アジトにいたことはなく、同被告人は、午後三時ころ同所を初めて訪れ、そのまま群馬部隊の者らを引率して新宿へ出かけたのであるから右は事実誤認である、と言う。たしかに、BSの(検)(3・13)とAの(検)(2・14)とを対比すると、同被告人が一三日午後三時ころ中田アジトに一人でいたとするには疑いがある。しかしBSは、同日、借金のため友人の許へ行つた旨供述し、それに引続く出来事として、中田アジトへ帰つたところ、同被告人から奥深山への連絡依頼や身辺整理の指示があつた、と言うのである。ところで、BSは、原審証言(荒川・15回)においても、日時は判然しないとするものの、午後友人の許に借金に行つたことがあり(関係証拠によれば、これは一三日の出来事としか考えられない。)、また誰の指示であつたか記憶していないが、警察の捜索に備えて身辺整理をしたことがある、新聞やヘルメツトをまとめて部屋の中に置いた旨述べており、以上の証言と、同人の右調書中の一〇日上京以降一三日までの諸種の行動に関する供述が関係者の供述と大筋において符合していることを考え併せると、被告人荒川から前記奥深山への連絡依頼や身辺整理の指示があつたとする供述が信用し難いとは言えない。

 また所論は、原判決は、中田アジトにおいて、被告人荒川は、一時所在不明となつた奥深山の帰りを待つている間タツパーウエアーにガソリンを入れたり、在室者に警察の捜索への対策を指示し、帰つて来た奥深山を叱責し、指揮者打合せ会議に赴せた、と判示しているが、被告人荒川が中田アジトに行くや、奥深山が直ちに小隊長会議に向うべく外出したに過ぎない、と主張する。しかしA(2・14)、BS(3・13)、K(4・26の各検事調書と奥深山の荒川・六九回及び七〇回の供述とを総合すれば、原判示のような被告人荒川の言動や、奥深山が同被告人に叱責されて、東京都内北部で催された、いわゆる指揮者打合せ会議(原判決は、奥深山の供述する小隊長会議を指揮者打合せ会議と判示したことは明らかである。)に赴いたことをそれぞれ認めることができる。以上に関連して、被告人荒川は、イ 奥深山は午後一〇時ころ帰つて来たのであるから、その夜中田アジトで開かれた全体会議までの間に、右打合せ会議に出席する時間的余裕がない、ロ 原判決は、同会議で、「一四日中野駅へ結集する各集団の指揮者が集まり、集合の時刻(午後二時)、各集団の武器等の準備状況の確認等を行い、中野の総指揮者に重要人物があてられているなどのことを話し合つた」と判示しているが、右は全く虚構の事実である(荒趣第四点の二。所論は法令適用の誤りとして主張しているが、事実誤認の主張と解する。、と主張する。しかし奥深山は、荒川・六九回及び七〇回において、正確な時刻については判然しないとするものの、一旦立川から中田アジトへ帰り、被告人荒川に叱責されて指揮者打合せ会議に出席したが、自分の出席した時刻は指定された時刻よりそれ程遅れた訳ではない、同会議は一時間位(午後七時か八時ころから行われたとも言う。)かかつたとか、同会議に出席する前に中田アジトで、ARから火炎びん運搬の報告があつた(原二五冊四八六四丁以下、同二六冊四八八四丁以下、四九六〇丁以下)と供述し、また同会議においては、中央本部の幹部から、集まつた四、五人の全学連のメンバーに対し、中野駅の集合時刻(午後二時)、諸準備についての確認のほか、一四日当日の指揮者にびつくりするような人物が充てられるということが話されたと言うのであつて、同供述は具体的であり、これが信用し難いとは言えない。してみれば、右打合せ会議が虚構のものとは考えられず、また右供述を関係証拠と対比すれば、同会議からその後の中田アジトで行われた全体会議に至る時間的経過に疑問を抱かせるものは存在しない。すなわち、関係証拠によれば、一三日夜の全体会議は、同夜遅くになつて開かれたと認められるところ、BSは、(検(3・13)において、奥深山は、同会議の冒頭に、「会議が遅れてしまつて今までかかり、すまなかつた。」と言つた旨述べ、またOは、(検)(2・15)において、奥深山は、同様に、「会議に遅れ、こんな大事な時にへまをやり、本当にすまなかつた。」などと自己批判した、と供述しているのであつて、これら供述は、前記奥深山の供述を裏付けるものと言うべく、以上によれば、同供述を疑うべきいわれは存在しない。

 最後に所論は、原判決は、同夜の全体会議において、被告人荒川が種々の発言をした旨判示しており、右はKの(検)(4・26)に基づくものであるところ、同調書は到底信用できないものである旨主張する。しかしA(荒川・二四回)及びAR(荒川・二九回)の各証言によれば、同被告人が、全体会議において、機動隊を殺せ、渋谷の街を破壊し尽すのだ、とか、明日を境にして日本は変るのだ、それは暴動だなどと発言したことが認められるところ、これは所論指摘のKの検事調書中の供述と重要な点で符合しているのであるから、同調書が信用できないとは言えない(ちなみに、原判示被告人荒川の発言中、「他の部隊は既に今晩から深夜映画館に泊り込んだりして準備している」との部分が全体会議でなされたとは認め難い。)。

(二)被告人荒川のアリバイ等

(1)被告人荒川のアリバイ

 所論は、要するに、被告人荒川は、一三日夜中田アジトにおける全体会議の中途で退席したのであつて、同会議を司会したことはなく、その後の班長会議の際及び一四日朝には同所にいなかつたのであるから、これに反する原判決の事実認定は誤りである、と言うのである。

 しかし、関係証拠とくにK(荒川・一九回、同二一回)、A(荒川・二四回、同二八回)、AR(荒川・二九回、同三〇回)、I(星野・八回)の各証言並びにK(426)、A(2・14)、O(4・11)、BS(3・13)、X1(1・20)、I(2・4、2・9、2・10)、AR(4・12)の各検事調書を総合すれば、被告人荒川は、一三日夜中田アジトにおける群馬部隊の全体会議及びその後に開かれた班長会議にいずれも出席し、これらの会議を主導したこと、及び同被告人は、一四日朝群馬部隊の全員に原判示のような指示を与え、一部の者の出発を見送つた後中田アジトを出たことを認めることができ、原判決には所論のような事実誤認はない。なおBSの右検事調書によれば、被告人荒川が前記全体会議を始めると言つた旨供述しており、奥深山は、荒川・六九回において、一旦は自分が同会議を主宰したと述べるものの、結局、本件闘争に参加すべきか否か思い悩んでおり、同会議をどのように指導するかという、指揮者としての立場をとり得ず、同被告人が同会議を主宰したことを認めているのであつて、これらからすれば、原判決が、同会議の司会をしたのは被告人荒川であると認定したからと言つて、これが誤りとは言えない。

 以下、被告人荒川が全体会議の中途から退席したとする所論に鑑み、関係証拠を仔細に検討してみることとする。

1 Kは、所論のように、荒川・一九回において、「(同被告人は、)用事があるように夜出て行つた。」旨証言しているが、これは、同証人が中田アジトに宿泊中同被告人が夜居なかつたと思う旨答えたのに対し、検察官から「ずつと居なかつたのか。」と尋ねられ、「分らない。」と述べるとともに、これに引続いてなされた証言であつて(原一二冊七二一丁以下)、同被告人の特定の日の行動についての供述ではなく、荒川・二一回においては、同被告人の「前回の証言で、夜は荒川君は殆んどいなかつたということを言つているわけですね。」との反対尋問に対し、同証人は、「前日(一三日の意)の夜は居ましたね。それから後何日か居たような記憶ありますけれども、判然しない。」旨証言している(同九八八丁)。

2 Aは、荒川・二四回において、検察官の主尋問に対し、一三日夜の群馬部隊の全体会議及び班長会議の際被告人荒川がいずれも中田アジトに居たと述べながら(原一三冊一一二五丁以下、一一三〇丁)、荒川・二八回では、同被告人の反対尋問に対し、一三日夜から一四日朝にかけて、同被告人が(中田アジトに)居たかどうか判然しない、取調べ当時も判然しなかつた旨答えている(原一四冊一五二八丁)が、これに先立つ弁護人の反対尋問に対しては、一三日の夜同被告人が(中田アジトに)居たと思うと証言している(同一四七七丁以下、ちなみに、A証人は、同被告人の右反対尋問後検察官から「主尋問の時には、(一三日の)班長会議に……荒川や奥深山、居たというふうに言つたわけだね。と尋ねられるや、「ええ。」と答え、さらに、「それが先程どうも判然しなくなつた、そこらへんはどうか。」と尋問されたのに対し、何らの答もなく終つている。同一五三三丁。

3 ARは、一三日夜から一四日朝にかけて、被告人荒川が中田アジトに居た旨を明確に証言するとともに、一三日夜の班長会議の際同被告人が、一四日当日における国鉄中野駅集合までの群馬部隊の行動予定が決まつていないことに焦慮し、他の部隊では深夜映画館で夜を明かすということまで決まつていると話していたこと、一四日朝同被告人が群馬部隊全員に対し、当日一人になつた場合に連絡すべき三か所の電話番号を教え、その出発を見送つたこと等を具体的に証言している(原一五冊一五八四丁以下)。

4 前掲各検事調書は、いずれも同被告人が一三日夜から一四日朝にかけて中田アジトに居たことを供述しており、とくにIは、一三日深夜の班長会議の際前記中野駅の集合予定時刻について、同被告人と奥深山との間に認識のくいちがいがあつて口論したが、同被告人の意見によつてこれを午後二時としたことや、工具類の保管場所が豪徳寺ではなく笹塚である旨を同被告人から教えられたこと等を具体的に供述しているのである(原四一冊一七六八丁以下)。

 以上の1ないし4を総合すれば、被告人荒川が一三日夜から一四日朝にかけて中田アジトに居たことは、優にこれを肯認するに足りるものと言わなければならない。Iは、捜査段階では、逮捕当初から、一四日朝同被告人が中田アジトに居た旨供述し、さらに星野八回において、班長会議の際同被告人が右アジトに居たことを証言しているのであつて、これからすれば、Iの前記検事調書が捜査官の誘導に迎合して作成されたもので信用し得ないとする所論は採用し難い。

 なお被告人荒川は、Iの右検事調書の供述記載に関連して、一三日午前の打合せの際中野駅の集合予定時刻が午後二時と決まつていたのであれば、同日夜の班長会議の際同被告人と奥深山との間で、これについて口論する筈がない、と主張する。しかし、前示のとおり、被告人荒川は、奥深山とは別個の方法で中野駅の集合予定時刻を知つていたというのであり、また班長会議に先立つて、奥深山がいわゆる指揮者打合せ会議に出席し、その際中野駅の集合時刻の打合せが行われたことや、同人が当時心理的に動揺していたことからすれば、両者の間に認識の違いがあつたとしても異とするには足りず、Iの右供述が措信し難いとは言えない(所論は、ARの4・18(検)についても、原判決が認定の用に供したとして種々論難するが、同調書は、原審において何ら証拠調べされていないのであるから、その前提を欠き失当である。)。

 被告人荒川が一三日夜の全体会議の中途から中田アジトを立ち去つたとする所論は、X1、T及びX1、 36の原審各証言並びに岸達雄の(検)(3・3)中に同被告人が一四日朝同所にいた旨の供述記載がないことや、この点に関するOの捜査段階の供述に変遷があることなどをその論拠とするものである。しかし、X1は、荒川・二三回においては一三日夜の班長会議の際に、被告人荒川が中田アジトにいたような気もするが判然しない旨証言するに過ぎず(原一三冊一〇六二丁)、却つて、同二五回においては、一四日朝同被告人が同所にいたと思う、と言うのである(同一二二九丁)から、同証言は到底所論の論拠となり得べきものではない(ちなみに、同女は、所論にもかかわらず、検事調書においては、一三日夜から一四日朝にかけて、同被告人が同所にいた旨明白に供述している。。また、岸達雄については、所論検事調書は単に任意性、特信性の資料として提出されたものであるに過ぎないのみならず、同人は、荒川・五七回において、同被告人が一三日夜の全体会議に出席していたが、同会議終了後同人が就寝した一四日午前零時ころに同被告人が同所にいたかどうかについては記憶がない、と言うに止まるのであつて(原二二冊三六九七丁、三七〇二丁)、これまた、所論の論拠とはなり難いものと言わなければならない。そして、Oは、2・15(検)においては、たしかに「この夜(一三日夜の意)は荒川を除き全員がここ(中田アジトの意)に泊つた」旨供述しているが、同供述自体、その供述経過からすれば、一四日午前一時ないし二時ころまで同被告人が中田アジトにいたが、その後同所に宿泊したかどうかの記憶が明らかではないことを述べているに過ぎないものと解すべく、4・11(検)において、同人が記憶が明確になり、同被告人が一三日夜から一四日朝にかけて同所にいた旨供述したからといつて、これが不自然であるとまでは言えず、従つて、右2・15(検)をもつて、所論の論拠とすることはできない。さらにT、X39の原審各証言を検討するに、イ Tは、荒川・二六回及び二七回において一三日夜食事の際同被告人に会つたが、その後の中田アジトにおける全体会議に同被告人は出席しておらず、一四日朝も同所にいなかつた旨述べ、ロ X39は、荒川・五六回において、同被告人と中村とは、右全体会議及び一四日朝のいずれも同所にいなかつたと言うのであつて、右イ、ロの両証言は、一応、前掲積極証拠と対立するかの観を呈している。しかし、イについては、全体会議の途中まで、これに出席していたことを自認する同被告人の供述と矛盾し、ロについては、右同様の矛盾があるのみならず、関係証拠によれば、一三日夜の全体会議及びこれに引続く班長会議に出席していたことの明らかな中村についても、同被告人同様同所にいなかつたと言うのであるから、右両証言はいずれも措信し難い。

 以上の次第であつて、そもそも、前示のように、同被告人が一三日夜から一四日朝にかけて中田アジトにいたとする積極証拠の証明力自体を左右するに足りるものは何ら存在しないのみならず、所論の論拠とする証拠は、右積極証拠と対立する証拠をも含めて、これを直ちに信用することができないのであるから、所論は採用し難い。

(2)その他

 所論は、以上のほか、原判決中、イ 高経大の学生自治会、藤田邦男の処分理由、昭和四六年当初における中核派の沖縄返還協定に対する闘争及び一〇日の芝公園における集会の際のX47、X41、X48、X46らの行動についての認定はいずれも誤つており、また、ロ 一〇月上旬ころ中核派が首都総結集戦を鼓吹したと判示するのは同月下旬の誤りでありハ 五日付「前進」号外が警察署、交番、銀行等を攻撃目標として示唆したとするが、そのようなことはなく、そのほか、ニ 六日の法政大学における集会の際の五光、六光作戦に関する発言や、ホ 同集会後の群馬部隊の一応の編成、あるいはヘ 被告人荒川らによる鉄パイプの準備に関する認定も、いずれも誤りであり、さらに、ト「一一・一〇沖縄全島ゼネスト連帯中央総決起集会」における全学連松尾委員長の演説には、「殴り殺し」との発言はない、などと主張する。

 しかし所論のうち、ハについては、五日付「前進」号外の記載内容に照らし、これが警察署、交番、銀行等を攻撃目標として示唆したものであることは明らかと言うべく、またホについては、関係証拠によれば、七日夜の荒川方会議で群馬部隊の編成が行われたが、その際には、出席者に対し、奥深山が同部隊の指揮をとる旨が告げられるとともに、同人から班数、班長、班員等の具体的内容が示されたことが認められるところ、奥深山は、それに先立つて、一〇月末ころ被告人荒川や藤田邦男から同部隊の指揮者となるよう指示され、その後同被告人らと班の編成について相談した、と言うのであり、(荒川・六九回供述)、また、BS(3・10)及びK(2・9)の各検事調書によれば、同被告人や右X47が、二日ころ高経大の自治会室で軍団編成の話をしたとか、六日の法政大学における集会後群馬部隊の話をしていた、と言うのであるから、原判決がこれらの証拠から、六日ころ群馬部隊の一応の編成がなされたと判示したからと言つて、これが誤りとは言えない。 その余の所論中イは、被告人荒川と群馬部隊参加者との間の共謀の成否に何らの関わりもなく、また、ロニヘ及びトも右共謀の成否を判断するのに関係のない事項である(ヘの鉄パイプも、これを携行して上京したという訳ではない。)。原判決は、本件犯行に至る経緯に関し、単に経過の一事情として、これらを叙述したに止まることは、その判文自体から明らかである。してみれば、右は到底その誤認が判決に影響を及ぼすことの明らかな「事実」とは言えない。のみならず、右ニ、ヘ及びトは、いずれも関係証拠によつてこれを認めることができる(ちなみに、ロは、所論のとおり一〇月下旬の誤記と認められる。。すなわち、ニについては、所論にもかかわらず、「前進」自体、「人民に不利なものを破壊し尽し、焼き払い、必要なものは奪い尽せ!」と呼号している(一日付)のであつてこれを敷えんし、強調したに過ぎない原判示アジテーシヨンに関するKの(検)(2・9)が信用し難いとは言えないし、ヘについては、BSの証言(荒川・一七回)のほか、奥深山の供述(荒川・六九回)及び同人の(警)(3・17)によれば、被告人荒川は、奥深山、BSらとともに鉄棒(原判示鉄パイプとあるのは誤記と認める。)を短く切り、本件闘争のために準備したが、上京の際にはこれを携行しなかつたことが認められる。さらにトについては、Kの(検)(2・9、2・25)及びIの(検)(2・9)によつて明らかにこれを認めることができる。所論は司法警察員佐藤敏雄作成の捜査報告書を根拠として、これを論難するが、右報告書によれば、松尾委員長は、原判示集会において、「……彼らが、なお警察官たることをやめず、あるいは反革命分子たることをやめずに、一四日渋谷にやつてくるならば、これは殺すといつた以外の何ものでもないことを、我々は判然確信しなければならない。」などと発言し、また、同発言を受けて、同集会の司会者は、「東京大暴動とは、何をもつて大暴動と言うのか、このことについて鮮明にさせなければならない。第一は、機動隊を徹底的にせん滅することである、ぶち殺すことである。との発言をしたと言うのであるから、松尾委員長の「殺す」という発言を「殴り殺す」と判示したからと言つて、原判決に誤りがあるとは言えない。

(三)事前共謀の成立

 所論は、要するに、被告人荒川には、機動隊員を傷害する意思あるいは警察関係の施設を発見次第攻撃し、これを炎上させる意思はなく、ひいて同被告人と群馬部隊との間にはこれらに関する事前の共謀はなかつた、と言うのである。

 しかし、関係証拠によれば、以上にも主要な点について縷説してきたとおり、被告人荒川と群馬部隊参加者とは、七日夜の同被告人方における会議のころから、本件闘争へ向けて「前進」あるいは同号外(以下両者を併せて「前進」と言う。)の回し読み、読合わせを行い、その唱道するところに従つて同闘争に参加すべく、意思の統一を図り、一〇日に上京した後は、火炎びん、工具類等の調達及び運搬、渋谷周辺の下見、旗竿(竹竿)作り対外宣伝のためのビラ配布、一四日当日における国鉄中野駅までの行動経路の調査、検討等の諸種の準備活動について、それぞれ任務を分担し、これを遂行したものであるが、この間にあつて、同被告人は、「前進」の鼓吹するところに従い、七日夜の会議においては出席者に対し、激越なアジ演説をして本件闘争への参加を慫慂し、また、一三日夜の全体会議においては、翌日に迫つた同闘争への土気を鼓舞する発言をなすなどし、他方、同部隊の在京中の宿泊のための中田アジト及び火炎びん、工具類等の隠匿のための笹塚アジトをそれぞれ用意し、渋谷周辺の下見の指示や竹竿作りに関するIへの指示をし、また、同部隊が一四日当日他の部隊と合流すべき中野駅までの行動経路の検討の際、これを主導して決定したり、火炎びんや工具類等の各運搬責任者、各人の出発順序を決めるなどし、さらに同日朝中田アジトにおいて、同部隊参加者に対して当日の行動に関する指示を与え一部の者の出発を見送り、これを激励したが、同被告人及び群馬部隊参加者らは、いずれも同部隊のために火炎びんのみならず、鉄パイプや工具類が準備されていることを承知しかつ中野駅において、同一の目的を持つ他の部隊と合流した後にこれを使用するに至るべきことも認識していたのである。

 以上の諸事実からすれば、被告人荒川と群馬部隊参加者とは、一四日朝の時点においては、原判示のとおり、中核派の主張する具体的闘争方針とその方法を容認し、火炎びん、鉄パイプ等の武器を携えて、機動隊と遭遇した暁には、その規制、阻止を排するため、右武器を使用してこれに対する暴行、傷害に及び、あるいは警察署、交番、NHK、銀行等の建物を攻撃して放火に至るべきことを予測して決意し、これに関する共謀が成立していたものと言うべく、原判決が「共謀の成立とその内容」1及び「弁護人及び被告人らの主張に対する判断」二において、同被告人及び群馬部隊参加者の機動隊員に対する傷害の故意、警察署、交番等に対する放火の故意及びこれらに関する共謀を詳細に判示したところは、優にこれを肯認するに足りる。

 以上に関連して、所論は、原判決に言う闘争本部なるものは存在しない旨主張する。しかし、奥深山は、原審において、中核派の中央本部幹部から、同人に対し、屡定点への電話連絡があり、群馬部隊の行動中、一一日の渋谷周辺の下見、一二日のK、BSによる高崎からの衣類の取寄せ、工学院大学における旗竿作り、火炎びん運搬、一三日のコース下調べの際の豪徳寺調査関係については、いずれもその指示に基づいて実施したものである旨供述し、その他の事項についても再三、同様電話による指示ないし連絡があつた旨言及しているのであつて、これが信用し難いとは言えず、原判示闘争本部が、同供述に言う中央本部を指すことも明らかであるから、右主張は採用できない。

 以上の次第であるから、前記(一)において指摘した、被告人荒川の、七日夜の会議における発言の一部、一二日午前における旗竿作りの指示、一三日夜の全体会議における発言の一部等に関する事実誤認は、結局、いずれも判決に影響を及ぼすことが明らかなものとは言えない。すなわち、これらの事実は、右共謀の存在を推認すべき徴憑の一つに過ぎず、その他の間接事実によつて共謀の存在を認定することができる以上、右誤認が判決に影響を及ぼすべきいわれはない、と言うべきである。

 なお被告人荒川は、イ 右共謀と国鉄中野駅における集団の間で成立したとされる共謀とは相違するものであり、ロ 兇器準備結集について共謀したことはない、として、種々原判示認定を批難する(荒趣第四点、所論は法令適用の誤りを主張するが、その実質は事実誤認を言うものと解される。)。しかし、イについては、後記(2、(一))説示から明らかなとおり、中野駅に集合した、群馬部隊を含む約一五〇名の本件集団と被告人星野との間に成立した共謀と、前示共謀とは、その内容を同じくするものであつて、その間に何らの径庭もなく、かつ被告人荒川は、群馬部隊が中野駅で合流する他の部隊と一体となつて、集団として行動すべきことを認識した後も、なおかつこれを前提として、諸種の準備を推進したものであるから、同被告人は、中野駅に集合した群馬部隊参加者を通じて、本件集団に属する他の者らと順次共謀したものと言うことができ、この意味において、原判決が「弁護人及び被告人らの主張に対する判断」三、(二)、2において説示するところは相当であつて、何ら事実誤認はない。所論は、群馬部隊の一部の者が被告人星野の防衛隊に指名されたことからすれば、共謀の内容が変更されたと見るべきである、とも言うが、右は同一の共謀の範囲内における、実行行為についての任務分担の差異に過ぎないから、右主張は採用できない。またロについても、同様後記から明らかなとおり、本件集団に属する埼玉部隊の学生、豊島、中野各地区反戦青年委員会所属の労働者らは、それぞれ群馬部隊同様の目的の下に、火炎びん、鉄パイプ等を携行して、一四日午後二時ころ国鉄中野駅に集合し、被告人星野の指揮の下に、群馬部隊と以後行を共にしているのである。被告人荒川は、本件闘争に参加するかどうか思い悩んでいた、群馬部隊指揮者の奥深山を叱咤し、同部隊参加者について、その行動経路を主導して決定し、前示目的の下に火炎びん、鉄パイプ等を携行させ、同時刻に中野駅に到着し、右埼玉部隊などと合流するよう指示しているのであつて、これらの事実や従来の経緯を併せ考えれば、本件集団の兇器準備結集に関し、被告人荒川について他との共謀を認めた原判示認定は相当と言うべく、何ら事実の誤認は存在しない。

 所論に鑑み、さらに原審記録及び証拠物を精査し、当審における事実取調べの結果を併せ考えても、原判決には所論のような事実誤認はない。論旨は理由がない。

2 被告人星野関係

(一)国鉄中野駅における共謀の成立

 所論は、要するに、原判決は、被告人星野を含む約一五〇名の本件集団について、国鉄中野駅ホームにおいて、兇器準備集合、公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火の共謀が成立したとし、その前提として、同被告人の同所におけるアジ演説の内容を詳細に認定しているが、同被告人は、本件闘争の政治的意義を述べたに止まり、具体的な共謀をしたことはなく、この点に関する群馬部隊関係者の各検事調書はいずれも検察官に対する迎合の結果なされた虚偽の供述であつて、同関係者らは、公判延において、それぞれこれを否定する証言をしているから、右は判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認である、と主張する。

 しかし、所論にもかかわらず、原判示認定に沿う群馬部隊関係者の各検事調書が迎合による虚偽の供述と認められないことは、Tを除けば、さきに三の1で縷説したとおりであり、また、Tを含むこれらの者の原審における各証言も、検事調書中の供述記載を全面的に否定する趣旨とは到底解されない。すなわち、

1 BSは、荒川・一六回において、被告人星野のアジ演説の内容を忘れたが、検察官の取調べの際には記憶しており、ありのままに述べた旨証言し(原一一冊四四八丁以下)、また星野・六回において、同被告人のアジ演説中、焼き殺せ、焼き尽せは記憶しているが、その他は記憶していない、しかし検察官の取調べの際には、取調官から言われて、そういうこともあつたなと思い、自分でも納得し、結局自己の記憶に従つて供述した旨を証言している(原二八冊三四八丁、四二〇丁以下)。

2 Iは、星野・八回において、検事調書に関し、自分の記憶のままというよりも、取調官から言われるままに供述した部分がある旨述べている(同六〇四丁)が、荒川・一八回においては、本件犯行現場の目撃状況に関して名前を特定して述べた調書(2・19(検)の意)以外の検事調書は、大体自己の記憶に従つて述べた(原一一冊六八八丁以下)と言い、同被告人の演説内容に関する供述が自己の記憶に基づくことを肯定しているのであつて、星野・八回における右証言が、同被告人に対する遠慮、気兼ねの結果なされたものであることを窺うことができる。

3 Kは、星野・四回において、同被告人の演説内容は特段に記憶していないし、取調べ当時も殆んど記憶がなく、他のアジ演説と内容的には同じで、区別することができなかつたとか、捜査段階での、同被告人の演説に関する供述は、取調官に対し、自分のある程度の、薄い記憶と、当時の政治スローガンや他のアジ演説に関する記憶に、他の者の供述を重ね合わせてなされたものであり、刺し殺し、殴り殺し、焼き尽せという発言があつたかどうか記憶はない、などとの証言をしている(原二七冊二四七丁以下)が、これより先の荒川・一九回においては、同被告人のアジ演説に関する、詳細な記憶はないとしながらも、検察官から、被告人星野が、渋谷の街を暴動化せよ、ありとあらゆるものを武器に転化しろとか、刺し殺し、殴り殺し、焼き殺せ、あるいは渋谷を火の海にしろという発言をしたかどうかと尋問されるや、いずれもこれを肯定しているのであつて(原一二冊七三〇丁以下)、同人の星野・四回における右証言には、I同様に、同被告人に対する気兼ねの存することを認めることができる。

4 Aは、荒川・二四回において、被告人星野のアジ演説の中で、機動隊を殺せという具体的なことは出たと思うと述べ、検察官から、同被告人が渋谷を燃やし尽し、機動隊を殺し尽さねばならないと言つたかどうかとの尋問を受けると、「そういうふうな内容だつたと思います。」と答え(原一三冊一一四八丁)、星野・三回においては、検事調書中の同被告人の中野駅における演説に関する供述記載について、自分の推測が事実あつたことのように記載された部分があるとか、あるいは弁護人の再三にわたる尋問の挙句、機動隊を殺せという発言があつたかどうか分らないと答えるに至つているが、それまでの過程では、二回にわたつて、同被告人が機動隊を殺せと発言した旨証言している(原二七冊八九丁以下)のであつて、これを対比して考えると、同人の記憶としては、荒川・二四回における証言内容のとおりであつた、と解さざるを得ない。

5 ARは、荒川・二九回において、被告人星野のアジ演説中には、機動隊を刺し殺し、殴り殺し、焼き殺すという話が出たと述べ(原一五冊一五九八丁)、星野・二回においては、同被告人のアジ演説の大部分を忘れてしまつたが、検察官に対しては記憶していることを供述した、と言い、殴り殺す、焼き殺すという言葉は、当時も今も記憶している旨証言している(原二七冊一七丁以下)。

6 X1は、荒川・二三回において、被告人星野が、アジ演説において、機動隊を一人でも多く焼き殺し、刺し殺し、殴り殺して渋谷に大暴動を起せと言わなかつたか、との尋問に対し、「機動隊をせん滅するということは言つたかも知れませんけれども、そういう細いことを言つたか……。」と述べ(原一三冊一〇七一丁)、星野・五回においては、「同被告人が銀行や警察署やNHKを焼いて、渋谷を火の海にすると言つたか。」との尋問に対し、「大体そのようなことは言つたと思います。」と答え、さらに、「機動隊を多く焼き殺し、刺し殺し、殴り殺せ、とは。」と尋ねられるや、「そういうことを言つたかどうか分りませんけれども、機動隊をせん滅するということは言いました。」と答えている(原二七冊二六八丁)のであつて、同被告人が殺せと言つたかどうかについては、これを否定したものとは言い得ず、むしろ同人の、この点に関する記憶の喪失を窺わせるものと言うべきである。

7 Tは、荒川・二六回において、被告人星野の演説に関し、興奮していたため、その演説の内容をよく聞いていないと述べ、同人の調書によると、同被告人が機動隊を一人でも多く殺せと演説したとなつているが、どうか、との尋問に対し、「前進」を読んでいたので、(これとの混同があるかも知れず、)同被告人が判然そのように言つたかどうか確信は持てないとの趣旨を証言し(原一四冊一三三五丁以下)、星野・七回においては、捜査段階での取調べの際、同被告人の演説の内容を判然記憶してはいなかつたが、「前進」に掲載されていたことを演説したと思うと述べたところ、(具体的内容についての記憶を供述したように、)調書に記載されたものであるとか、自分としては、同演説を興奮していたため注意して聞いていなかつたとの趣旨を述べている(原二八冊四八一丁以下、五三一丁以下)のであつて、これまた、検事調書中の同被告人のアジ演説の具体的内容について、これを積極的に否定するまでのものではない。

 以上の次第であつて、右1ないし6の原審各証言及び当該検事調書を総合すれば、被告人星野が、火炎びん、鉄パイプ等を持つた本件集団に対して原判示アジ演説をしたことが認められ(但し、「下北沢の部隊と合流」云々の部分を除く。これについては、後に判断する。)、また関係証拠によれば、同所に集合した埼玉部隊所属の学生らや、豊島、中野等の地区反戦青年委員会(以下地区反戦と言う。)所属の労働者らは、いずれも「前進」の読合せをし、本件闘争への意思の統一を図つて火炎びん、鉄パイプ等を携行しており、群馬部隊同様、機動隊との遭遇に際しては、その規制、阻止を排すべく、右武器による機動隊員への暴行、傷害に及ぶべきことや、警察署、交番、NHK、銀行等への放火を予期し、これらを決意していたものと言うべく、群馬部隊を始め、その他の本件集団とともに被告人星野の右演説に対し、いずれも口々に「よし。」あるいは「異議なし。」と叫んでこれに呼応したことが認められる。以上の事実に、火炎びん、鉄パイプ等を携行した本件集団の、小田急線代々木八幡駅から渋谷東急百貨店本店付近に至るまでの経過が、略集団としての行動であつたことを考え併せると、中野駅において、被告人星野と本件集団との間に、原判示共謀の成立したことを優に認めることができ、右認定に反する同被告人の原審及び当審における供述は、前記説示に照らし、信用することができない。

 所論は、この点に関し、当時中野駅で本件集団の動きを視察していた警察官牟田和正の検事調書中に、原判示のような被告人星野の発言に関する供述記載がないのは、被告人星野が右発言をしなかつた証左である、と言う。しかし関係証拠によれば、同被告人のアジ演説は約一〇分間行われたと認められるところ、牟田の現認したのは、同演説の中途からの約五分間に過ぎず、しかも本件集団の最後部から三、四メートル離れた場所で視察し、電車の騒音等で演説の内容がよく聞きとれなかつたと言うのであるから、これをもつて原判示認定を疑うべき根拠とはなし難い。また所論は、同集団参加者中、群馬部隊以外の者は、機動隊を焼き殺し、刺し殺し、殴り殺せという同被告人の発言を聞いていないとして原判決を論難する。しかし、X17の荒川・四七回における証言によれば埼玉部隊に属する同人は、被告人星野から、「渋谷で暴動を起す。独占資本を破壊し、機動隊をせん滅しよう。」という趣旨のアジ演説を聞いたが、その具体的な表現についての記憶はない、同演説中に「焼き殺し、刺し殺し、殴り殺す」という言葉が出たかどうかは断定できない、と述べるに止まつている。またX16の原審証言によれば、豊島地区反戦に属する同人は、本件集団の最後尾にいたが、騒音のため、同被告人の演説の内容は聞えなかつたと言うのであり、さらにX10の原審証言及び(証)によれば、中野地区反戦に属する同人は、中野駅に集合した際の状況について、詳細な尋問もなされていないところから、甚だ漠然とした供述をするに過ぎず(ちなみに、新宿駅における同被告人のアジ演説については、その内容を記憶していない旨述べている。)、これらをもつて所論の根拠とするには由ないところであり、そのほかに右認定を疑うべき証拠は何ら存在しない。 なお所論は、被告人星野のアジ演説中「われわれは、ここで下北沢の部隊と合流することになつていたが、合流できない」との部分の原判決の事実認定は誤りである、と主張する。しかし同被告人の右発言部分は、前記本件集団の共謀の成否に何らの関わりがないのみならず、X1は、その(検)(1・25)において、中野駅で待つている間に、Oから、待つている理由について、下北沢の部隊と合流するためであると聞いた旨供述しており、これは、原判示と同旨の供述をするARの(検)(4・12)を裏付けるものと言うことができる。のみならず、X1は、星野・五回において、右ARの供述に符合する証言をしているのであつて、これらからすれば、到底原判示認定に誤りがあるとは言えないなお所論は、小田急線新宿駅ホームにおいて、被告人星野が中野駅と同旨のアジ演説をしたとの原判決の事実認定も誤りであると言うが、関係証拠によれば、優にこれを認めることができ、誤りとは言えない。

(二)神山派出所付近の状況

(1)神山派出所に対する放火

 所論は、要するに、原判決は、本件集団の中間及び後方に位置していた者が火炎びんを投てきして神山派出所に放火したとして、被告人星野の刑責を肯定しているが、同被告人の前示アジ演説が放火を目的とするものではなく、また同被告人の関心が機動隊の方に集中していて、同派出所の存在すら認識せず、これに対する放火の指示もしていないことから考えると、原判決の事実認定には誤りがある、と言うのである。しかし、先に縷説したところから明らかなように、本件集団は、国鉄中野駅において、被告人星野の「我々は、渋谷の街を破壊し尽し、警察署、交番、渋谷駅、NHK、銀行を焼き尽すのだ。」などとのアジ演説に対し、「よし。」、「異議なし。」と叫んで呼応し、相互に火炎びんを所持していることをも認識して意思相通じ、これら施設に対する放火について共謀を遂げているのであるから、同集団の中間及び後方に位置していた者が、同派出所に火炎びんを投てきして放火した以上、同被告人が同派出所の存在を認識していないにせよ、原判決が、同被告人について、右放火に関する刑責を肯定したのは相当であつて、誤りがあるとは言えない。

(2)機動隊に対する傷害

 所論は、原判決は、被告人星野が神山派出所付近の道路上に、本件集団の前進を阻止しようとする機動隊を発見するや、同集団を停止させ、右機動隊をせん滅しようと激励し、突つこめと号令して、事前共謀の実行に移り、警察官三名に対し各傷害を負わせたとしているが、同被告人としては、火炎びんを投てきしながら突進すれば、機動隊は直ちに退却し、同集団の進路をあけると判断したのであつて、同隊員らに対する傷害の意図はなかつたのであるから、右認定は誤りである、と主張する。

 しかし関係証拠によれば、当時神山派出所前において、関東管区機動隊に属する一個小隊の警察官二七名が、本件集団の前進を阻止すべく、幅員約八メートルの道路上に横隊となり、いわゆる阻止線を張つていたのであつて、被告人星野は、本件集団に対し、右機動隊を「容赦なくせん滅しようではないか。」と激励し、「トラ部隊前へ。」と指示したうえ、「突つこめ。」と攻撃の号令を発しており、本件集団に属する者らは、これに応じて右機動隊の約二〇メートル近くまで前進し、同機動隊をめがけ、多数の火炎びんを投てきしたが、同火炎びんにより警察官三名が原判示各熱傷を負つたことを認めることができる右経過からすれば、同被告人の号令に従い、多数の火炎びんが投てきされたのは、同被告人において当然予期した事態の出現に過ぎず、以上のような状況の下で、機動隊員をめがけて多数の火炎びんが投てきされれば、その結果これによつて熱傷を負う者が生ずべきことも、これまた当然の事理である。所論のように、火炎びんを投てきして突撃すれば、直ちに機動隊が退却し、何らの抵抗も起こり得ないと考えること自体、不自然に過ぎるものと言うべく、原判決の事実認定に何らの誤りもない。

(三)中村巡査に対する殺害の共謀及び実行行為

(1)被告人星野の中村巡査に対する殴打

 所論は、原判決は、被告人星野の「やれ」との号令及び大坂の「殺せ、殺せ」の怒号に呼応して、数名の者らが、中村巡査に対し、所携の鉄パイプ、竹竿等で、その頭部、肩部腹部を多数回にわたつて乱打したと認定しているが、同被告人は、野次として声をかけたことはあるものの、号令をかけたことや、自ら殴打に加わつたことはないと論難する。

 しかし、Kの2・14及び4・26各(検)によれば、同人は、捜査段階において、被告人星野の中村巡査に対する殴打を明確に供述しており、とくに4・26(検)においては、当初自分が本件現場に到着した時点すなわち自分が中村巡査を殴打する前に、同被告人が中村巡査を殴打するのを見た旨一旦供述しながら、その後、「私が(中村巡査を殴打しているところに)飛びこんで、竹竿で殴りつけた時、同被告人が鉄パイプを振り上げ殺せ、殺せと叫びながら殴りつけているのを見た。」旨訂正し、自己の供述の正確を期しているのである。また同人は、荒川・一九回においては、同人が鉄パイプや竹竿で殴られている中村巡査に近づいた時、同巡査の左斜め前に密接した同被告人の後ろ姿を見た、同被告人が鉄パイプで殴り、これが同巡査に当たるところまでは見ていないが、同被告人の特徴であつたきつね色の上着を着て、約四〇センチメートルの鉄パイプを持つた腕が振り上つているのを見た旨(原一二冊七五二丁以下、とくに七五六丁)、捜査段階における供述よりも一層正確を期した証言をし、星野・四回では、本件殺害現場において、きつね色の背広の上下を着た中肉中背の人が鉄パイプを振り上げ、振り下すところも見ているが、どの辺を殴つたかは見ていない、という趣旨を述べ(原二七冊一六〇丁以下)、他方、同公判廷では、神山派出所付近において「トラ部隊前へ。」という発言をした者あるいは本件殺害現場で「道案内。」と呼んだ者は、当日リーダーシツプをとつていた人であるとかきつね色ないしカーキ色の背広を着た人であると証言している。そして、右「トラ部隊前へ。」や「道案内。」と言つた者は、関係証拠によつて、被告人星野であることが認められ、これを疑うべき証拠はない。

 以上に、O(2・17)及びI(2・4、2・10、2・19)の各検事調書を総合すると、被告人星野が中村巡査を鉄パイプで殴打した事実を優に認めることができる。なお、I(荒川・一八回、星野・八回)及びBS(荒川・一六回、星野・六回)の各証言によれば、同被告人が、本件殺害現場において、「かかれ。」ないしは「やれ。」と叫んでいたことが認められ、原審が当日指揮をとつていた同被告人の右発言を、単なる野次ではなく、号令と認定したことに誤りがあるとは言えない。

 所論は、Iの、同被告人が中村巡査に対する暴行に加わつたとは思わないなどとの原審証言や、同被告人の暴行について何ら供述せず、あるいはこれを否定するA、ARの原審各証言などに基づき、原判示認定を論難するが、Iは、捜査段階においては、当初から一貫して同被告人の中村巡査に対する殴打の状況を供述しており、右証言部分は、これと対比すると措信し難いところである。次に、A及びARの原審各証言中、本件殺害現場での同被告人らの言動に関する部分については、証言回避の傾向ないしは同被告人らへの気兼ねが見受けられるが、この点は暫らく措き、同人らの捜査段階における供述からすれば、同人らは、同被告人の中村巡査に対する殴打の状況を現認しなかつたか、あるいは現認したとするには疑いがあるものと言うべきである。すなわち、Aは、2・25(検)において、「米屋の前で、星野、奥深山さん達が中村巡査を私と同じような鉄パイプでめつた打ちしていた(中略)五、六名でとり囲み殴りつけてい」たと供述しているが、それに先立つ2・16(検)においては、本件殺害現場での同被告人の言動について、「殺せ、殺せ、殴れ、やれ。」「銃を奪え。」「火をつけろ。」等の命令が同被告人の声ないしは同被告人のような声であつたとし、また同被告人も火炎びんを投げたと思う旨供述しながら、その殴打自体については、何ら触れるところはなく、単に七、八名の者が中村巡査をとり囲んで殴打していたが、その中で奥深山や大坂が殴打しているのを目撃した、その後同巡査を引張り出している二、三名の中に同被告人がいるのを見た、とするに過ぎない。右両供述を対比してみると、後者が同被告人の言動を詳細に供述しているにもかかわらず、その殴打については何ら触れていないことからすれば、同巡査を殴打している五六名の中に同被告人がいた旨の前者の供述は、前示のように同巡査を引張り出している者らの中に同被告人がいたことを根拠とする、同人の推測の結果の表明とも解する余地があり、現に、同人が同被告人の殴打の状況を目撃したと言い得るかについては躊躇せざるを得ない。また、ARは、捜査段階において、同被告人の本件殺害現場における言動について詳細に供述しているものの、その殴打の状況については、これを供述していないことからすれば、同人は右殴打自体を目撃しなかつたと解するのが相当である(ちなみに、所論指摘のとおり、ARは、弁護人の反対尋問に対し、(被告人星野は)殴つていなかつた、と答えているが、その直前の問答では、大坂、奥深山、A以外に殴つている人がいたかどうか尋ねられるや、その他については判然しない旨述べた後に、同被告人及びKについて、右にその一部を摘記したとおり、いずれも殴つていなかつたと思うと答えたが、さらに、「判然しないんではないですか、殴つていたか、殴つていなかつたか、そもそも。との尋問に対し、「ええ、判然しないです。」と証言しているのである(原一五冊一六八九丁)。)。以上の次第であるから、A、ARの原審各証言をもつて、同被告人の殴打がなかつたことの論拠とはなし難い。またBSの(検)(3・15)によれば、同人は本件殺害現場における、中村巡査が捕つた当初の状況について甚だ特異な供述をしているが、関係証拠と対比すると、同供述部分を直ちには信用し難く、従つて、同人が同被告人の殴打の状況について供述していないからと言つて、これまた所論の根拠とはなし難いところである。

 さらに所論は、第三者として本件現場を目撃したX19の検事調書によれば、同人はできる限り各人の服装等の特徴を覚えていた心算であるとして、機動隊員を追いかけた六名の者について、その暴行の状況を供述し、そのうちの四名について特徴を挙げているが同供述によつても、被告人星野の特徴に合致する者はいないし、また同様本件殺害現場を目撃した原審証人X 20の証言によつても、同現場では、周囲にいた五、六人が「やつちやえ、やつちやえ」と言つていたに過ぎず、「殺せ」とは聞いていないのであつて、右は被告人星野が中村巡査を殴打せず、また、誰も「殺せ」とは言つていない証左である、と主張する。しかし、X9の検事調書の供述記載として所論の主張するところによつても、中村巡査を追いかけていた六名全部について、その特徴を挙げていたと言うものではなく、右調書自体、何ら証拠調べされていないのであつて、いずれにせよ、主張自体失当であるのみならず、X9の証言(荒川・三八回)によれば、機動隊員を追いかけていた本件集団の先頭部分について、先頭の一人に関し、その特徴を比較的詳細に供述しているが、その他については、同じような格好で判別できないとし、検事調書では先頭の一人のほか五名位が追いかけていたと述べたが、もう一寸いたと思う、一二、三人位いたのではないか、と言うのであり、X 20は、機動隊員を一五、六人が追いかけていた、と証言している(荒川・一一回)のである。してみれば、X19の検察官に対する供述をもつて所論の論拠とはなし難いものと言わなければならない。また、所論にもかかわらず右福島証人は、本件殺害現場において、何回も「殺せ。」という大きな声を聞いた旨述べているのであるから、所論は採用することができない。

 所論は、以上に関連して、本件当日の被告人星野の服装についての関係証拠は、薄水色空色、灰色あるいは白つぽいブレザーであるとか、薄いねずみ色の作業服であるとか、薄青色の背広であるとかとなつており、Kのみが薄いクリーム色ないしきつね色の背広上下と供述しているところ、同人の被告人星野と特定する根拠は服装であり、当時の状況では、これ以外に特定の方法はなかつたのであるから、その供述は措信し難いと主張する。 たしかに関係証拠によれば、被告人星野の当日の服装の色に関する、共犯者らの供述はKの供述と相違し、区々に分れていて、いずれをもつて正確なものとすべきかは、にわかには断定し難い。しかし、このことは、他人の服装、とくにその色の区別については、特段の事情のない限り、目撃者の記憶に残り難いことを示すものと言うべきである。このような観点から、Kの供述に右特段の事情が窺われるかどうか、そのような事情が窺われるとしても、同人の供述を他の供述と比較した場合、同人の供述が特異に過ぎて、直ちにはこれを信用し難いのかどうか、換言すれば、同人の供述の裏付けとなり得るものがあるかどうか、さらに被告人星野の特定に関する同人の認識が服装のみを根拠としているのかどうかについて、以下検討することとする。この点に関する同人の供述は、先に挙示したとおりであつて、4・26(検)の供述訂正部分と略同一内容を述べている荒川・二一回の証言によれば、中村巡査を殴打する際に、被告人星野が鉄パイプを持つた腕を振り上げたところを見たが、その上着の色がきつね色であつた、と言うのである。しかもその直前の証言においては、中村巡査が四、五名の者に捕えられたが、その中に同被告人がいたのは確定できる、と肯定しており、何らの躊躇も示していない。Kは、本件当日中野駅において、同被告人のいわゆる防衛隊を命ぜられ、以後神山派出所付近まで同被告人に近接して行動していたことを考え併せると、中村巡査殴打という特異な状況下における認識として、同被告人の服装の色に関する記憶が保持されていたものと言うべく、またその認識に、他との混同があるとも解し難い。次に、関係証拠とくに大竹和義、東山昭の各(証及び高橋信行の証言(荒川・一一回)によれば、被告人星野が、神山派出所付近において機動隊との衝突直前本件集団に対し、肩車に乗つて、前示のように激励したことが認められるところ、当時同機動隊の一員として、この状況を目撃した大竹巡査は、同被告人が黄色か、茶色つぽい服装をしていた旨供述しているが、右供述は、同被告人の服の色がきつね色であつたとするKの供述と略符合しており、従つて、同人のこの点に関する供述が特異に過ぎ、信用し難いとは言えない。さらに同人は、原審証言(荒川・二一回)において、同被告人の特定は服装と声である、と述べ(原一二冊九〇八丁以下、とくに九一三丁、当日国鉄中野駅以降、前示のとおり同被告人に近接して行動し、そのアジ演説等を再三にわたつて聞く機会のあつた同人は、同被告人の特定の根拠として、その声も挙げているのである。そして同人は、2・14(検)において、被告人星野が、鉄パイプで機動隊員を殴りつけながら、「殺せ、殺せ。」とかすれたような、異様な声で叫び続けていたのが印象的だつた旨供述している。他方、ARは、星野・二回において、弁護人から、同人の検事調書で同被告人が離れろ、火炎びんを投げろと言つたと述べた根拠を尋ねられ、「指揮者だから星野の声だろうと思つていた、カスレ声のように聞えた。」旨証言し、X16は、中野駅における同被告人の声はしやがれていた、と言い(荒川・四六回証言)、X17は、同様中野駅において、同被告人は、声がかすれ、高い声で、時々裏声になつていた、と言う(同人の2・7(検))のであつて、これらの供述は、Kの右供述を裏付けるものと言わなければならない。以上の次第であるから、中村巡査殴打の際の、同被告人の特定に関するKの供述は十分信用することができ、同人の星野・四回における証言中右認定に反する部分並びに同被告人の原審及び当審における供述は、叙上説示に照らしいずれも措信し難い。

(2)被告人星野の火炎びん投てきの指示

 所論は、要するに、原判決は、被告人星野の指示の下に、数名の者が中村巡査に対し、火炎びん数本を投げつけた旨認定しているが、同被告人が火炎びん投てきの指示をしたことはないから、右は事実誤認である、と言うのである。

 ところで、A(2・16)、AR(4・12)の各検事調書によれば、被告人星野が火炎びん投てきの指示をしたことや、それに基づいて火炎びんが一〇本位投げられたとか同人らもそれぞれ火炎びんを投げたと供述しているので、これらの供述が信用し得るか否かについて、以下検討することとする。同人らの原審各証言によれば、Aは、荒川・二六回において、被告人星野の指示は聞かなかつたとし、ARは、同・二九回において、「火炎びんを投げろ。」との指示が誰の声だつたか分らないと述べ、星野・二回において、主尋問に対しては、右指示が同被告人の声だつたかどうか判然せず、ただ検察官に事情を聞かれた当時は、記憶にあるとおり述べたとするに止まるところ、弁護人の反対尋問において、検察官に対し、被告人星野が離れろ、火炎びんを投げろと言つた、と供述したことについて尋問され、「指揮者だから星野の声だろうと思つていた、カスレ声のように聞えた、特別によく覚えているということはない。」と答えたが、さらに同被告人の反対尋問に対しては、「星野の顔はよく知つており、声(の特徴の意)は大体知つている。」旨の証言をするに至つているのであつて、同人の検事調書がその記憶に従つて述べられたものであることを裏付けた経過となつている。以上説示したところに、前記のとおり、A、ARの原審各証言中、本件殺害現場での同被告人らの言動に関する部分には、同被告人らへの気兼ねないしは証言回避の傾向が見受けられることを併せ考えると、右両名の検事調書中の前記各供述は、それぞれこれを信用することができるものと言わなければならない所論は、原判示認定がOの(検)(6・26)に基づいてなされたものであるとして、これを論難し、またKの検事調書によれば、同人は、火炎びん投てきの指示が誰によつてなされたものか特定し得ていないし、とくに同人の2・14(検)では、被告人星野のいた方向とは別の方向から右指示が聞えたと述べ、他方その他の指示は同被告人の声である旨供述しており、これらから考えると、同被告人が火炎びん投てきを指示したとする原判示認定は誤りである、と言う。しかし、所論指摘のOの検事調書は原審において証拠調べがなされていないのであるから、これを原判示認定に供したとして論難する所論は、主張自体失当と言わなければならない。また関係証拠によれば、火炎びんを投げろという声は、被告人星野のほか、奥深山からも発せられたこと及びその直前にKがそれまでにいた場所から他へ移動したことを、それぞれ認めることができる。してみれば、Kが火炎びん投てきの指示が誰の声か分らないとし、また、その声が同被告人のいた方向とは別の方向から聞えたと供述しているからと言つて、これに基づき原判決を論難するには由ないところであつて、原判決には所論のような事実誤認はないと言わなければならない。

(3)被告人星野の中村巡査に対する殺害の故意等

 所論は、原判決は、被告人星野を含む数名の者が中村巡査を乱打した際、同巡査を殺害するもやむを得ないとする、現場における共謀が成立したと認定するが、右は事実誤認であり、同被告人には殺意はなく、殺害の共謀も成立しなかつたなどと主張する。

 しかし、関係証拠によれば、被告人星野は、ほか数名とともに、孤立し、殆んど抵抗をなし得ない中村巡査に対し、その頭部、肩部、腹部を鉄パイプ、竹竿等で乱打し、また、右現場において、「やれ。」と号令し、右乱打は同巡査が失神して倒れるまで続けられたのであつて、その殴打が短時間とはいえ、右事実からすれば、原判決がその「罪となるべき事実」において判示したとおり、「同巡査が死に至るかも知れないことを知りながら意思相通じて、」これを乱打したものと言うべく、また、同被告人が、前示のとおり、火炎びん投てきを指示し、これに基づいて火炎びんが投てきされた以上、同被告人に、中村巡査に対する殺意及び右殺害の共謀を認め、その刑責を肯定した原判決に誤りがあるとは言えない。原判決が、「当事者双方の主張に対する判断」第一の四の(二)の2において詳細に説示するところは、関係証拠に照らし、一々これを首肯するに足り、原審の証拠の取捨、判断の過程には誤りはない(但し、火炎びん投てきの際の同被告人らの殺意が確定的殺意であるか、あるいは未必的殺意に止まるかは、後記検察官の控訴趣意に対する判断の際に譲ることとする。)。

 所論に鑑み、さらに原審記録及び証拠物を精査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討しても、原判決の事実認定に、所論のような誤りはない。論旨は理由がない。

五 検察官の事実誤認に関する控訴趣意について(検趣第一点)

1 機動隊員殺害に関する事前共謀

 所論は、要するに、原判決は、被告人荒川には機動隊員殺害の願望や期待が漠然とあつたに過ぎないとか、同被告人や群馬部隊に右殺害の共謀があつたとするには抽象的に過ぎるとし、さらに国鉄中野駅に集合した約一五〇名の本件集団には機動隊員殺害の共謀が成立しなかつたとして、被告人星野、同荒川両名について右共謀の成立を否定しているところ、イ原判決は、被告人らの行動と切り離して、「前進」の記事内容を別個に評価しているが、同機関紙は本件犯行の重要な指針となつていて、被告人らの犯意の形成に重大な影響を及ぼしたものと言うべく、ロ本件犯行の際には、武器として、火炎びん、鉄パイプ、バール等が携行されているが、被告人らは、過去における機動隊員殺害事件などによつてこれらが人を殺害するに足りるものであることを知つていたものであるし、ハ被告人荒川については、七日夜の荒川方会議の状況から推しても優に機動隊員殺害の事前共謀があつたと言えるし、同被告人や奥深山と事前に緊密な連携のあつた被告人星野についても、右共謀の存在を認めることができるから、原判決には事実の誤認がある、と言うのである。 ところで所論は、本件集団の殺人の共謀について、火炎びん、鉄パイプ等の武器を携行した武装集団により、渋谷市街で機動隊の阻止線を突破するに当たり、機動隊員を殺害し得る客観的可能性のある局面が現出しない対峙状況においては、鉄パイプ、火炎びん等で機動隊員に攻撃を加えて傷害を負わせ、まず機動隊員による阻止線を突破し、その後の状況の推移により機動隊員を殺害し得る客観的可能性のある局面が現出したときは、これを殺害することを内容とするものである、と主張する。

 しかし、同一の対象に対する共謀とは、概括的、条件付であるにせよ、特定の犯罪を実行すべき合意でなければならず、甲罪又は乙罪を実行すべき択一的な合意をもつて足りるとすることはできない。これを所論に即して言えば、殺害の可能性をも予測した事前共謀がある場合には、現実に機動隊員を殺害し得る客観的可能性のある局面が現出しないときであつても、その際に発生した傷害の結果については、殺人未遂の罪が成立するのであつて、単なる傷害罪をもつて問擬すべき余地はなく(所論にもかかわらず、最高裁判所昭和五六年一二月二一日第一小法廷決定は、右と同旨である。)、かつ、右合意の内容いかんは、本件が集団犯罪である以上、その一部ではなく、集団の全体についてこれを論ずべきである。所論は、機動隊員殺害の犯行をなす意思を固めている群馬部隊の者を、本件集団の残余の者と同視するのは不当であるとも言うが、前示のような本件犯行の経過、態様からすれば、同部隊を特別視すべき事情は窺えず、所論も、結局、中野駅において本件集団全体に機動隊員殺害の事前共謀が成立したと主張するのであるから、その際同集団全体に右殺人の共謀が成立したと言い得るか否かを検討すべきこととなるが、関係証拠によれば以下の事実を認めることができる。すなわち、

1 革命的共産主義者同盟全国委員会、マルクス主義学生同盟中核派及びマルクス主義青年労働者同盟(以下三者を併せて中核派と言う。従前の叙述においては、中核派の規定が正確を欠くが、その実質は、これと同一である。)は、昭和四四年には武装闘争方針をとつて、過激な行動に出たが、翌四五年には、いわゆる七〇年安保闘争においても、一時この方針を休止し、平和的示威運動に止まつていたところ、昭和四六年になると、再び武装闘争方針をとり、同年一一月の沖縄返還協定の批准阻止を目指す本件闘争では、「前進」において、機動隊員の殺害を容認する主張をなすに至つた。すなわち、一〇月二五日付「前進」は、「機動隊員を殺すことは人民が勝利するためには当然のことだ。」と言い、翌一一月に入るや、一日付「前進」は、「われわれは、機動隊員との「死闘」を鮮明にさせ機動隊を一人でも二人でも多く、それもできるだけ徹底して恥多き死に方をさせてやらなければならないのだ。」と主張し、さらに同月八日付「前進」は、「敵を殺すか、われわれが殺されるかを、われわれはいささかのためらいも残してはならないのである。」としているのであつて、これらの主張と「前進」の他の部分とを比較対照すれば、同紙に言う機動隊員の「せん滅」ないし「撃滅」とは、機動隊員殺害の意味を含むことは明らかである。

2 本件集団を構成するものは、群馬部隊を始めとして、埼玉部隊所属の学生ら、中野、豊島各地区反戦所属の労働者らのいずれにおいても、それぞれ「前進」を読み合わせ、これを指針とし、本件闘争へ向けて意思の統一を図つており、本件当日における同集団の行動の経過、態様を併せ考えれば、本件集団の残余の者についても、同様であつたと推認することができる。

3 七日の荒川方会議、一三日の全体会議における、被告人荒川の前示各発言内容は、これを「前進」と対比すると、同紙の唱道する方針に従い、これを略祖述するものである。 以上1ないし3によれば、たしかに所論のように、群馬部隊を含む本件集団及び被告人荒川は、「前進」の鼓吹するところに従い、機動隊員を殺害する意思を有していたものの如く見え、これと中野駅における被告人星野のアジ演説とを併せ考えれば、所論のように機動隊員殺害の事前共謀が成立したものの如くに見える。

 しかし、関係証拠を仔細に吟味すると、次の事実を認めることができる。すなわち、

4 本件集団が携行した武器の主なものは、火炎びん、鉄パイプ、竹竿のほか、金槌、ドライバー、バール等の工具類及びライター用ガスボンベである。

5 次に、中核派が本件でとつた戦術を見てみると、一日付「前進」は、「万余の民衆が敵権力を攻撃し、包囲し、せん滅し、街頭を、地域を自らの力で席巻すること、これは当然のことではないか。」とし、さらに八日付同紙では、「正規軍とゲリラを結合し、前後左右、ありとあらゆる角度と方法で敵に致命的打撃を与えよ。」と言つて、その戦術を明らかにし、本件闘争の目標については、「渋谷に人民広場がつくり出され、渋谷警察が焼き打ちされ、機動隊がせん滅され、……独占資本が人民の手によつて鉄火の糾弾を浴びる必要がある。われわれは、佐藤が「返還協定」批准をあきらめる以外には決して止まないであろうほどの大暴動を渋谷に実現するであろう。」と言い、「渋谷を人民の手で制圧し東京大暴動を起せ!」と結んでいる。

6 本件当日渋谷地区において、午後三時三〇分ころから午後七時三〇分ころまでの間三回にわたつてゲリラ活動が行われたが、その内容は、バリケードを築き(一回目及び二回目)、井の頭線の線路上に放火して電車の往来を止め(二回目)、あるいは看板、ダンボール等を持ち出し、これに火を放つ(三回目)というものであつた。

7 本件集団に属する者の意識、行動等の概略を見ると、群馬部隊に属する者のうち、本件殺害現場において中村巡査殺害の犯行に加わつた者は、あるいは一三日の全体会議における被告人荒川の発言によつて機動隊員を殺そうと決心したとか、被告人星野のアジ演説を聞いてその言うとおりにしなければならないと思つたとして、機動隊員殺害の意思を肯定し(Aの2・14(検)、ARの4・12(検))、あるいは殺害の意図はなかつたが、機動隊員が結果的に死亡しても止むを得ないと思つていた(Kの2・25(検))と言うが、他方、右犯行に加わらなかつた者は、あるいは一三日の全体会議ないし本件殺害現場では、機動隊員を殺害しなければならないと思つたとしつつ、同現場では終始傍観しており(BSの3・13(検)、Oの2・17(検))、あるいは事前には、機動隊の阻止線を突破するため、機動隊員に対して傷害に及ぶことは止むを得ないにせよ、これを殺害するまでの意思はなかつた(Iの2・10(検)、Tの2・18(検))と言うのである。次に、埼玉部隊に属するX17(旧姓X17)X17は、他の者と一緒に闘わなければならないと思つたが、具体的にどうするという意思はなかつた(X17の2・1(検)と言い、中野地区反戦に属するX10は、激しい闘争になるとは思つたが、機動隊員を殺害するということまでは考えておらず、中村巡査の殺害現場を見て、本件集団から離脱しており(同人の(証)二通)、豊島地区反戦に属するX16は、ゲリラ闘争をして機動隊を混乱させることを考えていた(同人の原審証言)と言うに止まつている。

 以上の4ないし7を彼此対照して考えると、本件集団の携行した武器のうち、ライター用ガスボンベについては、群馬部隊や埼玉部隊において、これを使用すれば爆弾と同じ効果があるとの話があつたことを窺うことができる(BSの3・13(検)、X17の原審証言)が、これが、通常、人を殺害するに足りる能力があるとは考え難いし、その他の火炎びん、鉄パイプ、工具類についても、装具を着用して、組織的に警備、規制に当たる機動隊に対し、これらを武器として闘つた場合、銃、刀剣などとは異なり、通常、たやすく相手を殺害することのできる武器とは考え難い。右の程度の武器で相手を殺害することができるのは、集団によつて孤立無援の者に暴行を加え得る状況が生じたときであり、本件のような事案において、右のような状況の発生を予測することができるのは、イ 機動隊と正面から衝突しても、集団の側が圧倒的に優勢である場合か、ロ 同時多発的なゲリラ活動によつて、機動隊の組織的な活動が分断され、集団の側が圧倒的に優勢となる場合の二つであつて、本件は、まさしく前者イの場合である。しかし、当日、渋谷地区においては、朝から機動隊による厳戒態勢が敷かれていたことが窺われ(ARの4・12(検))本件集団の個々においても、当然これを予測していたことを推認することとができる(後記のとおり、「前進」には、全員逮捕をおそれる記事さえある。)のであつて、同集団が全体として、事前に前記イの可能性を予測していたとは考えられない。次に、後者のロについては、当日、中核派及び学生インターの各軍団のほか、三三五五渋谷地区に潜入し、喫茶店などで後続を待つ組があつた(司法警察員飯塚晃作成の捜査報告書)と言うのであつて、前記5からすれば、いわゆるゲリラ闘争をすべく予定していたものと考えられ、他方、本件集団は、その行動の経過、態様に照らし、「前進」にいわゆる「正規軍」であり右ゲリラとの結合を図つて、一般民衆をも巻き込んだゲリラ闘争を目論んでいたものと解される。しかし、同時に、前記5によれば、本件闘争の目指したものは、いわゆる解放区闘争であり、これによつて、中核派の力を誇示するとともに、佐藤内閣に打撃を与え、沖縄返還協定の批准を阻止することを目標としたものと言うことができ、この点からすれば渋谷地区に進入するまでは、機動隊の阻止線を突破することが右目標達成への手段でありそのためには機動隊員に傷害を与えることは当然予測することができても、これを殺害することまで、本件集団の全体が、事前に予測し、意識していたとは考え難いところであるまた、関係証拠によれば、当日渋谷地区に進入した後に、機動隊や警察車両に対して火炎びんを投てきし、あるいは渋谷警察署宇田川町派出所に火炎びんや石を投てきし、これに放火しているが、ゲリラ闘争としては、前記6から明らかなとおり、バリケードを築き、線路上に放火したり、あるいは看板、ダンボール等に放火する類いのものであつて、機動隊の警備、規制があつたにせよ、「前後左右ありとあらゆる角度と方法で、」これを分断攻撃する行動に出た形跡のないことや、神山派出所付近における機動隊との衝突後、火炎びんの火によつて背中の衣服が燃えていた長谷川巡査が民家に逃げ込むのを目撃したARは、これを飽くまでも追跡しようとする行動には出なかつたこと(ARの4・12(検)、長谷川信の(証))等を併せ考えると、本件集団が、全体として、いわゆる解放区闘争の名の下に予測し、意識していたものは、道路上にバリケードを築き、あるいはこれに放火するなどして、都市機能を麻痺させることにあつたと解するのが相当であり、そのほかに機動隊員の殺害までを、事前に意図していたとは考え難いところである。

 これを他面から考察すれば、五日付「前進」号外が、「ためらうことなく闘いに突入すれば、必ず勝利できるのである。」「その歴史的使命を達成する喜びに参加できるわれわれは、いうまでもなく、それに値するだけのいつさいの犠牲、あらゆる危険を恐れてはならない。」と言い、また八日付同紙は、「さらに重要なことは、敵側の事前のものすごい恫喝に屈しないことである。」「われわれが「それら一切を何ら怖れない」という態度をとつた瞬間にそれは効力を失うのだ。」「われわれはいかなる弾圧をも怖れない。」「そして、さらに重要なことは、事前にいかなる大弾圧があろうとも一四暴動は不可避であり絶対に勝利することの確信が、最後の勝利を決めるのであることである。一四に対する一切のためらいや、いささかのあいまいさも残しておいてはならない。それは闘争の敗北、決定的瞬間における勝利と敗北とを区別するような決定的要素となることは必至であ」ると主張している。これらの主張によれば、中核派の推進する本件闘争に参加しようとする者の中に、いわゆる「弾圧」(八日付「前進」によれば、「デモ禁止」、「全員逮捕」、「破防法の適用」を弾圧の例証として挙示している。)に対する「ためらい」や「怖れ」を持つ者があることを危惧するからこそ、「いつさいの犠牲、あらゆる危険を恐れ」ず、「ためらうことなく闘いに突入す」ることを唱えたものと見るべきである。「前進」の言う「機動隊殺害」についても、右のような背景を考察する必要がある。すなわち、同紙のいわゆる機動隊せん滅は、読者に対して、その士気を振い起させ、「ためらい」や「怖れを捨てて、機動隊との衝突の予測される本件闘争に参加させるべく、これを呼号している面が強いことも看過し得ないところである。このことは、前記一〇月二五日付「前進」において、機動隊員を殺すことは人民が勝利するためには当然のことだ、という意識が、闘う人民のものとなりつつあり、それが、従来の「価値観を革命し、真に内乱的死闘の時代をかちぬき革命をみずから闘いとつていくことのできる主体の形成への鋭いバネとなつている。ここに機動隊せん滅の闘いを勝利的に貫徹しうる重要な思想的契機があることを、われわれは銘記しなければならない。」と主張していることから見ても、いわゆる機動隊せん滅が、現実の間題としてよりも、むしろ機動隊との衝突に対する、精神的な「ためらい」や「怖れ」を克服するよう呼びかけることに重点があつたことを看取することができるのである。現に、機動隊せん滅ないしは機動隊員を殺害せよとの「前進」の主張あるいは被告人荒川、同星野のアジ演説等に接した者は、これを半ば政治的なスローガンとして受けとめているのである(I、A、X1、X17の原審各証言、Kの2・2、216各(検))。

 さらに、前記7について、事前の段階における個々人の、いわゆる殺意の内容を吟味するときは、真に機動隊員を殺害する意思があつたと言うことができるかどうか疑問を抱かざるを得ない者も見受けられるのである。すなわち、殺意が、空想的、机上の観念ではなく、具体的、現実的な意思でなければならないことは言を俟たないところであり、そうである以上、殺意を形成しようとする際には、これを抑制する作用が働くのが通常であり、本件のような事案にあつては、自己の考えるところが絶対の正義であり、これに反する者は悪であるとし、自己の行動に敵対する者はこれを抹殺する必要がある、との確固とした信念がなければ、たやすくは殺意を形成することができないと言うべきである。このような観点に立つて考察すると、「頭の中に機動隊を思い描いて、殺せとか、せん滅しろと言われても、殺意は起こらない。」とするKの証言(荒川・二一回)は十分首肯するに足り、また、BS及びOが、現場において、被告人星野から「やれ。」と号令され、あるいは同被告人らの犯行を目撃しながら、中村巡査の殺害に加わらず、傍観するに止まつたことからすれば、同人らのいわゆる殺意なるものが、果たして先に述べたような、具体性を持つた殺意であつたかどうか疑問とせざるを得ない。してみれば、群馬部隊参加者の一部に機動隊員殺害の意思があつたにせよ、前記のとおり、I、Tに殺意があつたとは言えず、BS、Oについても、殺意があつたとするには躊躇を覚えざるを得ないところである。また群馬部隊以外の本件集団に属する者についても、前示からすれば、同集団が被告人星野のアジ演説に呼応したことをとらえて、直ちに、全体として、事前に機動隊員殺害の共謀があつたと推認するのは困難である。

 以上述べて来たところを総合すれば、事前における共謀が、共謀者間における合意を必要とする以上、被告人星野、同荒川及び本件集団の一部の者に機動隊員を殺害する故意があつたにせよ、同集団に属する者全体の合意としては、機動隊員に対する傷害の範囲に止まり、到底、事前に、これに対する殺害の共謀があつたとまで言うことはできない。すなわち、本件集団に、機動隊の阻止線を突破することを予測しての殺意があつたとは考え難いところであり、またゲリラ活動の際に、機動隊員を殺害し得る状況の現出すべきことは可能性としても稀有の事態であるから、本件集団の合意として、これを予測しての殺意があつたとも言い難い。原判決には、所論のような事実誤認はない。

2 中村巡査殺害の故意及び実行行為

 所論は、要するに、原判決は、中村巡査の殺害について、イ 被告人星野らの現場共謀による未必的殺意に基づく犯行であるとし、ロ 被告人星野が同巡査に対し火炎びんを投てきしたことを認めていないが、これらはいずれも誤認である、すなわち、イ については、先に主張したとおり、同被告人らの事前共謀が、機動隊員に対する確定的殺意を内容とするものであつたばかりではなく、低抗力を失つて路上に倒れた同巡査に対しガソリンをふりかけ、火炎びんを投げて炎上させたのであるから、確定的殺意に基づくことは明らかであり、またロについては、A(2・16)及びI(2・19)の各検事調書によれば、同被告人が同巡査に対して火炎びんを投てきしたことは明らかである、と言うのである。

 まずイについて判断すると、事前共謀の内容として機動隊員に対する殺意が認められずまた、中村巡査を鉄パイプ、竹竿等で乱打した際の被告人星野らの現場共謀が未必的殺意に基づくものであることは、先に説示したとおりである。しかし、関係証拠によれば、前示のように乱打され、路上に失神して倒れるに至つた中村巡査に対し、ガソリンないしは灯油がふりかけられ(弁護人はこの点に関するO供述を論難するが、同供述は本件殺害現場を目撃したX 20の原審証言によつて裏付けられている。)、被告人星野の号令の下に数本の火炎びんが投てきされたことが認められる。してみれば、右の行為は、関係者の供述に見られるとおり、いわば止めを刺したものと言うべく、この段階においては、「火炎びんを投げろ。」と号令した同被告人はもちろん、右号令に基づいて火炎びんを投てきしたA、ARやその他の者には、確定的殺意を内容とする共謀があつたと考えるのが相当であり、これをもつて未必的殺意を内容とする共謀に過ぎないとする原判決の認定は誤りと言わざるを得ない。しかし、本件のように現場において殺害の共謀をした場合において、その内容をなす殺意が、当初の未必的なものから確定的なものへ推移したときにはその殺意が終始未必的なものに止まるとの誤認があるとはいえ、構成要件的評価自体には何らの異同を生ぜず、また、その一事のみをもつてしては、直ちに量刑を左右するに足りる程度の犯情の差異をもたらすものとも言い得ないから、これをもつて、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認であるとすることはできない。

 次に、ロについて検討すると、たしかに、Aの(検)(2・16)によれば、同被告人と氏名の判らない男も確か火炎びんを持つていたので投げたと思いますとの趣旨を供述しているが、同供述自体から明らかなように、右は同人の推測に止まり、しかもその根拠とするところは、同被告人が火炎びんを所持していたとするに過ぎないのである。さらに同人の2・25(検)によれば、検察官から、「中村巡査に火災びんを投げたのは誰か。と尋ねられたのに対し、「奥深山、私、大坂(但し、判然しない。)、その他数名です。と答え、同被告人の名前を挙げてはいない。これらを対比して考えると、同人の前掲調書をもつて同被告人の火炎びん投てきを認定するには躊躇せざるを得ない。また、Iの(検)(2・19)によれば、同被告人が本件殺害現場で火炎びんを受け取つたことを認めることができる。しかし、同人は、火災びん投てきの状況について、「機動隊員の倒れた足元の方にいた同被告人がいる所から火炎びんが飛ぶのをチラツと見ました。」と言うのであつて、同供述自体、微妙な表現であるが、同被告人が火炎びんを投てきしたとの確定的な認識を表明する供述とは言い難い。以上の次第であつて、原判決が被告人星野の火炎びん投てきをしなかつたのは、着実な認定として首肯するに足りるから、所論は採用し難い。論旨は理由がない。

六 法令適用の誤りの控訴趣意について(弁趣第五点、荒趣第四点の一)

1 所論は、まず、原判決が、被告人星野、同荒川に対し現住建造物等放火、公務執行妨害及び傷害の、同荒川に対する兇器準備結集の各罪につき、いずれも当該被告人の具体的な構成要件該当行為を認定することなく、共同正犯の罪責を認めているが、刑法六〇条は二人以上の者が共同して実行することを要件としているのであるから、原判決には法令適用の誤りがあると主張する。

 しかし、原判決は、判文から明らかなとおり、所論各罪がそれぞれ当該被告人と他の者との共謀に基づく犯行であることを認定判示したうええ、これに対し刑法六〇条及び各本条を適用しているのであるから、所論は、共謀共同正犯の法理を正解しない独自の見解と言うべく、採用の限りではない。

2 次に、所論は、原判決が、被告人荒川に対し、中村巡査に関する刑責を問うのに、法令適用の欄において、括弧書きで、最高裁判所昭和五四年四月一三日第一小法廷判決の見解をとらない旨を判示したうえ、刑法六〇条、一九九条、三八条二項、二〇五条一項を適用したことは、法令の適用を誤つたものである、と言う。

 原判決の指摘する右最高裁判所の判決(刑集三三巻三号一七九頁)は、暴行、傷害を共謀した者らの一部が殺人罪を犯した場合において、他の殺意のなかつた者については、「軽い傷害致死罪の共同正犯が成立するものと解すべきであ」り、「もし犯罪としては重い殺人罪の共同正犯が成立し刑のみを暴行罪ないし傷害罪の結果的加重犯である傷害致死罪の共同正犯の刑で処断するにとどめるとするならば、それは誤りといわなければならない」というものである。そこで、原判決の法令適用を見ると、原判決は、被告人荒川について、その所為が刑法六〇条、一九九条に「該当する」とは言つているものの、続いて、「他の被告人並びに共犯者と傷害の意思で共謀したにとどまるものであつて、殺人の意思を有しなかつたものであるから、その限度で責任を問うこととし、同法第三八条二項を適用し、同法六〇条、同法二〇五条一項の罪の刑で処断す」る旨を判示しているのであるから原判決は、被告人荒川について、責任をも含めた意味で殺人罪の共同正犯の成立を認めたものではないことが明らかである。してみれば、原判決は、未だ右最高裁判所の判決に反しているとは言えず、法令適用の誤りがあるとは言えない。

3 所論は、原判決が、被告人荒川について、傷害の共謀を認定するに止まるのに、同被告人に対し、結果的加重犯である傷害致死罪の共同正犯の刑責を認めたのは、法令適用に誤りがあると言う。しかし、傷害の共謀をした場合において、共謀者の一部の実行行為により、被害者が死亡したときには、共謀に参加したに止まる者も、傷害致死罪の刑責を負うのは当然の事理であり、所論は独自の見解と言わなければならない(ちなみに、所論は超法規的違法性阻却事由ないし抵抗権についても云々するが、これらの主張を容認すべき法律上の根拠はなく、被告人らの所論各所為について、犯罪の成立を阻却すべき事由も何ら存在しないのであるから、所論は採用の限りではない。)。論旨は理由がない。

七 量刑不当の控訴趣意について(検趣第二点、弁趣第六点、荒趣第六点)

 原判決は、被告人両名について、公務執行妨害、傷害及び現住建造物等放火の各罪の成立を認めたほか、被告人星野については兇器準備集合及び殺人の、同荒川については兇器準備結集及び傷害致死の各罪の成立を認めたうえ、同星野に対し懲役二〇年の、同荒川に対し懲役一三年の刑をそれぞれ量定している。これに対し、検察官は、原判決の刑が軽きに失するとして、被告人星野に対しては死刑、同荒川に対しては懲役二〇年の刑を科するのが相当であると主張し、他方、弁護人及び同荒川(以下弁護人らと言う。)は、原判決の量刑は重きに過ぎると主張する。

 ところで、検察官及び弁護人らの双方とも、それぞれ原判決には事実誤認があるとし、自己の主張する事実を前提として原判決の量刑の不当を主張するが、原判示事実に関する当裁判所の判断は前示のとおりであるから、右判断の結果を前提とし、その余の情状につき、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて、以下原判決の量刑の当否を審査する。

 本件犯行は、中核派が主導し、これに同調する学生、労働者らの集団ないしはその一部分子によつて惹起されたものである。すなわち、中核派は、昭和四六年に入るや、それまで一時休止していた武装闘争の方針を再び闡明するに至つたが、いわゆる武装闘争とは、機関紙「前進」によれば、暴力革命を指向して一九七〇年代を内乱的死闘の時代と規定したうえ、機動隊に対して、これを権力機構打倒への障壁をなるものとして敵視し、これとの死闘を戦い抜いた暁に初めて革令を勝ちとり得るとするものであり、また、本件闘争については、革令を達成すべき戦略の一環として沖縄返還協定批准阻止を呼号し、渋谷地区に無法状態を現出してこれを混乱に陥し入れ、もつて社会不安を醸成しようと意図したものである。本件犯行中、兇器準備集合ないしは同結集、公務執行妨害、傷害及び現住建造物放火は、いずれも右のような中核派の主導による、一連の集団的、計画的、組識的犯罪と言うことができ、他方、先に説示したとおり、本件集団一般に機動隊せん滅すなわち同隊隊員殺害の意思があつたとまでは言えないものの、中村巡査の殺害は、中核派の主張を信奉した一部過激派分子において、集団一般の意思をこえ、突出して敢行したものと見るべきである。

 次に、本件犯行の態様及び結果を、その主要なものについて見るに、本件集団は、イ

渋谷道玄坂方面へ進入しようとして機動隊の規制、阻止に遭遇するや、これに火炎びん多数を投てきし、攻撃して機動隊員三名に原判示傷害を負わせたが、特にそのうちの一名は今なお後遺症に苦しむという、重篤な火傷であり、ロ 行きずりに神山派出所に火炎びんを投げつけて、その一部を焼燬し、さらに、本件集団の一部の者において、追跡を振り切ろうとする中村巡査を補捉し、数名で取り囲んだうえ、鉄パイプ、竹竿などで、短時間で同巡査が昏倒する程の乱打を加え、さらに倒れた同巡査に対して数本の火炎びんを投げつけるという残忍な手段により同巡査を火傷死させるに至つたが、以上はいずれも白昼公然と敢行されたのであつて、犯行の態様は極めて悪質であり、惹起した結果もまた重大である。従つて、これが社会に与えた衝撃、不安は甚大であつたと言わなければならない。

 さらに、被告人両名の犯情を見ると、被告人星野は、組織の決定によつて本件集団の最高責任者となり、国鉄中野駅その他において、右集団に対しアジ演説を行つてその意思の統一を図るとともに、士気を鼓舞し、機動隊と遭遇するや、これに対する攻撃を命じて多数の火炎びんを投てきさせ、さらに中村巡査の殺害に際しては、自ら鉄パイプで同巡査を殴打するとともに、これに対する火炎びん投てきを命じているのであつて、その刑責は極めて重大である。

 被告人荒川は、一一月初旬から本件闘争へ向けて、中核派に同調する学生らに対してこれへの参加を慫慂し、各種の会議においてその士気の高揚に努めるとともに意思の統一を図り、また、動揺する奥深山を叱咤激励して本件闘争への諸種の準備を進めるなど、群馬部隊参加者の事前共謀の成立に主導的役割を果したものであり、その刑責は、本件各現場における実行行為を分担しなかつたとはいえ、これまた重大と言わなければならない。

 弁護人らは、本件闘争の政治的目的などの正当性を主張し、これを前提として、本件犯行が止むを得ないものであつたとか、被告人らを処罰することは、結局思想を処罰するものであつて許されないと言い、また、警備に不手際があつたとして、その責任を云々するしかし、本件犯行の性格が前示のとおりである以上、犯行の動機としてこれらを酌量すべき余地はない。すなわち、憲法にいう議会制民主主義とは、多言するまでもなく、国民の間に諸々の政治的意見の対立があることを当然の前提として、これを止揚し、調和を図るべき責務を国会に負託し、その機能は、結局、選挙を通じての国民の選択により確保しようとするものであつて、同制度は英知の所産と言うべきである。従つて、自己の主張するところを絶対的正義とし、国会を無用視したうえ自己の主張を貫徹すべく、暴力の行使を敢えてするが如きは、到底憲法及び刑罰法規の容認するところではなく、これが思想を処罰するものとは言えないことも明白である。また、被告人らは、機動隊との衝突を当然起こるべき事態として予期していたのであるから、警備の不手際の有無は、何らその刑責を左右する事由とはなり得ない。

 次に、弁護人は、被告人星野が本件集団の最高責任者となつたのは、予測に反する事態の発生によるものであり、かつ、本件は当初の計画の変更による偶発的な出来事であるとか、神山派出所付近における機動隊との衝突後は、指揮統制が崩壊していたと主張する。しかし、前者については、たとえ当初の計画が変更され、かつ、予測しない事態の発生があつたにせよ、本件集団の行動は、客観的情勢の変化に対応し得べき、事前の周到な計画の下になされたことを窺うに足り、他方、同被告人の本件当日における指揮の態様を見れば、同被告人においても十分右計画を了知していたことが認められるから、所論諸事情をもつて、同被告人の本件集団の最高責任者としての刑責を左右するものとはなし難い。また中村巡査の殺害について見ると、所携の鉄パイプで無抵抗の同巡査を殴打したうえ、倒れた同巡査に火炎びんを投げるよう命令した同被告人の行動の経過に鑑みれば、同被告人は中核派の標榜する暴力革命を信奉し、いわゆる機動隊せん滅を実践したものと言うべくこれが偶発的な出来事とは考え難い。次に、後者については、神山派出所付近における機動隊との衝突後、その一部を追跡するに急な余り、本件集団を全体として見ると、一時必ずしも統制のとれた行動がなされていないことは所論のとおりであるが、その後中村巡査に対して火炎びんが投てきされるや、同被告人は、同集団の態勢を立て直し、これを率いて東急本店方向へ進入したのであるから、その指揮統制が崩壊していたとまでは言えない さらに、弁護人らは、被告人両名の刑はいずれも部下の刑との均衡を失するなどとも主張する。しかし、中村巡査の殺害に加担したA、K及びARに対する量刑を見ると、Aは成人に達した直後に懲役七年に処せられ、犯行当時一六歳に過ぎなかつたARは懲役五年以上七年以下に、また竹竿の殴打に止まるKは懲役三年以上五年以下に処せられているのである。少年法が少年に対する不定期刑の長期の上限を一〇年、短期の上限を五年とそれぞれ制限していることに鑑みると、同人らはいずれもそれなりの重刑を科されたものと言うべく、また、被告人ARは、前示のように事前共謀の成立に主導的役割を果したことなどからすれば、同被告人同様、中村巡査殺害の実行行為自体に関与しなかつた他の共犯者らが、同巡査に対する傷害致死の刑責を問われてはいないとはいえ、これと共犯者との均衡を重視し過ぎることは相当とは言えない。

 以上縷説したところに、被告人らは、いずれも本件犯行後現在に至るまで、被害者ないしは遺族に対して慰藉の途を講ずることがないのは勿論、反省の情さえ示さず、却つて自己の正当性に固執していることを併せ考えれば、被告人両名について、それぞれ厳しくその刑責が問われるのは当然であつて、到底原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは言えない。弁護人らの論旨は理由がない。

 転じて、検察官の所論について見るに、被告人荒川に関し、殺人の共謀の成立を前提とする主張の首肯し得ないことは前示のとおりであるところ、同被告人において本件各現場における実行行為自体を担当してはいないこと、他の共犯者との刑の均衡などからすればその他諸般の情状を考慮しても、同被告人に対する原判決の量刑は相当と言うべく、これが軽過ぎて不当であるとは言えない。同被告人に関する論旨は理由がない。

 次に、被告人星野は、中核派の組織決定により本件集団の最高責任者となつて本件犯行に至つたものであるところ、就中、中村巡査の殺害については、前示のとおり、中核派の主張を信奉して、白昼公然と、孤立無援の同巡査を捕促し、これを取り囲んだうえ、見るべき抵抗をもなし得ない同巡査を他の者とともに乱打したのみならず、確定的殺意をもつて昏倒した同巡査に火炎びんを投てきするよう命令し、その結果、これを火傷死させるに至つたのである。その動機において酌量の余地がないことは勿論、犯行の態様の残忍性、結果の重大性などからすれば、右殺害自体が事前の共謀に基づくものではなく、従つて計画的犯行とまでは言えないことや、他の共犯者との刑の均衡などを考慮しても、右殺人につき有期懲役刑を選択したうえ同被告人を懲役二〇年に処するに止めた原判決の量刑は軽きに失し、原判決は破棄を免れない。同被告人に関し、論旨は理由がある。

第三 結語及び被告人星野に関する自判の判決

 以上の次第であるから、被告人荒川につき刑事訴訟法三九六条により本件各控訴を棄却し、同星野につき同法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、同被告事件について、さらに次のとおり判決する。

 被告人星野について、当裁判所の認定する罪となるべき事実は、原判示「罪となるべき事実」中、被告人奥深山とあるのを奥深山と読み替え、かつ、原判決三二丁五行目から八行目までの「右の者ら及び右状況を認識して同様に未必の故意を抱きこれらの者と意思相通じて同巡査をその後順次取り囲むに至つた前記集団の者ら数名において、被告人星野の指示のもとに、」とあるのを、「右の者ら及び同巡査をその後順次取り囲むに至つた前記集団の者ら数名は、被告人星野の火炎びん投てきの指示のもとに、同巡査を殺害しようと決意し、その意思を相通じたうえ、」と訂正するほか、原判決の認定した「罪となるべき事実」と同一である。右事実に原判決の適用した罰条を適用し、これと同一の科刑上一罪の処理をしたうえ、原判示第一の一及び同第二の一の各罪につきそれぞれ懲役刑を、同第二の二の罪につき有期懲役刑を選択し、さらに同第二の三の罪につき、同被告人に有利及び不利な、前掲諸事情を総合考慮して無期懲役刑を選択するが、以上は刑法四五条前段の併合罪であつて、同法四六条二項により他の有期懲役刑を科さないこととなるから、被告人星野を無期懲役に処し、同法二一条により原審における未決勾留日数中一、〇〇〇日を右刑に算入する。なお、被告人星野の原審における訴訟費用及び被告人両名の当審における訴訟費用の各負担につき刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して主文のとおり判決する(裁判長裁判官 草場良八 裁判官 半谷恭一 裁判官 須藤繁)