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星野文昭氏に関する3人の供述人の供述の正確さに関する心理学的鑑定
(その2)
平成23年1月 31日
日本大学文理学部心理学研究室
教授 厳島行雄 文学博士

名古屋大学大学院環境学研究科
准教授 北神慎司

目次

第4章 実験的検証
 第1節 シミュレーション実験の必要性
 第2節 本件における鑑定実験の具体的な意味
 第3節 目的
 第4節 実験方法
 第5節 実験結果

第5章 供述調書から認められる目撃供述に影響した諸要因の検討
 第1節 符号化段階に影響した要因の同定
 第2節 保持段階に影響した要因
 第3節 検索段階に影響した要因の同定
 第4節 まとめ

第6章 供述人の声の識別に関する正確さについて
 第1節 本章で扱う声の識別の正確さ判断の基本的立場
 第2節 星野氏の声を聞いたとするKr、Ao、Ar各氏の耳撃供述の正確
     さに影響した要因について
 第3節 符号化段階の要因の検討
 第4節 保持段階に影響した要因
 第5節 検索段階に影響した要因
 第6節 第6章のまとめ

第7章 本鑑定書のまとめ

第8章 鑑定事項に対する回答
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添付資料
 想起に使用した調査票「風船割り実験の記憶想起のお願い」
 実験風景の写真集
 表1 各班の行動の記録
 表2 殴打実験の結果
 表3 Kr・Ao・Ar各氏の供述調書一覧
 
第4章 実験的検証

第1節 シミュレーション実験の必要性
 本件の殴打場面を中心にした目撃に関するKr氏、Ao氏、Ar氏の供述は供述を繰り返すたびに、出来事に関する供述内容が詳細化していった。このことは言い換えれば、逮捕直後の記憶の報告は相当単純であり、出来事の報告がほとんど詳細さに欠ける点と対照的である。目撃証言の心理学研究は、尋問を繰り返すたびにその報告が現実の出来事とは異な る方向で(つまり誤って)、ますます詳細化すること、そして供述人の記憶の正確さに対する自信度が高まっていくことを示している。
 もちろん、本件ではあきれるほど多数回の尋問がなされていることは、その供述調書の数を見ても明らかである。しかし、現実にKr氏、Ao氏、Ar氏らの目撃時の記憶がどの程度であったかを推定するのは、彼らの供述調書から推測することは不可能である。そこで、現実に類似した殴打場面を目撃し、自らもそういう場面に加わるという状況を設定し、果たしどの程度の記憶が可能なのかを、示すことができる方法を考える必要がある。どのような方法があるであろうか 。もっとも有効な方法は、シミュレーションを基本とする実験の方法である。
 本件の供述人たちは、その目撃の状況や本人たちの心理状態から、彼らが殴打事件を中心にその前後の記憶を持っていたとしても、その記憶の正確さを損なう多くの要因が関与していたことを、そしてそれらの要因が関与することで記憶の遂行が極めて貧しいものであることを、目撃証言心理学の研究から指摘できる。しかしながら、そのような指摘はあくまで可能性の指摘であり、どの程度の記憶を形成できたのかは、やはり、類似した状況での記憶遂行のデータを取得して、その様態を明らかにっする以外にないのである。
 そこで、本章では、そのような実証的検討を行うことを試みる。この試みによって、Kr氏、Ao氏、Ar氏の本件での記憶の水準がどの程度であったかの推定が可能になるのである。

1. フィールド実験によるアプローチの有効性
 これは現実の出来事に近い条件での実験的検討であり、ある種のシミュレーション実験である。実験室実験のような厳密な意味でのコントロールはなされないものの、目撃証言に影響したと推定される変数を現実場面に近い条件で検討しよ うという試みである。つまり、現実的なフィールドのセッティングで、目撃に具体的に関与した条件を考慮して、コントロールされた実験を行なうことで、実証的検討ができるように工夫されている。
 このタイプの研究としては、日本では自民党本部放火事件の鑑定(一審:厳島の鑑定書, 1991;二審:厳島・伊東・仲・浜田の鑑定書、1994)、皇居迫撃砲事件における鑑定書(厳島, 1995)などがそのようなアプローチを採用しているが(論文として読むことができるのは、厳島1994, 1993, 1992;仲, 1998;NASA, Itsukushima, & Itoh, 1996; 仲・伊東 ・厳島, 1997)、海外にもこの領域の研究はあるが、その数は少ない(Brigham. C., Maas, A., Snyder, L. D., & Spaulding, K. (1982), Krafka, C., & Penrod, R. (1985); Pigott, M.A., Brigham, J.C., & Bothwell, R.K. (1990); Platz, S.J., & Hosch, H. M. (1988)など)。その数が少ないのは、諸外国の専門家証言では、多くの場合、専門家証人 は当該の目撃証言に関与した、目撃証言の信用性を損なうような要因の指摘を、心理学研究を行っている専門的立場から 指摘するというレベルで済む事情がある(Loftus & Ketcham, 1991)。つまり専門家は一般の人では得られないような高 度の知識を有する専門家として、意見を述べることを要求されている。日本でもその辺りの事情は変わらないが、他人の 科学的研究結果を紹介するだけでは済まされず、その事件そのものの目撃供述の信用性を検討するように要求されるのが 一般的であろう。

第2節 本件における鑑定実験の具体的な意味
 本実験はKr氏、Ao氏、Ar氏の供述に示されている内容、つまり彼らが供述するような記憶の内容が、現実に起こり得るのかどうかを検証することにある。この検証を行なうためには、科学的に客観的な検討が必要であり、主観的な判断は排除されなくはならない。そのためには彼らの供述のような殴打回数、武器の種類、殴打現場での位置関係等の記憶が、類似した出来事を経験する誰にでも起こり得るのかどうかを検討しなくてはならない。そして、確定審が依拠するような各氏の供述調書の内容が、果たして現実にはあり得るのかどうかを検討する必要がある。
 そのためには、Kr氏、Ao氏、Ar氏の受けたような事情聴取を行わずに(つまり事情聴取という形での記憶の汚染を避けて)、類似した状況を再現して、その状況の記憶がどのような内容を持ち、どれほどの詳細さを有するのかを客観的に明らかにする必要がある。検証すべき仮説は、彼らの供述が真であるかという命題であり、それがどれほどまで確からしいか、言い換えれ ばそれが起こり得る可能性を調べることである。ここで、しかし、彼らが実際に経験したとされる状況を、すべて同様に 再現することはもちろん不可能である。そこで、ここでは彼らの目撃した状況を十分考慮して客観的状況を再現し、また目撃証言の心理学で明らかにされてきた要因に注目し、供述人の目撃に影響したと考えられる要因を客観的に吟味し、そ の条件に近い状況を用意して再現実験を行なうことである。
 以上のことをさらに説明すれば、供述人たちが経験した様々な条件に類似させることはもちろんであるが、ここ での目撃者をそれらの供述人たちに似せることはできないので、同じような世代の、多くの参加者を用意して、目撃者要 因がランダムな変数となるように工夫し、実験を行なうことが重要である。つまり、目撃者要因に関しては、能力も性格 も異なる多くの人物に参加者として実験に参加してもらって、それらの人物の特定の遂行(目撃であれば記憶の成績)の 分布を見て、実際の目撃者の推察される記憶がどの範囲にあるのかを判断するという方法を採用することである。つまり 証言の内容がどの程度の確からしさで起るのかについて検証しようというものである。
 また環境要因(出来事要因)についてはある程度類似させることが肝要であるが、供述人の経験した出来事と同 等もしくはそれ以上に記憶を促進するような設定がなされるべきであるという点である。その理由は、もし、この設定が 実際に起った出来事よりも記憶できない方向で設定されるならば、それは実際の証言の鑑定にはならないということである。これは原理的に(論理的に)、実験結果が目撃証言の信用性を否定する方向で得られたとしても、それが目撃者の信 用性に起因されずに、条件設定のまずさに起因することになり、正しい検証になりえないからである。つまり、条件設定 を現実に起った事件よりも悪く設定することは、原理的に証言の信用性の検証にならないということである。もちろん、争いのない事実もしくは条件に関しては、そのままの事実や条件を用いることは当然のことである。
 明確でない条件に関しては想定される条件よりも幾分とも記憶されやすい方向での設定を行なうべきである(もちろんこれがあまりにも極端であると、また再現実験にはならない)理由は以上である。そして検証のための条件は客観 的で、すべて透明にされ、その後の追試が可能なようにしておかなくてはならない。

第3節 目的
 本実験では、本件のような殴打の場面を正確に再現することが目的ではない。もちろん再現そのものは不可能である。 大きな集団を機動隊と対峙させるなど、できる相談ではない。そうではなくて、殴打の対象を物(本実験では風船)にして、それらを一定の条件のもとに殴打して、果たしてそのときの殴打に関する諸特性をどの程度記憶しているかを確かめようというものである。
 このような設定は、基本的に過去の情動と記憶の心理学研究から判断して、本件の供述人の置かれた環境から生起する情動体験よりも弱いものであり、記憶の心理学からすれば、記憶遂行は本件の供述人のそれよりも優れる可能性が指摘で きる。しかも、実験という枠組みであるが故に日常から切り離された出来事であるために、その出来事自体が非日常的で あるために、例えば、2ヶ月前の朝食がなんだったかを思い出すような、類似した経験による干渉が避けられるために(2 ヶ月前の朝食が何であったかなど、正確に想起できるものではない)、よりよい記憶遂行が得られると推察されるのである。
 ここで、彼ら供述人の記憶と同様に詳細な報告が、本実験の参加者からなされるのであれば、供述人たちの記憶は正確 である確率が高くなり、彼らの供述された記憶は正しいと判断されよう。然るに、その様でない場合には、彼ら供述人の記憶情報の起源が出来事の原体験にあるのではなく、他の情報源からもたらされたと判断せざるを得なくなる。
 次章で指摘するように今回の鑑定が対象としたKr氏、Ao氏、Ar氏の3名の供述は、従来の記憶の心理学や目撃証言の心理学が明らかにしてきた科学的事実と異なり、異様な詳細化がなされたものであった。そのような詳細化がなされたのは、彼らの実際の経験の記憶が供述調書の作成開始時点で曖昧であり、出来事の詳細まで記憶されていないために、捜査側の誘導尋問に応じてしまった可能性が高いと解釈される。そして、そのような誘導が様々な情報提供ととともになされたために確定審が採用した調書が出来上がったのであるが、本実験では、そのような誘導がなされない場合の記憶の状態がどのような記憶であるのかを示す事を目的としている。前述したように、本実験で3氏の調書に見られるような記憶が再現されるのであれば、誘導等がなかったことになるであろうし、逆に3氏の供述が示すような詳細さが認められなければ、3氏の供述に問題があることになる。

第4節 実験方法
 具体的な実験方法を以下に記す。

実験参加者
 本実験では、20歳前後の学生が好ましい参加者である。そこで、大学2年生を中心に協力を求めることにした。幸い鑑定人は22名の基礎実験の実習のクラスを担当しているので、心理学科の第2学年のこの授業に出席している学生さんに 、参加を依頼して実施することとした。22名が参加した。これらの学生は4月の初旬から始まったこの授業に毎週参加することが義務づけられており、各班の構成は基本的に変わらない。後期に新たに参加する者もいるが、逆に抜ける者もいる(単位の充足している3年生以上)。このような理由から、基本的に顔をよく知っているし、実験では班単位で実験を行っていくので、実験の実施、データの解析、レポートの作成等で一緒に作業する事が多いという授業である。そして、この授業は4人一組で班を構成し、1年間の授業をこの体制で行っていく実習の授業である。また各班の間でもデータの共有や、データ処理の方法、実験遂行でも協力し合うので、お互いがよく知っているメンバーである。すでに3回の授業を4人一つの班でこなしており、さらに1年次にも語学の授業、専門の演習等で一緒のものも多く、お互い顔見知りの間柄である。
 また彼らの視力は矯正視力で問題なく、他の色彩実験に参加等してもらっていて、色覚の異常もない参加者であった。実験日時および場所 実験は平成22年4月28日水曜午前中に、厳島担当の心理学基礎実験実習の授業終了後に実施された。実験の場所は、日 本大学文理学部本館5階にある心理学実験実習室であった。この部屋にはゆったり4人が座ることのできる実験台が九つ 用意されていて、実験のための風船はこの部屋の南西端に置いてある机を用いた。添付の写真集を参照されたい。

実験手続き
 授業の内容が終わったところで、新たな実験を行うので協力して欲しい旨を伝えた。カバーストリーは以下の通りである。つまり、共同で事に当たるとき人はどのように行動するかの社会心理学的実験であるという内容を、まず全体に対して説明した。
 次に、4班に分かれて実施する旨を伝え、班構成を行った。通常の授業における班構成は、4人1班で、受講生が22人で あるから、4人の班が5班と2人で一班という構成であった。そこで、6人構成が2班と5人構成が2班とすることとした。これは今回の供述人の多くの供述調書に、「6人程度が被害者である警察官を取り囲み、殴打した」旨を供述しているからである。
 これらの4班を構成し、その後、各班の実験への参加順序を決定するために、代表者を選出してもらった。代表者はジャンケンにて順序を決定し、勝った者の班が1番、次が2番、・・・というように実験を行うこととした。
 以上の順序が決定してから、全体に対して、本実験の目的は、共同して風船を割るという作業をどのように効率的に行っていくのかを調べるものであると伝えた。また効率を追うために、当然効率が良ければたくさんの風船を割ることができるはずであるので、これを競争事態とし、一番多く割れたチームには500円のクオカードを各自に2枚、他の2位以下のチームのメンバーには参加の御礼として1枚を提供する旨を伝えた。これは殴打への動機付けを高めるために行った処置である。
 実験は一度に一班で行うこととして、他の班は部屋から出て行き、本館5階のエレベータ前のホールで待機した。

用意した道具と道具の選択について
 風船殴打の道具については添付の写真集に示したものを使用することとした。この道具に関しては、事前の予備実験で割れにくいものを選び、さらに道具の先を布で巻いて、風船を割りにくくした。これらの道具の選択も、ジャンケンを行って、1番の勝者から順番に好きなものを選べるようにした。用意した道具は具体的には写真1に示したもので、6種類が用意された。それらは、ビニールの竹を模したもの、角材、ステッキ、塩ビのパイプ、麺棒、ビニールのバットであった。バット以外は風船を割りにくくするために、先端を布きれで覆って黒の絶縁テープで固定した。

風船割りのルールについて
 一人が数回ずつ殴打を行い、その回数は、1)各自が勝手に決定してよいこと、2)その数は基本的に5回を超えないこと、3)殴打の順番は道具の選定に続いて行ったジャンケンの勝者から順番に行うこと、4)殴打の順序を決めるジャンケンは、風船の置いてある机にその班のメンバー5人ないし6人がランダムに位置についてもらい、その位置は固定して行うこととした。またジャンケンで殴打の順序が決まったら、自分の殴打の前の人と後になる人を確認させた。

殴打時間
 殴打の時間は第2次再審請求書「第5章、第1 時間の流れからすれば、殴打行為は不可能である」で示されているように比較的短い1分にも満たない出来事であったことが推察されるが、約1分15秒間とした。この時間は鑑定人がストップウオッチを所持し「用意、始め」の合図でスタートし、「止め」の合図で終了させた。スタートして殴打行動が止まるような時には、プロンプトとして「はい次、次の人」のようなかけ声をかけた。

風船
 用意された風船は中6個、大6個で、合計12個であった。大6個のうちの2個はヘリウムガスを充填し、机上に浮かせて紐で机に繋がっていた。他の風船も紐により机と繋がっていた。これらの風船の数は事前の予備実験を行い、1分15秒ですべてを割ることが難しいように設定されていた。風船の配置は横長に縦3列、横4列とし最初の列が、大小大小、2列目が大小小大、3列目が小小大大となるように配列した。ヘリウムの入った浮く風船は2列目の端に用意された。写真集を参照のこと。

実験事態の記録化について
 実験は2台のビデオカメラによって記録した。これらのビデオカメラは1台が部屋の南東の隅に、もう一台が北西の隅にくるように三脚にて固定し、各班の班員の行動が記録できるようにズームの程度を調整し、録画した。また数グループについては鑑定人がカメラ撮影し、それらを写真集として鑑定書に添付した。

想起の方法について
想起の期日
 殴打実験が行われたのは2010年4月28日であった。本件が発生したのは1971年11月14日であり、実際に供述がとられるようになるのは翌年の2月の初めあたりからである。つまり、出来事の経験から想起までの時間経過が2ヶ月半ほどあることになる。そこで、本実験でも出来事の経験から想起までを本件よりも幾分とも早めて約2ヶ月後とし、2010年6月30日(水)に行うこととして、想起を実施した。これは本件における3人の供述人の条件よりも、本実験の参加者で記憶の正確な想起が幾分とも良くなる可能性を残した条件設定である。想起は実験の授業の後に行った。またこの日の授業に休んだ学生には、その後に想起を求めている(7月14日に2名)。想起に用いた用紙は別紙に示すとおりであった。さらに想起に際しては、風船をたたいたときの心理状態についても質問した。想起に参加できない者が1名いた。

第5節 実験結果
 まず、想起の内容を検討する前に、実際に各班の班員がどのような道具を選び、どのように配置され、どのように殴打したのかを撮影されたビデオ映像から確認、記録化した。これが参加者の原体験の記録であり、殴打の記憶の{正解}となるものである。この参加者の行動を表1に示した。
 表1には、各班における参加者の殴打順序(ジャンケンで決定)、殴打道具(ジャンケンで選択)、そして各巡の殴打回数の結果が示されている。これに対して、表2には参加者が約2ヶ月後に想起した結果が示されている。なお、一人は授業を休んだために想起できなかったので、以下の結果は想起に参加した21のデータの報告である。
 以下、主要な結果を表2の項目に従って示すことにする。

1)自由記述について
ここでは、「風船割りがどのような手順で、進められたか(その風船割りはどのように進行していったか)できる限り詳細に説明してください。」と尋ねた。もちろんこの出来事は実験の前からの説明から始まって、実際の殴打が終わるまでのものであるから、それなりの長さを持つ。しかし、そのような出来事でも、言葉で説明するとそれほど詳細にはならないことがわかる。想起参加者の記憶の全体像をつかむために、彼らの記述した内容をすべて以下に示すこととしよう。

S1(参加者番号)
グループ分け。順番決め。グループ内でじゃんけん→何でたたくか決める。順番に割る(何回たたいてもOKだけど10回以内で)
この参加者では、いくつかのルールが記憶されている。しかし、詳細な手順についての想起が無いことがよくわかる。

S2
謝礼が用意されていた。4~5人のグループをつくり、グループごとに教室に入り、実験を行った。参加者グループは、風船の用意が済むまで教室には入れない。実験中はビデオカメラをまわしていた。教室に入ると、実験の説明があり、その後、好きな棒を選び、風船がある机の周りに、メンバーでかこむように立った。時間には制限があり、風船を割るのは1人ずつ、割れないと思ったら他の人が割る。

S3
5人1組になって、まず風船割りについて説明された。説明が終わると、ジャンケンをして勝った順からそれぞれ好きな風船を割るための道具を選んだ。その後、机を囲うように立ち、1人ずつ叩いた回数を数えながら風船を割る。このとき叩く回数は少なすぎず多すぎず叩いた。叩き終わると次の人が同様にして風船を割る。これを3分ていど繰り返して風船割りは終了した。

S4
5・6人のグループをつくる。たたくものをじゃんけんで勝った順に選ぶ。風船が設置された机を囲む。1人数回たたいたら次の人に交代(時計回り)

S5
各班(4人くらい)で行い、部屋には、実験に参加する班と先生、実験者だけがいる状態であった。様子を記録するためのカメラがあった。班内でジャンケンをして、風せんを割るための道具を順番に選んでいき、1人1つの道具を持って、風せんのつけられたテーブルを囲む。風船を割る順番は、スタートする前に決め、1人数回、自分の順番のときにつき、風船をたたくことがゆるされた。制限時間は確か3分程であった。結果を先生が黒板に書き、実験は終了した。

S6
グループに分けて、順番を決めたら、風船割りを行うグループのみが教室に残り、後は外でいる。風船割りを行うグループはじゃんけんで勝った人から棒を選び、約1~2分間の間、それぞれ1人ずつ数回風船をたたいて割ることを繰り返した。

S7
説明を受け→道具を選び→順番を決めて→さつ影しながら、タイムを測定して、所定の位置につき、始めた。

S8
実験者の人が来て、私たちはいくつか分けられる。先生と実験者が、説明している間に入り口側の1番前のテーブルで知らない人が、風船にテープを付けたりひもを結んだりして準備をしていた。先生が、参加者にはクオカードが与えられること、また1番になったグループにはカードが2枚与えられることを説明する。私たちのグループは1番目に実験に参加することになった。実験は窓がわの前の机で行なわれ、風船を割るためのどん器はその横の真ん中の机におかれた。私たちのグループのメンバーはじゃんけんで自分の使うどん器をえらび、風船を割る机を囲む。私は1番にじゃんけんに勝ったので、木の先に白い布がまかれた棒をえらんだ。風船は順に1人1人たたいて→外に出る。
 この参加者のものが最も詳細に出来事を説明した文章である。この程度の記憶の表現が相当良く語られたものと判断されよう。ただ、さらなる結果を見て、実験で得られた彼らの記憶の状態を見ていくことにしよう。そして、本件のKr氏、Ao氏、Ar氏の確定審が採用する供述調書の内容と本実験の参加者の記憶が、その詳細の水準において異なるのか見ていくことにしよう。以下に示すのは、説明が少ない参加者の例である。具体的な想起内容を示すものであるから、参考のために示しておくことにする。

S9
教室から一旦退出させられて、各グループごとに呼び出されて入室、机の上には10個ほどの風船が固定されていた。風船を割る道具(いろんな太さの棒)を選ぶように言われ、各自道具を手にすると、時間内に風船をたたき、割るように指示された。そして一人ずつ順番に風船をたたいていった。

S10
グループにわかれてそれぞれ別の種類の棒を持って1人ずつ順番に風せんを割る(割ろうとする)。

S11
みんなでバットや、棒を好きなものをジャンケンでえらんで、30秒の内に1人1回風船を叩いて、割れた個数であらそった。

S12
5~6人のグループに分けられた。「スタート」と言われてから1分?(3分?)の間に自分で叩く回数を決めて割れても割れなくてもその回数になったら次の人へ順番を回す。それぞれみんな違う道具を使った。

S13
まず何を使って風船を割るかを決めて、その後テーブルの周りに集まり、割る順番をじゃんけんで決めました。時間内にできるだけ風船を割るように思いっきりたたきました。

S14
先生からの説明→自分の班の番がくるまで待機→自分の班の番になるともう1度先生から説明を受ける→風船を割る道具を選ぶ→風船割り開始→終了→割れた風船の数をかぞえる→次の班を呼びにいく?。

S15
グループ分けする→1グループずつふうせんわりする。そのあいだ他のグループはろうかでたいき→自分の番になったら部屋に入り、まず道具をえらぶ。→実験が始まったら、1人ずつ風船をわっていく。1人数回ずつたたいて、われなかったら次の人にいく。これを時間いっぱいくりかえす。→さいごのグループが終わったら全員部屋に入って結果発表

S16
男女をまぜて5~6人のグループを作り、参加しているグループ以外のグループは部屋の外でまつ。参加者は用意された
棒(プラスチックのバッド、太さのちがう木の棒)を1人1つずつ選び、ふうせんがしかれた机を囲んで立つ。1人3~5回ずつたたき、1分間行われた。時間いっぱいまで、1人ずつたたき、何周もやった。

S17
入室してまず、参加者がそれぞれ風船の置いてある隣の机にある棒状のもの(バット、ビニール製のパイプみたいなものなど)を1つ選び、次に風船を叩く順番を決め、さらに心の中で何回打つか決めて、その回数分だけ順々に風船を叩き制限時間内ずっとローテーションを続けた。それが終わると退室した。

S18
厳島先生より、実験協力を授業の中で行うとのことで参加した。やった日は忘れてしまったが、複数の大学生と協力者の指示の元で、行われた。机に座っているグループごとにわかれて実施。教室に入ると机の上に風船がたくさんあった。割る前に、割るための道具を選ばされた。木の棒や、プラスチックのバット、細い棒(あといくつかあったと思う)があり、自分は木の棒を選んだ。風船は思ったより割れず、自分は1個も割ることができなかった。グループでは、5~6個われた気がする。その後全部の班が終わり、自分の班は2位だった。協力のお礼にクオカードがもらえ、1位は2倍だった。

S19
簡単な説明を受けた後、実験を行う班以外は部屋の外で待機する。部屋にいる班は風船を割る道具の説明、風船を割っている所をビデオで撮ることを説明される。時間は約1分。各自が道具を持ち、(推奨された方法である)1人数秒叩いたら次の人に交替、という流れであった。道具は細い棒やプラスチック制のバットなど。

S20
机の上に道具があり(塩ビパイプ、角材、プラスチック製バット、緑色の細い棒、があり)、ジャンケンで順番と使う道具を決めた。実験で用いる机の方の上には、風船があり、1人5回前後叩き、全体で1分前後程行った。

S21
風船を割る班が分けられ、自分は最後の班だった。一番多く割った班は、500円のクオカードが、他の班より一枚多く二枚もらえるということだったが、残念だが3位だった。実験場に入ると、他の班の記録がホワイトボードに載っていた。一見抜かせそうな数値だったが、いざやってみると難しく、自分はひとつも割れなかった。堤の叩き方が強くて、見ていて怖かった。更に止めの合図があってもまだちょっと叩いていたので突っ込みを入れた。

星野文昭氏に関する3人の供述人の供述の正確さに関する心理学的鑑定

 以上の想起は、1)風船割りがどのような手順で進められたか(その風船割りはどのように進行していったか)できる限り詳細に説明してください。と伝えても、この程度の想起なのである。
 そして、以上の結果から興味深いのは、もちろん本鑑定実験では渋谷事件のように、事前の準備(凶器の集め方から集会の参加、前夜のアジト泊、代々木八幡駅の下車、そこからの移動等)の文脈が本実験とは異なっている。しかし、殴打に至る部分の詳細について説明を求めると、せいぜい、以上に示した想起が行われる程度である。つまり、渋谷事件でもそれぞれの供述人の殴打場面に関する最初の供述調書では、せいぜいこの鑑定書のワープロの設定で10行程度のものであった。
 本実験でもっとも詳細なのは、最初に示したS6さんの8行、S18さんの7行であった。本鑑定実験の参加者には、十分な時間があるのでとにかく詳細まで想起するように求めた。それでも想起されるのは、その程度なのである。しかも、より直接的に尋ねた以下の諸項目についても、Kr氏、Ao氏、Ar氏のような、確定審が採用する供述調書の詳細さは得られなかった。
 さらに、これらの報告の内容を良く見ると、記憶による説明がすべてビデオテープレコーダによって記録されるようなものではなく、むしろ物事の断片が語られることがわかる。しかもその説明は全員が同じように行うのではなく、個人によってまちまちに、しかも具体的な記述は非常に限られていることがわかる。つまり、私たちの記憶は視覚的情報を逐一記憶できないし、そのような記憶の負荷になるような仕組みにはなっていないのである。むしろ出来事の意味を自分なりに解釈して、一貫性のあるまとまりとして記憶する様子がよく示されている。
 このような記憶はBartlett(1932)の研究以来、多くの記憶の心理学研究によって示されてきた事実である。

2)参加人数について
 一人、授業の全員の数を22人と間違って回答した者以外は、その数はヒットしている。これは、当然のことだが、事件のような大人数の中での数の特定ではないために、比較的正答率が高くて順当である。しかも、彼らの多くは班単位の構成での参加であり、当然の結果として殴打に参加した人数は同定しやすかったはずである。そういう意味では、本件のような大勢の人間が移動しながら目撃し、さらに止まって目撃したとしても短時間であるために、殴打場面に関与した人数や人間の同定は極めて難しいはずである。

3)道具の選び方
 これは本件では、何を持つかのルールがあったわけではないだろう。もちろん指示があって持った場合もあるかもしれない。本実験ではジャンケンをして勝った者から好きな道具を選べるというルールを採用した。このルールは、鑑定人の判断では、当然のことながらジャンケンをするという行為をともなって、主体的に参加しているはずであるから、2ヶ月近く経過した時点でも比較的正確に記憶されているのではないかと予想した。
 結果は、意外であった。21人中の4名しかルールを記憶していなかったのである。8割近くの参加者が忘却していた。意識的に行った行為でも記憶できないことがあるということが明らかになった。

4)選択し使用した道具について
 21人中、9名が比較的緩い基準で、自分の持った道具を正答と見なせる回答をしている。しかし、他者の持った道具に関しては、バットがやはりその形状からもユニークであったためか、7人が正答している。しかし、その正答も、同じグループに二つバットがあったとの誤った記憶を示したり(第4班S18)、本来持っていなかった人物が持っていたとする者もあり(第4班)、他の道具と人との関係がほとんど想起すらできない結果であることを考えれば、他者の持つ道具についての記憶はほとんど形成されないと考えられる。
 しかし、この他者の道具を覚えていたということはこのバットのみに限られた現象である。実際、他者の道具を覚えている確率は、今回の実験結果では最終班の一人が想起に参加できなかったために、89個の回答が可能である(20+24+20+25)。そして正しく選べたのは7/89である。各個人が偶然確率で選べるのが6つの道具から一つを選ぶのであるから、1/6の確率で正解できるはずである。
 ということは、この正答率は偶然の確率よりも劣るということになる。なぜなら、彼らは選ばなかったので、記憶がなかったのである。このように相手が何を持っていたかという記憶は、それがみんなの協力の元にジャンケンという主体的行為で行った結果選ばれたものであっても、形成できない確率が高いのである。
 ましてや本件のように、類似した道具を多くの人が持っていて、しかも適当に持たされている物を、記憶しているなどということはほとんど不可能である。

 同じような道具を多くの者が持っていたと言う事実は、それだけどの個人が何を持っていたかということが記憶しにくい要因であることがわかった。

5)殴打回数について
 表1には実際の殴打回数を示した。表2には報告された殴打回数を示した。幅を持たせた回答に自身の殴打回数の正答が含まれる者が2名(s4、s9)いたが、それ以外は正答無しである。表2の打撃回数の欄を見ればわかるように、規則的に回数を示すという方法が採用されていることがわかる。これは、実際の記憶ではなく、推測に基づいて報告していることの現れである。しかも表2を見れば一目瞭然であるが、この殴打回数の記憶は殴打の道具の記憶よりもさらに成績が悪くなっている。というより、正確な記憶が不可能な世界である。本実験結果は本件に持つ意味は大きい。

6)殴打時の人員の配置について
 第1班では、相対的な位置関係について正解であった者が1名あった(s4)。他の3班では誰も正答がいなかった。この事実は、今回のように比較的相手が見えて、しかも机について殴打が終わるまで、その位置が変化しないようにされている状況でも、対人の位置関係を記憶することがいかに困難なことかを示している。ましてや本件のように、人が動く中で、しかも自分自身も動くという複雑な空間での配置を覚えるなど、不可能と言わざるを得ない。
 特に空間の配置についての結果は各班の参加者間で一致して想起すれば完全な正解となるが、表2の8)に示した位置 関係の結果を見てわかるように、班内の成員間の一致がまったく見られないのである。一致が見られないどころか、本件の人間関係以上によく知った人物であっても、その人物の位置について想起ができないのである。そして想起した場合には誤ってしまう。
 これは、私たちの記憶がビデオカメラで録画されるようには記憶を形成しないことの証なのである。故に、良く詳細に尋ねれば、詳細が想起されるはずだというのは素人のナイーブな誤った考えであることがよくわかるのである。

第5節 結果のまとめ
 本実験では、殴打の場面を実際の人物を対象にして行うのではなく、1)風船という比較的殴打しやすい対象を選び、情動性が高まって記憶遂行が悪くならないような条件設定で、2)殴打する位置を固定して、相手の殴打の様子が見やすいように設定し、3)複数回の殴打のチャンスを設定し、4)事件の殴打よりも長い時間観察可能な条件のもとに、5)保持時間(目撃から想起までの時間)を短くして想起の正確さが本件よりも期待できる条件で、出来事の記憶がどのように想起されるのかを検討した。

 実験の結果から、本件における目撃状況よりも正確な記憶が形成されやすい条件で目撃を行っても、出来事の自由再生(当時の出来事を詳細に思い出してもらう)の結果は、出来事の概略を幾分とも詳細に語ることがあるものの、とても今回の鑑定の対象となった確定審採用の供述調書のような詳細さは想起されなかった。
 加えて、殴打に使用した道具、特に他者の使用した道具の記憶、殴打回数の記憶、そして他者との位置関係の記憶は極めて貧しく、誤りに満ちており、正確な記憶の形成が困難であることがわかった。
 今回の鑑定実験では、殴打場面を工夫し、複数の人間が位置を固定して、また殴打の順番も固定して(ただし位置の順序の決定はジャンケンで決定)、殴打の道具もみんなの見ている前でジャンケンにより決定し、殴打回数は殴打の順番が回ってきたら自分で決定できるように(他者には事前にはわからないように)設定した。つまり、殴打回数以外の記憶は本件の供述者たちよりも記憶が形成され易い条件であった。さらに今回の実験では顔見知りの人間たちで、毎週同じ時間に顔を併せて実習の授業を受けていたのである。然るに、そのような条件設定であっても記憶が正確に形成されていなかったのである。
 ところで、本件における供述者である3名の最初の調書をとられる直前の記憶状態はどうであったろう。もちろん、その記憶の状態は推察する以外にないが、今回の実験の条件から判断すれば、その記憶は今回の実験参加者の記憶より優れる要因は見当たらない。ということは、本実験で示した参加者の記憶の正確さの水準よりも劣っている、質の悪いものであった可能性が極めて高い事を教えてくれている。
 以上の結果からわかることは、本鑑定書が対象とするKr氏、Ao氏、Ar氏の3人の記憶は確定審が依拠する供述調書のような内容ではあり得ず、彼らの最初の調書で示された記憶がせいぜい可能であった程度と判断されるのである。この事実は今回の実験を通して明らかにされた新事実と言ってよいであろう。
 ということは、その後の調書で現れる極めて詳細な説明は、彼らの記憶に基づくものとはとても考えることはできないのである。むしろ彼らの調書、特に確定審で採用された調書類は、取り調べる側からの様々な方法で提供された情報を頼りに、両者の間で創作された物語であり、現実の出来事を正しく反映した記憶とはとても言うことができない。
 次章ではKr氏、Ao氏、Ar氏の記憶の形成に関与した問題となる要因が、実際に彼らの供述調書にどのように現れているのかを示すこととしょう。

第5章 供述調書から認められる目撃供述に影響した諸要因の検討

 前章では、本件に関わる殴打場面に関する再現実験で、殴打の手順や殴打に使用された道具、殴打回数、殴打した人物の位置関係等に関する想起の問題点を指摘した。もちろん、この再現実験では本件に関与したような、供述の正確性を低めるような要因は極力排除して、むしろ記憶の正確さが担保されるように条件設定して、実施した。その結果は、すでに示したように、極めて正確性に欠ける記憶の遂行結果であった。
 このように、記憶の正確性を担保しても、もともとの記憶の形成が悪かったにもかかわらず、本件では供述人の記憶の正確性をさらに低めるような要因が関与していたことが明らかである。そこで、既に提出した『星野文昭氏に関する3人の供述人の供述の正確さに関する心理学的鑑定(その1)』の第2章では、本件に関連した目撃供述の心理学的研究が明らかにしてきた諸要因や諸事実、理論を紹介した。そして、それらの参照すべき事柄を以下、供述調書においても言及されている点を以下に指摘する(つまり供述調書上に現れたこれらの項目(要因)の存在が認められるところや、示唆されるところを引用する)。そして、必要に応じて説明を加えることとする。
 ところで、第2章で取り上げた項目は以下の通りであった。つまり、
1.出来事の時間的経過の長さ
2.スキーマや期待の心理学的効果
3.強い情動喚起やストレスのもとでの経験の記憶
4.長期の保持の効果
5.反復された事情聴取による誤った記憶の形成
6.短時間の目撃
7.無意識的転移
8.記憶への社会的影響

である。これらの要因は、Loftus, Greene, & Doyle(1989)の記憶の3段階(符号化段階、貯蔵段階、検索段階)による分類が可能であるので、理解を促進できるという意味合いも含めて、これらの8個の項目をこれらの段階に分けて検討することにしよう。

符号化段階の項目
 短時間の目撃
 出来事の時間的経過の長さ
 強い情動喚起やストレスのもとでの経験の記憶
 スキーマや期待の心理学的効果

貯蔵段階の項目
 長期の保持の効果
 無意識的転移
 記憶への社会的影響

検索段階の項目
 反復された事情聴取による誤った記憶の形成

 以上のような区分が可能であるが、たとえば、記憶への社会的影響は、貯蔵段階に区分されるものとしたが、検索段階にも影響するような要因である。つまり、経験した出来事について貯蔵の段階で何かを聞きつけたり、ニュースで聞き及ぶと、その情報が実際には無かったり、誤ったりしていても、その情報を経験したものとして記憶するという現象を言う。そして、そのようなことは検索段階に他者から与えられた情報によっても起こりえる。つまり、誤った情報を検索段階で伝えられると、その情報を記憶している、と誤ってしまうことも起こりえる。詳細は、添付の「目撃証言心理学1」「目撃証言心理学2」に譲るが、以上のような理由により、上の区分は絶対的なものというより幾分とも便宜的なものである。このような複数の段階に関わる項目については、必要に応じて、必要な場所において説明を加えることとする。
 ただ本件で検討するのは、問題となる殴打場面についてであり、ここでの検討も当然のことながら、その範囲においてのこととなる。

第1節 符号化段階に影響した要因の同定

1.短時間の目撃
 この殴打場面に関して、Kr氏の供述を見ると、その出来事の目撃時間が極めて短かったことがわかる。以下、引用しよう。

Kr供述
・・・機動隊員の首のつけ根あたりを殴っていました。その白ヘルの男のそばに星野と道案内人の男の他 何人かがいました 機動隊員はぐったりして、全く抵抗できない状態でした。私は、この状況を走りながら見たのですが、私が星野達先頭集団に追いついたとき、機動隊員はばったり路上に倒れたのです、その時 私の後方から火炎ビンが投げられたような記憶があります(2月4日付員面)。
 ことばで表現すると長いようですが、ほとんど一瞬のことで、機動隊員が倒れた直後 私が星野達の近くに到着してのぞき込んだという状況でした(2月9日付け検面)。
 このように、実際の殴打場面での出来事は、弁護団の推定(約35秒間)によっても明らかであるが、短い時間のなかで起こった出来事であり、そのような短時間で複雑な出来事を記憶して、しかも正確に報告するというのは、記憶形成に不利な阻害要因が関与していたことを考えると、極めて困難であり、不可能であると言わざるを得ない。

2.出来事の時間的経過の長さ
 心理学の研究からは短い出来事の時間的評価は、過大評価されやすいことが示されている。たぶん、この心理が、Kr氏、Ao氏、Ar氏の各人の殴打場面の説明に影響している可能性がある。というのは、彼らは殴打場面で経験した出来事が短いとは認識しているものの、出来事の経験は長かったとの誤った推定により、より詳細に語ることが可能になる。
 つまり、本来なら短い時間での出来事の知覚は、本件のように喧噪のなかで、しかも多くの人物が介在する複雑な事象である場合にはなおさら、正確に行うことが極めて難しいことが推察される。然るに、この推定は自動的に時間を延長してしまうが故に、その出来事の詳細を語るように働いてしまう可能性が高い。しかも、それは後述するように、極めて異常な長期に及ぶ多数回の尋問という方法によって、その可能性が高められてしまったのである。

3.視力の問題
 これは第2章では取り上げなかった問題であるが、目撃に際して起こった出来事の符号化に重要な要因になるので、ここに取り上げることにする。Ao氏の視力は事件当時、0.2程度であり、現場でもメガネを掛けていなかったことが、法廷証言によって明らかである。では、視力0.2とはどの程度の対象が正確に見えるということなのであろうか。この視力の問題は実は外界の情報を正確に取り込むために、決定的に重要な要因になる。

 裁判官も検察官も弁護士も、視力検査で使われているアルファベットのCのようなマークをだれでも一度は見たことがあるであろう。このマーク、実はランドルト環といい、世界共通の視力検査用の記号なのである(ランドルトは、19世紀後半から20世紀初頭のフランスの眼科医)。
 視力は、確認できる最小視角の逆数で表され、1分の視角を確認できる能力を、視力1.0という(1分は角度を表す単位で、1度の60分の1の角度を表す)。例えば、確認できる最小視角が2分なら視力は1÷2で0.5、10分なら1÷10で0.1ということである。 ふつう視力検査は、視力表から5メートル離れて行う。視力表で視力1.0に該当するランドルト環は、高さ7.5ミリ、文字の太さ1.5ミリ、文字の切れ目部分の幅1.5ミリである。この「文字の切れ目部分の幅1.5ミリ」がちょうど、5メートル離れたところからの視角1分に相当する。5メートル離れたところから、この文字の切れ目を確認できれば(ランドルト環の向きがわかれば)、1.0の視力があることになる。ちなみに、視力0.5用のランドルト環の大きさは1.0用の2倍、0.2用は5倍、視力表の一番上にある0.1用は1.0用の10倍の大きさである。
 視力が0.2ということは、言い換えれば、5メートル離れたところから5.5cmの高さのランドルト環(C)で7.5mmの切れ目の方向がようやく分かる程度ということになる。つまり、それより小さな対象物の識別が困難になると考えて良い。しかも、ランドルト環は白い背景に対して黒でCが描かれているために、コントラストが明瞭で見えやすくなっている。そのような見えやすい状態での測定である。しかるに、現実世界はそのようなコントラストがはっきりした対象ばかりではない。
 実際、本件の現場のように皆が同じようなヘルメットをかむり、似たような格好(何人かは特徴的な色彩の衣服を身につけていたが)をしている中での知覚である。視力が0.2というのは、5メートルも離れてしまえば、顔の詳細がわからないような視力なのである。それにも関わらず、視力が0.2であったAo氏は2月16日付検面で、次のように10メートル前方の奥深山氏と大阪氏を、しかも後ろ姿で識別したと供述している。

 このように前方に星野さん達を認めた時、右側に電柱にあるのが印象に残っており、今度現場に行ってもう一度よく確かめてみると、病院の先に、この電柱があり、当時の印象と一致しました。私が見た時、奥深山さんが道路右側、大阪が道路左側各一〇メートル位前方で、星野さんは私より三メートル位前方、Krは私の左後方におり、それぞれ鉄パイプのようなものを持ち、これを頭位の高さに振りかざしてかけておりました。

 Ao氏は、記憶の符号化段階で情報として取り込むことが出来ないことを想起している。他者からの情報に基づく以外にあり得ないことであり、心理学的には「反復された事情聴取による誤った記憶の形成」あるいは、「記憶への社会的影響」で説明されることである。

図1ランドルト環

4.出来事の凶暴性や情動的興奮など
 この事件は、もちろん一人の機動隊員への暴行もさることながら、パトカーへの火炎瓶の投てき、機動隊からの催涙弾の発射等、暴力の関与する事件であった。さらに、3名の目撃者は各々が凶器を持ち、行進し、警察権力と対峙するという危険のなかにあった。全体的に各供述人があまり多くを語らなくても、彼らが多大なストレス下におかれていたことは間違いないであろう。さらに渋谷駅を占拠するというような暴動を試みる集団である。凶暴な行為を実施する、そういう意味でも特殊な緊張状態にあったことがわかる。以下、各供述人が語るそのような心情を引用しよう。

Kr供述
・・・全員が走り出したのです。途中大きな通りを横断する時、パトカーに火炎ビンが投げられ、路上に落ちて、燃え上がりました、さらに走って行くと、前方に20人位の機動隊がいました。・・・と言うと、竹ヤリ、鉄パイプを持った一五人位が前面に出て来ました星野が前進と号令をかけると、一斉に機動隊に向って、火炎ビンが投げられました(2月4日付け検面)。

・・・それと同時に虎部隊が機動隊に向かって突進し 部隊から一斉に火炎ビンが機動隊に向かって投げられたのです。ものすごい数の火炎ビンが飛びました(2月9日付け検面)。

・・・私は、星野の防衛隊ですが、その時はすごく疲れていたので、走れず歩いて行くと(2月4日付け検面)、

・・・まだ殴りつけている光景を狂った状況として、見ているため、竹竿はいやだなーという考えが私にあり、そのいやな竹竿を持っていまいと考へたこと(2月15日付け員面)

・・・私がすでに持っていてその竹竿を、先き程申し上げた状況を狂った異様な光景として見ていたことから竹竿を持っているのはいやだという考えがあり、女の人の火炎ビンと取りかえたのです(2月16日付け員面)。

Ao供述
私も夢中でかけ、行動隊と一緒になってかけ、いつの間にか先頭部分の中央付近になりかけて行くと、突然催涙ガスが前方から飛んで来て前の方に機動隊のいるのに気付きました。ここで一旦ひるんで止まり、すぐかけ出し、私はこの時は機動隊員をやっつけようと先程の鉄パイプを右手に持ちそれを肩位にかざすようにしてかけて行くと、前方の機動隊員は私達の方に催涙ガスを打ちながら逃げ出しました。(2月4日検面)。

・・・悪いことをしたので、この再、きっぱりとこの事件の精算をし、二度とこんな恐ろしいことをしない覚悟をしました(2月4日付け検面)。


このパトカーはゆっくり私達の前を通り過ぎようとしておりましたが、この時今度は右手から機動隊の装甲車が私達の前を横切って行くところでもありました。私達はこの時星野さんの火炎びんを投げろと言う号令で、パトカーと装甲車に対し、二手に分かれて火炎ビンを投げつけました。私はこの火炎ビンを投げる時一瞬ちゅうちょしたのですが、パトカーに対し一番早く投げつけました(2月12日付け員面)。

私はこのように機動隊を殴ったことは始めてだし、自分のやったことが急にこわくなり二・三回殴ったもののこの後はその場から少し戻り、逃げました(2月4日付検面)。

・・・殴っていた仲間が更にどのようなことをしたか、私には、判かりません。私がこわくなったのは今述べたような理由ですが、仲間や私が鉄パイプで殴っており、夢中でやったもののこわくなったのです(2月4日付検面)。

Ar供述
殴ぐりつけたように覚えています。その時は私も初めての経験ですので、頭がボーとして無我夢中であり、機動隊を殺すことが渋谷暴動を勝利させる道だという頭だったのです(4月6日付印面)。

・・・権力の手先 機動隊を一人でも多く殺さなければならない、やってやろうという気になりました(4月6日付印面)。

以上に各氏から多く語られているように、この事件での彼らの心理状態は異常であり、怒り、恐怖、不安、倦怠、憎しみ、興奮、熱気などの混じり合った、強いストレス状態にあったことは間違いない。このような状態では正常な外界の認知は極めて困難であり、部分的で断片的な出来事の記憶だけが可能な世界であったはずである。事実、過去の多くの目撃証言心理学で情動の影響を検討したものは、このような心理状態が記憶の形成に極めて不利に働くことを示しているのである。

5.スキーマや期待の心理学的効果
 スキーマというのは知識の集合体のことである。スキーマには様々なものがある。知識をバラバラに覚えておくことは経済性が良くない。そこで、人間はまとめて覚えることを学習してきた。たとえば、レストランスキーマを考えてみれば、レストランというのは食事するところである。ここに入るとまずウエイトレスなり、ウエイターが私達を席まで案内してくれる。それからメニューを持ってきて、注文を聞き、料理を運び・・・という一連のレストランでの出来事の流れが詰まっているのが、レストランスキーマである。このスキーマがあれば、個々のレストラン毎にこのような知識を覚えておく必要が無く、レストランスキーマに必要な情報を持たせておけばよい。つまり私達の心の記憶空間の節約が可能になるのである。このようなスキーマには多様な種類が考えられている。
 本件では、星野氏は確かに、代々木八幡駅に着く前に国鉄中野駅で演説したり、新宿駅で演説したりしながら、目的地に近づいて行った。このような行為から、彼はリーダーとして機能していることは多くの人に明らかであった。このようなリーダーとして機能したことが、多くの人にリーダースキーマを活性化(ここで活性化というのは、無意識に心に作用させることをいう)させ、そのために、多くの指示的に聞こえるような短い言葉は、リーダーが発したに違いないという、推論や期待を持たせた可能性が強い。
 たとえば、次章で検討する四つの声を星野氏が発したとするKr氏、Ao氏、Ar氏の記憶は、実はこのようなリーダースキーマによる推論や期待が作り上げた可能性を否定できない。つまり、「殺せ、殺せ」「銃を奪え」「火炎びんを投げろ」「もう良い、道案内」などの言葉が命令調に記憶に残っているのは、まさにこのようなリーダースキーマに合致した表現であり、星野氏の言葉として、推論しやすく作用したものと言えよう。

第2節 保持段階に影響した要因

1.長期の保持の効果
 まず、最初に挙げなくてはならない3人の供述人に共通した要因は出来事の目撃から想起に至るまでの時間的経過である。これは保持時間として知られる心理学的要因である。
 Kr氏の場合、事件の翌年の2月2日が最初の供述調書であるから、事件の発生である前年の11月14日から2ヶ月半ほど経過している、長期の保持時間の要因が指摘できる。
 Ao氏の場合は、最初の調書が2月4日付けで出てくる。Kr氏に遅れること2日後であるから、これも長期の保持時間を経ての想起である。
 Ar氏の場合はさらに、3月30日に最初の調書が出てくるので、さらに2ヶ月以上経過しての、トータルで4ヶ月も経過してからの供述ということになる。つまり、長期の保持期間が介在することで、記憶が忘却される可能性を大きく示していると言ってよい。私たちの記憶は時間の経過とともに、その内容が変容し、消失していく。

2.無意識的転移
 この無意識転移というのは、想起した人物が、実は求められている場所時間で遭遇した人物ではないにも関わらず、その時遭遇した人物として想起される現象のことである。つまり、Aという人物と事件現場で遭遇したが、後に想起したときには、事件現場で会っていないにも関わらず、別の場所で会ったことのあるBという人物をAと間違えて、想起してしまうという現象である。このことは無意識的に起こってしまうので、無意識的転移と呼ばれる。ロフタスとケッチャムの「目撃証言」では、実際にこの無意識的転移が起こったために、無実の人間を犯人として想起して、裁判を誤った事例が紹介されている。
 本件でも、現場で殴打した人物を駅で遭遇した、集会で遭遇した、デモで遭遇した等の人物と誤って想起してしまった可能性は否定できない。特に、似たような状況で遭遇していると、記憶の起源のモニタリングに失敗してしまい、どこで、いつ遭遇したという記憶が定かでなくなり、この無意識的転移が起こる可能性を高めてしまう。
 星野氏に関しては、先ほど述べたリーダースキーマの働きと共に、現場に居た人との転移が起こってしまった可能性を否定できない。

3.記憶への社会的影響
 本件での三氏の供述は供述調書が取られる度に詳細化されていった。この事実は、ただ三氏が出来事の詳細を記憶から語ったのではなく、尋問担当者から多くの情報が与えられたために、それらの情報が三氏の曖昧な現場での記憶に追加さ
れていって、現実には起こっていないことを起こったこととして記憶されていったのである。
 この他者からの情報が記憶に影響することを社会的影響というが、本件のように他者が絶対的な力を持っている場合には、それに抗うことが極めて困難であり、同調を引き起こすことが知られている。この同調も、社会的影響の一種である。特に、同調に関しては、心理学においては1950年代に行われたソロモン・アッシュの研究が有名である。そしてこのような社会的影響は、権威者に対してでなくても起こりえることが示された。さらに最近の記憶研究では、この社会的影響が何ら圧力のないところでも、ただ誤った類似の情報に接するだけで、またその情報が権威からのものであるとか、信憑性が高いと伝えられるだけで、強い効果を持って記憶を書き換えてしまうことを示している。この記憶への社会的影響研究についての詳細は添付の「目撃証言心理学2」を参照されたい。

第3節 検索段階に影響した要因の同定

1.反復された事情聴取による誤った記憶の形成
  添付した表3の「Kr・Ao・Ar各氏供述調書一覧」に見るように、本件のKr氏、Ao氏、Ar氏には多数の尋問調書が残されている。つまり、このことは彼らがいかに多くの事情聴取を受けたかの証拠である。実はこのように多くの尋問が繰り返されることで、彼らの記憶に甚大な影響が出ることがわかっている。しかもその影響は決して現実を反映するものではなく、尋問に含まれた多くの誤った情報によって書き換えられた、現実の出来事を反映しない記憶へと変化したものになる。

第4節 まとめ
 以上に見てきたように、Kr氏、Ao氏、Ar氏三名の供述には、かれらの殴打場面の経験を正確に記憶するのを阻害する、また記憶を正確に形成できない、多くの要因が介在していることを直接、間接に示している。

第6章 供述人の声の識別に関する正確さについて

第1節 本章で扱う声の識別の正確さ判断の基本的立場

 本章では本事件における星野氏の声を聞き、同一性識別に関わった証人の記憶の正確さについて鑑定するものである。
 この目的を達成するために、まず、この犯人の声を聞いた3人の人物の耳撃がどのような状況であったのかを明らかにする。このために提供された資料から、状況がわかる内容を見つけ出し、整理することを行う。次に、現在までに知られている声の識別に関する研究のレビューを精査する。これは、耳撃の記憶や識別の正確さに関わる要因が科学的に検討されているので、そのような精査によって得られた知識を、本件における耳撃に関与した条件や状況と比較し、彼らの記憶や
識別の信用性の水準を明らかにしようとするものである。この耳撃の心理学研究に関しては、幸いカナダのこの領域の権威であるYarmey教授がまとめたものがある。それは、2007年に出版された、

Handbook of eyewitness psychology. Volume II : Memory for people. Eds.R.C.L.Lindsay, David F. Ross, J. Don Read, & Michael P. Toglia Lawrence Earlbaum Associates, Publishers, New Jersey.

という本のひとつの章である。その章は、今日までの目撃研究の総決算となるハンドブックの第2巻の第5章『発話者の同一性識別と耳撃記憶の心理学』(101ページから136ページまで)で、耳撃供述の信用性に関わる諸研究を系統的かつ網羅的に評論している。そこで、これを翻訳し、そこに記された論評内容を判断のために利用する試みである。なお、この文献の複写とその翻訳を本鑑定書の末尾に添付した。なおこの章に関しては『季刊刑事弁護』に4回にわたって掲載された(弁第17、18、19号証)。
注)earwitness という専門用語の訳がまだ日本では正式になされていない。目撃がeyewitnessであるから、以下、耳撃ということで取り敢えず仮訳とした。

第2節 星野氏の声を聞いたとするKr、Ao、Ar各氏の耳撃供述の正確さに影響した要因について

 耳撃によって得られた記憶は、目撃によって得られた記憶と同様に、様々な要因によってその正確さに影響の及ぶことが知られている。さらに目撃と異なり、耳撃固有の影響要因も存在する。そこで、まず、Kr、Ao、Ar各氏がどのような状況で星野氏が発したとされる声を聞いたのかを検討し、そのような状況に含まれる要因を洗い出し、要因を特定する必要がある。そこで、そのような関与要因を整理するために、前章でも使用した記憶の3段階に対応させる方法を採用することにした。
 ここで、3氏が耳撃した状況とはまず符号化段階における要因が考えられる。それらは、1)符号化時の物理的な出来事要因(声の大きさ、声の長さ、騒音の程度)、2)符号化時の内的な耳撃者要因(感情状態)である。
 次に保持段階の要因が挙げられる。これは例えば、実際に耳撃を行ってからその声を想起したり、識別するまでの時間的間隔の長さという要因が関係する。
 最後は検索段階である。実際にその声はどのように想起されたのかという方法に関する要因である。

第3節 符号化段階の要因の検討

 私たちが出来事を経験するときには、その経験の出来事は五感を通して認識される。耳撃の場合には、音波を耳の器官によって処理し、私たちには聞くという感覚、つまり聴覚による認識に至る(たとえば、音が聞こえるというような単純な感性経験がそれに当たる)。その感覚情報はさらに、聴知覚として、その音が車のブレーキの音であるとか、人物の声であるとか、さらに特定的には有る人物の声というように認識されるようになる。聴知覚は、聴覚よりもさらに複雑な感性経験で、私たちの記憶によってより豊かな意味的内容まで処理されたものと考えることができる。耳撃はそのような聴知覚の働きでも、特に人物の声の識別に関わることが多い。上述のYarmeyによる論評は、まさにそのような人物の声の識別に関わる心理学研究を収集し、評論したものである。
 では、本鑑定書で取り上げる3氏の供述で、この符号化段階に影響した要因を考えると、目撃の符号化段階と同様に、出来事要因(耳撃が行われた環境側の諸要因)と耳撃者要因(耳撃者の側の要因)に分類できる。ここでは、この分類に従って要因を二つに分けて検討を進めることとする。

(1)符号化段階における出来事要因
 まず、3人の供述人が星野氏の声として聞いた状況を見てみよう。出来事要因のなかでまず注目しなくてはならないのは、3人が星野氏だとする声をどのような環境下で聞いたのかという、環境要因である。3人の供述人が星野氏の声を聞いたとしていて、ここで検討しなくてはならないのは、殴打現場での声の耳撃である。では3氏はどのような声を殴打現場で聞いたとしているのであろうか。3氏がそのすべてを聞いているわけではないが、供述調書に出てくるのは、次のほぼ4種類の言葉である。つまり、

1.攻撃を指示している「殺せ」「かかれ」「やれ」に類するもの
「殺せ、殺せ」(Kr氏2月13日付員面)
「殺せ、殺せ、殴れ、やれ」(Ao氏2月16日付検面)
「殺せ、殺せ」(Ar氏4月14日付員面、ただし、4月9日付員面では大阪氏が声を張り上げたとしている)

2.銃を奪えとのかけ声「銃を奪え」に類するもの
「銃奪えという声がしました。確か星野の声だった・・」(Kr氏2月14日付検面)
「星野さんが大きな声で銃を奪え・・・」(Ao氏2月12日付員面)
「銃を奪え」(Ar氏4月9日付員面)

3.火炎びんの投てきの指示「離れろ、火炎びんを投げろ」に類するもの
「大きな声で火をつけろと、私達に・・・」(Ao氏2月12日付員面)
「離れろ。火炎びんを投げろ」(Ar氏4月9日付員面)

4.引き上げの指示「もう良い、道案内」に類するもの
「よーし、もういい、行くぞ」(Ar氏4月9日付員面)

である。これらの声が1分にも満たない時間のなかで発声されたということである。

 では、以上のような星野氏の声とされる発声はどのような状況で耳撃されたのであろうか。1から3までの声は集団が攻撃を仕掛けていたときの声であるので、どの声も耳撃された条件はほとんど同様であったと考えられる。そして、引き上げの指示だけは、火炎びんが投げられた後の声ということになるので、機動隊員への攻撃行動はすでに終わった後のものということになる。
 では、1から3までの声が耳撃された条件とは具体的にはどのような条件であったのであろうか。
●騒音や怒号が激しいなかでの耳撃
 攻撃を指示している「殺せ」「かかれ」「やれ」に類するものに関しては、Ar氏(6月8日付員面)が興味深い供述をしている。つまり、鉄パイプがヘルメットやシャッターに当たるガチャンガチャンとう大きな音がし、七、八人は機動隊員のヘルメット、肩、首すじ等上半身を滅多打ちにしており、大阪さんが「殺せ、殺せ」と叫んでいました。近づくと星野さんもその中にいて「殺せ、殺せ」と叫んでいました。
 これらの声は殴打場面で、しかもKr供述(2月13日付員面)によれば、「・・・これまでの間、殴っている者達は何か良く聞き取れぬ大声で怒号を発しながら殴っていました」としている。つまり、騒音とともに怒号をも聞きながら星野氏の声を聞いたとしているのである。
 そして殴打が続いているなかで、銃を奪えという命令がなされたと考えるのが自然である。そして、銃が見つからないので、「離れろ、火炎びんを投げろ」と進んでいく。
 つまり、すでに指摘したように、これらの言葉がどのように語られたのかの記憶は曖昧であろうが、似たような意味を持つ言葉が発せられた可能性は高い。問題は、そのような声の主が識別できるような状況にあったのかどうかである。
 ともかく、ここで重要なことは、声の耳撃がガチャンガチャンという大きな騒音や、殴る者たちの怒号や、デモ隊の移動の音や奇声などのなかで行われたという事実である。
 そして4番目の「もう良い」に関しては、Ar供述が明確に述べている。そして、この声ももちろん攻撃は終了したものの、喧噪のなかで耳撃されたのは事実である。
 では、環境が喧噪である状況での耳撃は正確になされるのであろうか。実は、前掲のYarmey氏の論評には興味深い事実がかかれている。これは極めて重要な情報なので、以下に引用しておく。
 耳撃記憶の科学論文について評論してきたすべての論者が,声の同一性識別証拠を用いる場合,司法システムは極端なほどに注意を払わなくてはならないと最初から結論づけていることを知る必要がある。聴覚分析アプローチも音響学的アプローチも,独自に人の声を特徴づけることはできない。聴覚的あるいは音響的手法によって,確実に発話者同一性識別がなされるということはない (Baldwin & French, 1990; Bonastre et al., 2003; Bull & Clifford, 1999; Deffenbacher et al., 1989; Wilding, Cook, & Davis, 2000; Yarmey, 1995a, 1995bを参照)。
 ここでは、耳撃者の記憶にたよった識別がいかに困難なものかの警鐘が示されているのである。本件のような騒音下で
の声の識別は問題が多く、元来識別が許されないケースと考えておくべきであろう。

●複数の人物が「殺せ」「殺せ」と言っていた可能性
 「殺せ、殺せ」という声に関しては、Ar氏供述ではそれを発したのが「大阪氏」という認識であった(4月9日付員面)。ただ、4月12日付検面では、「星野さんもかすれ声で命令しておりました」としている。つまり、複数の人物が同じような言葉を発していた可能性もある。
 さらに、この複数の者がこのような攻撃の言葉を発していたということが、Kr氏の供述(2月28日付員面)に出てくる。それは「私が竹竿で機動隊員を殴っているとき、私の左方にすごい勢いで、Aoともう一人竹竿を持った者が「殺せ」「殺せ」と叫びながら飛び込んできて・・・」というもので、この供述によればAo氏、さらにもう一人もこのような攻撃の言葉を発していたということになる。このような供述をみていくと、この「殺せ」というような声は、攻撃を加えた人やそれ以外のその周囲にいた人達によっても発せられていた可能性が高いと推察される。
 このように複数の人物が同一もしくは類似した内容を発声したときに、人は正確にその声の正しい識別が可能なのであろうか。Yarmey論文には、この件に関して以下の解説が掲載されている。本件と関わる研究のレビューなので引用する。

複数犯
 複数の犯人が関わる犯罪は、認知的干渉によって証人の記憶力が抑制される。Legge et al. (1984) は、未知人物の声の記憶に関する伝統的な実験室実験で、学習しなければならない声が20から5へと減少するにつれ、再認成績が著しく改善されることを見出した。同様に、Carterette & Barneby (1975) は、ターゲットの声が2、3、4、8と増加するにつれ、声についての再認記憶が低下することを見出した。犯人が複数である場合の発話者の同一性識別にどのような効果があるかについて、犯罪を想定した研究は行なわれてきていない。

 このように、複数の人物の声を聞いて、その後その人物たちの声の識別を行うと、識別の対象となった人物の数が増加することによって声の識別が極めて困難になることを示している。本件における識別も、もちろん3名は声の持ち主の名前を述べてはいるが、それらが現実に名前を挙げられた人たちの声であったのかどうかは、極めて疑わしいと考えた方が良い。

●耳撃者が聞いた声1 かすれた大きな、異様な声
 聞き取られた声に関してKr氏は「大きな異様なかすれた声で・・・」叫んでいたとしている。さらに怒号というような表現すら使用されている。もちろん喧噪のなかで叫ぶ声が飛び交ったのであるから、このような表現にならざるを得ない。このような声は識別にどのような影響を与えるのであろうか。残念ながら、このような現場のような条件下で検討された耳撃の同一性識別に関する研究はない。ただ、普通の話し声でないという条件では、様々な研究が行われているのでそれを見てみよう。

声の偽装
 発覚を避けるために、伝えられるところでは、ブラジル人誘拐犯は身代金を要求する声を偽装するために、前歯の間と舌下に鉛筆を挟んだという (de Figueiredo & de Souza Britto, 1996)。ささやき声は、ピッチや抑揚、イントネーションといった最も目立った声の特徴を隠すために偽装にとって効果的である (Reich & Duke, 1979)。ささやき声は、声のサンプルの長さに関わらず(30秒間あるいは8分間)、通常のトーンの声よりも、同一性識別を行うことが非常に難しい(Orchard & Yarmey, 1995)。ささやき声を一度に集中的に呈示するのではなく、3回に分散させて呈示させたとしても、通常のトーンの声とは違い、再認成績は向上しない (Procter & Yarmey, 2003)。実験協力者に「外国語訛り」やささやき以外で、自由な声の偽装を許すと、再認成績が低下する (Hollien et al., 1982)。好みの偽装を行うために、ほとんどの人が一貫してピッチを変化させる。平均より低いピッチの発話者は声を低くすることによって自身の声を偽装しようとするが、平均より高いピッチの発話者はピッチを高くする傾向にある (Kunzel, 2000; Manning, Fucci, & Dean, 2000)。また酩酊状態は、ほとんどの場合、声のピッチレベルを高めることが知られている (Hollien & Martin, 1996)。話すテンポ、ポーズ、発話におけるためらいは、すべてアルコールの酩酊の程度により変化する (Kunzel, Braun, & Eysholdt, 1992)。模倣は偽装の一形態である。あるスェーデンの研究では、非常に馴染みのある政治家の声を、物まね役者の声が含まれるラインナップの中から同定するように求められた大多数の証人は、その政治家を正しく選択した。しかしながら、物まね役者の声は含まれていたがターゲットの声が含まれていないラインナップでは、参加者のほとんどが物まね役者の声をターゲット人物の声と誤って同一性識別した (Schichting & Sullivan, 1997)。明らかに、偽装は発話者の同一性識別を可能とする音響的な特徴の多くに影響を及ぼす。偽装により、同一性識別を避けたいと望んでいる容疑者は、残念なことではあるが、しばしば成功することになる。 
 もちろん、現場の人物たちは声の偽装を施すために大声を出したわけではないが、結果的に、声のピッチが変わり、声の質が変化したことは紛れもない事実である。つまり、本来の声ではない声を識別するのは、極めて難しいことを知るべきである。

(2)符号化段階における耳撃者要因

 次に、声を聞いた時の耳撃者の心理状態の要因を考えなくてはならない。これは、前章でも検討したが、当然のことながら、耳撃者たちは情動的興奮に満たされていたことがあきらかである。機動隊と対峙し、攻撃し、攻撃を受ける。それも暴力行為による攻撃である。恐怖、興奮、ストレス、嫌悪等様々な情動が溢れ、絡み合った心理状態であったことは、彼らの報告から間違いない。そのような状態で、正確な声の識別は可能なのだろうか。Yarmey論文から該当箇所を引用する。

犯人と被害者の情動喚起/ストレス
 耳撃記憶における情動性やストレスの効果は、研究者からほとんど注意を払われてこなかった。しばしば、犯人はストレスや怒り、不安を表出し、それらは話す速度や持続時間、音声バーストの回数といった様々な発話特徴に影響を及ぼす(Hollien, Saletto, & Miller, 1993)。声のラインナップの構成が、犯行中に容疑者によって用いられた声のトーンをそのまま捉えることはめったにない。犯人が犯行中に大きな、怒ったトーンの声を出すのを聞いていた場合、証人は大きな怒った声でテストをされるよりも容疑者の通常の発話を呈示されると、ラインナップによる同一性識別の正確性は著しく損なわれる (Saslove & Yarmey, 1980)。Solan & Tiersma (2003) は、レイプ犯が犯行中に非常に穏やかに優しい話し方であったという、ニュージャージーのケースを報告している。後に、被害者が警察署で開かれたドアを通して声と直面した際、その男性が怒った口汚い感じで話していたので、彼女は同一性識別に失敗してしまった。しかし、彼が落ち着いて通常の声のトーンで話すと、被害者はすぐに彼の声を覚えていると主張した (New Jersey Superior Court, 1976)。発話者の情動状態と声の感情的なトーンに関しては、裁判所は十分な配慮をしていない (Solan & Tiersma, 2003)。
 また犯罪の被害者・証人は、注意や記憶、言語報告に影響を及ぼすことが予期されるような、高まった、あるいはトラウマを起こすような水準の情動喚起やストレスを経験するかもしれない (Christianson, 1992)。しかし、被害者の情動喚起やストレスは、発話者同定に影響するかもしれないし、またしないかもしれない。現時点では、このトピックについては全く研究がなされていない。発話者の同一性識別への異なるタイプのストレスの効果については、研究が必要である(Yuille & Daylen, 1998を参照)。

 残念ながら、声の識別への情動の影響研究はほとんど行われていない。ただ、現在厳島が行っている実験では、恐怖が声の識別能力を低下させることを確認している。このことは、もちろん目撃研究での結果と符号するものであり、前回提出の鑑定書でしめした諸研究の結果とも一致する。目撃証言研究で明らかになった情動の否定的効果が耳撃においても同様に影響することは十分に考えられる。

第4節 保持段階に影響した要因

 保持段階に関して、重要な要因は保持期間である。これは耳撃を経験してからその耳撃した相手の声を思い出すまでの時間的長さである。本件で言えば、事件発生の日(1971年11月14日)から、実際に供述を求められる日(1972年2月以降)までの2ヶ月以上の期間ということになる。この保持期間の識別への影響についてYarmey論文では以下のように研究を紹介している。

保持期間
 未知人物の声に対する記憶は時間の経過とともに減衰することが、いくつかの研究によって示されている (例 Clifford, Rathborn, & Bull, 1981; Papcun, Kreiman, & Davis, 1989)。声の同一性識別は、1週間、2週間、3週間の遅延により、それぞれ50%、43%、9%と低下することが示された (Clifford, 1983)。同様に、Bull & Clifford (1984) は、3週間の遅延後、声の同一性識別は著しく低下することを見出したが、1週間と2週間の遅延期間では有意な差を見出さなかった。別の研究では、Clifford (1980) は、10分間、24時間、7日間、14日間という保持期間の幅で、遂行の正確性が41%から19%まで有意に変化することを見出した。24時間の遅延では、声の同一性識別においてほとんど変わりがないことが明らかであった (Legge, Grossman, & Pieper, 1984; Saslove & Yarmey, 1980; Yarmey, 1991b)。Yarmey & Matthys (1992) は、正しい同一性識別は1週間の遅延期間後においても違いがないが、フォールスアラーム率はこの間に有意に増加することを見いだした。これは、とりわけ容疑者の声の呈示時間が短い場合(18秒間と38秒間)においてみられた。それに対し、Harmmersley & Read (1985) は、証人がターゲットと自然な会話を交わした場合、再認記憶は、2日から14日間にわたる遅延期間の影響を受けないことを見出した。ほとんどの研究とは対照的に、Broeders & Rietveld (1995) は、3週間後の同一性識別の成績がほとんど低下しないことを見出した。つまり、1週間後の正再認率は84%であり、3週間後の再認率は80%であった。
 発話者の同一性識別が時間と共に低下するということを述べるよりも、比較的短い遅延期間(3週間かそれ以内)における声の同一性識別の効果は、その効果が多くの要因に依存しているために、予想することが難しい。つまり、再認成績は注意、声の示唆性の違い、獲得のしやすさ、もとの音声サンプルの長さ、観察時とテスト時とでの声の質の変化などといった要因に依存しているのである。
 保持期間が3週間を越えると、識別が極めて難しくなるということが、このレビューから認められる。多くの研究がそれを指示している。本件では10週間経過しての識別と考えられるから、その保持の効果を無視することはできない。

第5節 検索段階に影響した要因

 何回も声の特徴や個人に関して尋問を受けたことの効果について、言語隠蔽効果を生んだ可能性がある。言語隠蔽効果とは、Yarmey論文によれば以下の通りである。

言語隠蔽効果
 証人が容疑者の声を記述すると、その後の声の同一性識別の正確さが損なわれる可能性がある(言語隠蔽効果)。Perfect, Hunt, & Harris (2002) は、証人がターゲットの声について言語記述を行った直後にラインナップを実施した場合、統制条件(正答率50%)と比較して、同一性識別の成績が著しく悪くなることを見出した(正答率24%)。しかし、Carlucci & Meissner (2003) やClifford (2003) の研究では、言語隠蔽効果を見出せなかった。これら3つの研究間での結果の違いは、おそらく用いた実験デザインの違いによって説明される。その違いとは、実験参加者に与える教示、ターゲットの言語記述から声のラインナップ呈示までの保持期間の長さ、使用した実験参加者のタイプの違いなどである。言語隠蔽効果については、今後もさらなる研究が必要である。
 つまり、Kr氏、Ar氏、Ao氏は聞いた声に関して何回も尋ねられていった。そして尋ねられる度に、その声の特徴を語っていた。このことは、声の同一性識別においてその正確さを極めて低下させる効果を持ったことを示唆している。

第6節 第6章のまとめ

 以上に見てきたように、本件では声の識別能力を低下させる多くの要因が、符号化段階、保持段階、検索段階で関与していることが明らかになった。これらの要因はその一つが関与しただけでも、識別能力を低下させる効果を持つ。本件では、3名の耳撃供述に、その供述内容を誤らせるような複数の要因が絡んでいることは間違いない。故に、彼らの星野氏の声として聞いたものは、星野氏本人のものであるとするには大いなる疑義が残る。

第7章 本鑑定書のまとめ

 本件におけるKr氏、Ao氏、Ar氏の3名の供述の正確さを評価するために、心理学における目撃証言心理学および記憶心理学研究、知覚心理学研究を援用して、検討した。

第1章では、
 最初に、鑑定の前提となる科学的な記憶研究における目撃証言研究の発展をレビューした。その後、目撃証言の誤りが多くの冤罪の原因であることを示す証拠を提示した。その目撃証言を誤らせる要因が心理学の中で検討され、多くの要因が明らかになったことを示した。本件でもこれらの要因が関与していたかどうかが問題となると指摘した。さらにそれらの要因の科学的区分についても説明を加えた。

第2章では、
 本件で考察するべき要因がどのようなものであるのかについて指摘し、それらの要因についての説明を加えた。提示した要因は以下の通りであるが、これを人間の情報処理の段階に並べ変えたものを示す。

符号化段階の項目
 短時間の目撃
 出来事の時間的経過の長さ
 強い情動喚起やストレスのもとでの経験の記憶
 スキーマや期待の心理学的効果
貯蔵段階の項目
 長期の保持の効果
 無意識的転移
 記憶への社会的影響

検索段階の項目
 反復された事情聴取による誤った記憶の形成

第2章では、以上の要因や効果についての説明を行った。

第3章では、
第4章以下で展開する検討が科学的な知識であり、司法で培われた知識を補うことの必要性を述べた。

第4章では、
 実際に本件の目撃者よりも殴打場面において記憶が容易なような条件設定を行い、そのような殴打に参加した者が殴打とそれに付随した前後の経験した出来事に対して、どのような記憶を持てるのかどうかも、心理学実験の形で実証的な検討を行った。その結果、符号化段階や保持段階、そして検索段階での条件設定を本件と比較して、正確に記憶しやすく設定したにもかかわらず、多くの記憶遂行において、詳細な具体的事象に関する記憶が正確さに欠けたものであった。それは、本件の3氏の供述には比較にならないほど、誤りや忘却に満ちたものであった。このような事実は、本件の3氏の記憶が、記憶の形成を阻害する多くの要因が関与していたにもかかわらず、極めて詳細になっているということと、矛盾する。つまり、3氏の記憶は想起の段階での、以上に多数回の尋問を通して、作られたものであると考えざるを得ない。

第5章では、
 第4章での実験結果を受けて、実際に3氏に関してどのような目撃供述に影響する要因が関与していたのかを、同定する作業を行った。つまり、3氏の供述調書から、関与する要因を洗い出す作業である。すでに示したように、目撃供述の信用性を判断するためには、目撃者の符号化段階、保持段階、検索段階に影響する要因を検討する必要がある。そこで、3氏の符号化段階における出来事(事件)に関係した出来事要因、目撃者が関わる要因の検討を行った。次に、貯蔵の段階における要因についての検討、そして検索段階における要因の検討を行った。
 この検討から3氏には目撃供述の正確さを阻害する、共通した多くの要因が関与していることが明らかになった。それらはまさに、第2章に示した要因と目撃証言の心理学が検討してきた他のいくつかの要因であった。これらの要因の介在が、3氏の供述調書の内容を、現実の事件の記憶とは似ても似つかないものに仕上げていったのである。

第6章では、
 3氏の声の認識に影響する諸要因を検討した。3氏は星野氏の声として、いくつかの言葉を記憶していたという。そこで、そのような記憶が正確かどうかを、耳撃の心理学研究を参考に検討した。この検討に際しては、現段階でもっとも優れた文献のレビューである、Yarmey教授の論文を参照しながら、3氏の耳撃に関わる諸要因を見つけ出し、その要因の耳撃に及ぼす効果を同定した。その結果、星野氏の声とする3氏の声の認識にはその正確さを阻害する要因が多く介在したこと、また声の記憶に関してもその正確さを阻害する要因が関与していたことが明らかになった。故に、3氏が星野氏の声として聞いたものは、星野氏本人のものであるとするには大いなる疑義が残る。

第8章 鑑定事項に対する回答

本件における鑑定事項は以下の通りであった。

(1)供述調書の鑑定(殴打関係)
 Kr勤氏の警察官調書及び検察官調書の全て、とりわけ下記警察官調書及び検察官調書に記載されている「星野文昭さんが中村巡査を殴打していた」との供述はKr氏の真実の記憶に基づくものであるのか否か。

(2)供述調書の鑑定(火炎びん投てきの指示関係)
 Ao達弘氏及びAr保久氏の警察官調書及び検察官調書の全て、とりわけ下記警察官調書及び検察官調書に記載されている「星野文昭さんが火炎びん投てきの指示をした」旨の供述は彼らの真実の記憶に基づくものであるのか否か。

(3)確定判決の鑑定(殴打及び火炎びん投てきの指示関係)
 確定判決(1983年7月13日、渋谷暴動事件控訴審判決・東京高等裁判所第11刑事部)の「理由」の「第二」の「四」の「2」の「(三)」の内、「(1)被告人星野の中村巡査に対する殴打」、「(2)被告人星野の火炎びん投てきの指示」が依拠する供述調書が、心理学的に正しい主張であると言えるのかどうか。

(4)最高裁特別抗告棄却決定の鑑定(星野文昭の特定に関する部分)
 最高裁特別抗告棄却決定(08年7月14日)は、Kr氏は後ろ姿、声で星野文昭と分かったと判断しているが、本件各証拠に照らして、心理学的知見からその判断は適切か否か。

鑑定結果
 以上の4つの鑑定事項に関して、今回の鑑定結果は3人に共通した供述を歪める多くの要因が関与したことから、彼らの供述内容はそれらが目撃に関わるものであれ、耳撃に関わるものであれ、彼らの真実の記憶に基づくものではあり得ないと言える。